第96話 優しい切なさ
翌朝、桃花とケルベロスは目を覚ますと、まだ冷たさの残る空気の中、連れ立って朝一番に温泉へと向かった。
湯気の立ち上る露天に身を沈めながら、外に広がる清々しい朝の景色を堪能する。
昨夜の賑やかさが、まるで嘘のような静謐で豊かな時間だった。
言葉は多くなくとも、互いに満ち足りた気配がそこにはあった。
やがて二人は温泉を後にし、その足で昨晩女子会を開いた食堂へと向かう。
並べられた朝食は豪勢で、香りだけでも心が躍るほどだった。
昨夜とは違う穏やかな空気の中、二人はゆっくりと豪勢な朝食を味わい尽くす。
旅の疲れも、宴の余韻も、温かい料理と共に心身へと染み渡っていった。
満腹と満足を抱えたまま部屋へ戻り、身支度を整える。
そして、チェックアウトのために廊下を歩いてロビーへ向かって行った。
——その途中、ふと騒がしい声が耳に届く。
すると、ロビーの受付前にはフィオンの姿が。
彼女の前には、信繁と佐助もいる。
なんとフィオンは、今にも床に頭を擦り付けそうな勢いで、必死に頭を下げていた。
今にも土下座しそうな勢いである。
どうやら、昨日の女子会の件らしい。
昨晩の記憶がない彼女にとって、自身の狼藉は想像するに恐ろしいものなのだろう。
対照的に、信繁は相変わらず笑いながら「気にすんなよ!」と手を振っている。
隣にいる佐助も、困った様子を見せるどころか、柔らかな微笑みを浮かべて「フィオンさんの寝顔は可愛いですね」と余裕の表情を見せていた。
緊張と謝罪の空気に対して、二人の反応はあまりにも軽やかだった。
そのアンバランスさが、何とも言えない空気を漂わせている。
その光景を目にした桃花とケルベロスは、顔を見合わせて小さく頷くと、三人の元へゆっくりと歩み寄っていった。
「おはようございます」
「おっは〜♪」
二人の声に気づいた三人は、明るく挨拶を交わした。
「よぉ! おはようさん! 昨日はゆっくり眠れたか?」
「うん! すっごい寝心地が良かったよ! やっぱり畳っていいね! 部屋の雰囲気も良くて落ち着いたよ!」
「昨日はご馳走様〜♪ とってもいい夜だったわ♡ 流石ダンディね♡」
桃花とケルベロスが、信繁と和やかな言葉を交わす。
昨夜の余韻が、会話の端々に滲んでいた。
「お二人とも、おはようございます。昨日はどうも。ゆっくりとお過ごしできたようで何よりです」
佐助が丁寧に言葉を添える。
だが、その挨拶が完了した直後——
「と、桃花さん! ケルベロスさん! き、昨日は……ご迷惑をおかけしてしまい! 大変! 申し訳ありませんでしたっ!」
フィオンの焦燥に満ちた声がロビーに響き渡った。
顔を真っ赤にし、涙目で必死に頭を下げて謝罪するフィオン。
空気が一瞬で引き締まる。
「わ、私……最後の方から、何も覚えてなくて……。そして朝起きたら、なぜか自分の布団で寝てるし……。急いで起きて、信繁さんと佐助さんに昨日のことを聞いていました……」
その姿は見ている側まで胸が締め付けられる程であった。
あまりの恐縮ぶりに桃花は一瞬驚いたものの、すぐに表情を和らげ、優しい言葉をかける。
「フィオンさん! 大丈夫ですよ! 特に変なこともしてませんでしたし、全く気にしてませんから」
柔らかな声が、張り詰めた空気をほどいていく。
「アタシも全然、気にしてないわよ〜ん♪ むしろ、フィオンちゃんと一緒に飲めて楽しかったわ♪ というか、二日酔いになってないの?」
ケルベロスもいつもの調子で快活に笑う。
その飾らない言葉と明るさに救われたのか、フィオンは安堵の息を漏らした。
「……あ、ありがとうございますぅ。そう言ってもらえると救われます。久しぶりのお酒とご馳走でしたし、皆さんとあんな風にお話をするのも、凄く久しぶりでしたから……。とても楽しくて……」
フィオンの言葉には、素直な喜びと生活の厳しさが滲んでいた。
それを聞いた信繁は、ふと眉を上げる。
