第七話 好きに気づいてしまって 前
◇
「あっ!」
突然、びしゃっと赤茶色の水が飛んできて、俺はびくっと固まった。
「え?」
「ごめん庵野君! 大丈夫?」
考え事をしていて我に返った。美術室の、水道の前だ。
俺のクラスは一年で必修の美術がある。片付けで絵筆を洗っていて、隣で同じようにパレットを洗っていた女子が水道の水を盛大に飛ばしたらしい。
「大丈夫か、庵野? うわ、よりによって赤」
後ろから黒木が覗き込んできた。
言われて視線を落とすと、白いシャツと薄いグレーのカーディガンに大きな赤色の染みができていた。ブレザーは紺色だから多少飛んでも目立たない。ボタンを外して着ていたから、下のカーディガンとシャツに被害が大きくなってしまった。
「ほんとごめん! どうしよう」
水を飛ばしてきたのは澤島さんという大人しめの女子だ。いつも女子だけで固まっているグループで、目立って騒ぐ感じの子ではない。
俺を見て慌てていて、おろおろと水道の前で右往左往している。だいぶ動揺しているから、俺はいたって冷静に「大丈夫」と答えた。
「脱いで洗っとけば落ちるし、平気だよ。シャツの下にTシャツ着てるから」
「え? 洗う? でも……」
「寒かったら誰かにジャージ借りるから気にしないで」
今日はあいにくジャージ持ってきてないけど、多分黒木は予備で一着置いてるからロッカーにあるだろう。黒木のだとちょっと小さいかもしれないけど、シャツの代わりにブレザーの下に着るなら問題ないし。
澤島さんはまだ狼狽えていたが、そのとき前田が水道まで歩いてきて声をかけてきた。
「みずき大丈夫? 教室で俺のジャージ貸そっか? この前体育でほとんど着なかったから、俺置いてあるよ」
「いいの? ありがとう」
「Tシャツにブレザーはさすがに寒いでしょ」
「うん、助かる」
「俺のジャージは? いる?」
黒木もついでみたいな顔で聞いてきたから首を横に振った。
「前田のでいい。それならブレザーの上から羽織れるし。黒木のは小さい」
「ジャージ着て、ブレザー着て、ジャージ着ればよくね?」
「ジャージで挟む意味」
「ジャージ重ね着はさすがにシャバい」
俺と前田から同時にツッコミが入り、黒木はふっと笑った。
「風邪引いても恨むなよ」
と言い捨てて、何故かやりきった顔で去っていった。
「庵野君ごめんね、絵の具落ちなかったら言ってね」
と言う澤島さんに大丈夫と頷いて道具を洗い、ついでにカーディガンとシャツを脱いでしまってその場で軽く洗った。絵の具はほぼ落ちたけど、濡れた服は乾かす時間もないので美術の先生からビニール袋をもらって丸めて入れた。
教室に戻り、Tシャツとブレザーだけだとやっぱり寒かったから、前田が貸してくれたジャージを上から羽織ってみた。俺よりも一回り大きいジャージはブレザーの上から羽織ったら結構ちょうどいい。
これならあったかいし、家に帰るまで大丈夫だ。
「前田、ありがと。明日返すよ」
「体育あるときまでに返してくれればいいから。みずき次終わったらすぐ帰る? 一緒に帰らん?」
「いいよ」
幸い授業はあと一限だったので、先生達に格好を突っ込まれることもなく、大人しく座っていたら無事にHRまで終わった。
自転車の黒木とは道の途中で別れ、前田と一緒に帰りの電車に乗る。車内には帰宅の学生が結構いたから扉の近くに二人で立った。
あの仲直りした日以来、前田に誘われることが増えて、最近は結構一緒に帰っている。
「みずき、セーターなくて寒くない?」
「電車の中あったかいし大丈夫。着込んでても朝の方がもっと寒いし」
「まだあんな早く来てんの? すごいよな。俺最近たるんでてギリギリ攻めてるから気をつけよ」
「ギリだと、遅延とかあったら怖くない?」