「フィオンちゃんよ。もしかして、金がねぇのか?」
唐突だが核心を突く問いだった。
「え? あ、はい……。その日暮らしみたいなものです……」
遠慮がちに答える彼女の様子を見て、信繁は即座に決断したように切り出した。
「おいおいマジかよ。金に困ってんなら、俺の宿で働いてみる気はねぇか?」
「え? わ、私が、信繁さんのところで?」
その瞬間、空気が少しだけ現実味を帯びた。
「おうよ! フィオンちゃんの薬屋を開店するまでの間でもいいし、開店した後も続けてもいいしな。どうだい? やってみねぇか?」
あまりにも自然に差し出されてきた手であった。
予想外の提案に、フィオンは戸惑いを隠せないでいる。
「え、え!? いいんですか!? いや、でも……そこまでお世話になるわけには……。ご迷惑も、かけたばかりなのに……」
厚意を受けたいという気持ちと、身の程を知る申し訳なさが心の中で激しくせめぎ合う。
その迷いを見て、信繁の隣にいた佐助が静かに口を開く。
「……フィオンさん。ノブもこう言ってますし、この話をお受けになってはいかがですか?」
優しさのこもった言葉だった。
「これから薬屋を営むのであればお金も必要でしょう。それに、今後のフィオンさんの生活もあります」
「……」
フィオンはじっとその言葉を聞いている。
「体を壊されては元も子もありません。それに従業員なら賄い料理も出ますし、温泉だって入れますよ」
佐助の説得にフィオンは揺れる。
恩人に迷惑をかけた上、更に世話になるのか、という自責の念が拭えないでいる。
この申し訳なさは、簡単には消えない——
だが、そんな彼女の背中を押すのは、ケルベロスの突き抜けるような一言であった。
「いいじゃない! 受けなさいよ♪ 人間関係や商売も全ては、持ちつ持たれつよ♡ 変に遠慮する方が、かえって失礼や迷惑になることもあるし♪ せっかくフィオンちゃんをスカウトしてるんだからさ♡ 思い切っていきなさいよ!」
ケルベロスの言葉が、迷いを断ち切るように響く。
軽やかだが、説得力のある口調でもあった。
「おおっ! やっぱり俺とケルちゃんって気が合うんだな! 俺が言いたい言葉を、すかさず言ってくれるんだからよ! そうだぜフィオンちゃん! 俺んとこ来いって! フィオンちゃんなら大歓迎するぜ!」
信繁の豪快な笑い声も後押しする。
その笑いは、不安を一気に吹き飛ばすような明るさを持っていた。
そしてフィオンは小さく息を吸い、決意する。
「……は、はい……。では、お言葉に甘えさせていただきます。ふ、不束者ではございますが……。ご指導の程、よろしくお願いいたします!」
声は震えていたが、その中には確かな意志があった。
「よっし! そんじゃ決まりだな! でも薬屋の準備もあるだろうから、まずはそっちを優先しな! 時間がある時にでもこっちで力を貸してくれや! よろしく頼むぜ!」
「はい! お気遣いいただき、ありがとうございます! 全力で頑張ります!」
「ウフ♡ 決まりね♪ 良かったわねフィオンちゃん♪」
フィオンの清々しい返事を聞き、信繁と佐助は満足げに頷く。
桃花の足元では、ケルベロスも嬉しそうに尻尾を振っている。
これからの生活への不安が、少しずつ和らいでいくフィオンの表情には、安堵の光と希望が宿っていた。
その光景を見ていた桃花は、胸の奥から湧き上がる温かさに、ほんわかとした気持ちが広がっていく。
そして、誰にも聞こえない程の小さな声で、彼女はそっと呟く。
「……やっぱり信繁おじちゃん。昔からずっと変わらないんだね。豪快で優しい……あの時のまま……」
信繁を見つめる桃花の瞳には、憧れや尊敬だけでは割り切れない、深く静かな感情が揺らめいている。
彼を想う気持ちは、今も確かにそこにある。
まだ消えきらない想い。
それは、少しの寂しさと切なさを伴いながらも、かけがえのない喜びとして、彼女の心にそっと灯り続けていた……。