「遅延なら堂々と遅刻してけるからいいじゃん。満員で乗りたくても乗れないときが一番焦るわ」
「遅刻の理由にならないもんね。俺は満員電車やだから、早く来てるっていうのもある」
図書委員の当番で帰りが遅くなるときは、電車が混んでいてぎゅうぎゅうで帰ることがある。
本も出せないし、リュックを前に抱えながら揺れに耐えつつ乗るのが地味に辛い。
「満員電車は俺もやだ。なんで、大学はバイクか車で行くって心に決めてます」
「バイク? ああ、その発想はなかった。郊外にキャンパスある大学ならOKかも」
「うん、マニュアル車取りたい。どうせ取るなら」
「マニュアル車ってなに?」
車のことはよくわからないから首を傾げる。
前田が答えようと口を開いたとき、電車が駅について扉が開いた。
降りる人と、乗ってくる高校生達のために入り口を広く空ける。
ふと顔を上げて、ここ先輩の高校の駅だ。と、思ったとき。
「あ」
本当に、先輩が開いたドアから乗り込んできた。
春川先輩が俺に気づく。今日は友達はいなくて、先輩一人だ。
「みずき、帰り?」
ふわっと笑った先輩が俺の近くまで来る。
「え? みずきの知り合い?」
前田が驚いて、そこで先輩が前田に視線を向けた。
「あ、友達と一緒だった。ごめん」
「先輩と帰りの電車被るの初めてですね」
「うん」
前田が誰? という顔で俺と先輩の顔を交互に見ているので、俺が簡単に紹介した。
「えっと、朝よく一緒の電車に乗ってる、春川先輩」
「中学のときの先輩……? こんなカッコいい人いたっけ?」
「ううん。高校で電車に乗るようになって知り合った」
「え? まじ? そんなことあるんだ。すごいね」
「先輩、こっちは同じクラスの前田です」
「ああ、前田くん」
先輩は前田を上から下まで見て、納得したように頷く。
「あれ? 俺のこと知ってるふう……」
「あ、えっと」
前田のことを相談した、なんて言いづらいな。
と思ったら先輩が俺よりも先に答えてくれた。
「みずきと一緒に電車乗ってるとこ見たことあったから。みずきから名前聞いてた」
「えーほんとですか? 同じ車両に乗ってました? 全然覚えてなくてすみません、いまめっちゃ覚えました」
「よろしく」
「しゃす!」
前田はさすがのコミュ力で、人見知りすることもなく普通に先輩と話している。
俺が最初に先輩と話したときのテンパり具合を思い出すな。
こんなイケメンが突然目の前に現れて動じないなんて、前田、お前ただ者じゃない。
俺が感心していると、先輩が「みずき」と話しかけてきた。
「なんでジャージ? 胸に前田って名前あるけど」
言われて自分の格好を思い出し、前田と顔を見合わせる。
「今日事故でシャツとカーディガン濡れちゃって。さすがに寒かったんで、前田にジャージ借りたんです」
「シャツとカーディガンを失ったみずきが哀れだったんで貸しました」
「……ふうん」
相づちを打った先輩の声がいくぶん低い気がして、俺はあれ? と思った。
ジャージを着ている俺の上半身をじろじろ見てくる先輩は、いつもより顔が硬い。
「中にTシャツ着てるの?」
「え、はい。寒いのでブレザーも着てます。前田のジャージ大きいから着てても見えないから変じゃないかと思って」
ジャージは首の下までファスナーで閉めたし、マフラーも巻いているから下にブレザーを着ててもわからない。裾もはみ出てないはずなんだけど。
「変なのはわかってるんで。寒いから脱げないんです」
「俺のカーディガン貸そうか?」
「え?」
先輩の美的感覚によるとダサいのかもしれないと思って寒さをアピールしたら、先輩が予想外のことを言う。
貸そうか……?
カーディガンって、先輩がいま自分のブレザーの下に着てるやつ?




