第94話 幸せになる勇気
「あれね〜。実は嘘だったの♪ あのバカクマが金輪際、一切悪さができなくなるよう、生き地獄の崖っぷちに追い詰めるためのね♡」
あまりにもあっさりとした告白だった。
ケルベロスは世間話でもするかのように「テヘッ♡」と舌を出し、愛嬌たっぷりに「ごめんね♡」と言いながらウィンクをしている。
「えー」
桃花は驚きを隠しきれず、そのまま顔に表れてしまう。
徒労感にも似た余韻が、彼女の胸を締め付けた。
しかし、フィオンはそれだけでは納得がいかない様子。
彼女は、鋭い視線をケルベロスに向け、核心を突くように問いを重ねる。
「ですが、私はあの時、人間の魔法使いとケルベロスさんの魔力、この二つの魔力を確かに感知しましたよ!」
フィオンの瞳には、まだ霧が晴れないような戸惑いがある。
魔法の感知は、エルフである彼女の専門領域だ。
その事実に偽りはないと、彼女は確信している。
ケルベロスは、そんな彼女の反応を予測していたかのように、ゆっくりと答えていく。
「正確に言うと、あれは “半分が嘘” で、“半分が本当” ってところかしら」
「嘘と本当が、半分?」
フィオンは眉をひそめる。
理解が追いついていない表情だ。
その疑問を吹き飛ばすように、ケルベロスは言葉を続けていく。
「あ、でもね、あのバカクマに魔法を使ったのは本当よん♪」
軽く付け足されたその一言が、小さな混乱を招く。
「で、では、クマさんには別の魔法を使っていた……ということですか?」
慎重に言葉を選びながら、フィオンは確認する。
「そうよ。簡単な魔法だけどね。もしアイツがまた悪さをしようとしたら、“アタシのことを激しく思い出す” みたいな軽い程度のものよ♪ 相手の五感を支配して操るなんて、そんな超強力な魔法、アタシには使えないわ」
ケルベロスは、あっけらかんと説明した。
そして自分に出来ることと、出来ないことの境界線を明確に告げる。
クマに施したのは、高位の精神操作などではなく、あくまで心理的な「牽制」程度のもの。
魔族でも、相手の深層心理や感情を完全に制御する魔法は扱えない。
そのことに、フィオンもようやく得心がいったのか、小さく息を吐いた。
そんな重苦しい魔法の話が、一旦の区切りを迎えたところで、桃花が心に引っかかっていた別の問いを投げかける。
「……ねぇ、ケルちゃん。クマさんの匂いの方ならどうかな? 匂いでも追えるとかって、さっき言ってたよね? この熊肉があのクマさんのかどうかって、わかる?」
ケルベロスなら、その鋭い嗅覚で真偽を判別できるのではないか。
そんな淡い期待があった。
しかし、戻ってきた返答は、彼女の期待を優しく否定するものだった。
「……アイツの匂いはわかるけど、ここまで調理されてしまったら、ちょっとわからないわ。調味料や野菜なども入ってるし、しかもかなり丁寧に料理もされてるから」
「そっか……」
「ごめんなさいね」
「あ、違うよ、ケルちゃんを責めてるんじゃないんだ。私の方こそ、ごめんね」
ケルベロスの謝罪に、桃花はすぐに首を横に振った。
互いに気を遣い合う空気が、少しだけ柔らかさを取り戻す。
そして視線を落とし、桃花は目の前の料理を見つめる。
するとケルベロスは、少し真面目な声色で、けれどどこか温かみのある言葉を紡いだ。
「……でもね、こんなにたくさんの料理を出してもらって、メインの熊鍋だけを食べないのは流石に失礼だと思うの。この熊肉がアイツであろうとなかろうと、そういう理由でこれを残すのは、ダンディたちや殺された動物たちに対しての冒涜になるわ。魔族のアタシが冒涜とか言うのは……ちょっと変な話だけどね」
桃花の心に、ケルベロスの言葉が波紋のように広がっていく。
「……ううん。でもそうだね。ケルちゃんの言う通り、他の熊だったら気にせず食べてもいいのかって、そういうことになるもんね」
単なる「目の前の肉」ではなく、その背景にある命と、提供してくれた人々の厚意。
それに気づいた時、彼女の肩から力がふっと抜けていくのを感じた。
「……桃花さん。ケルベロスさん。この場は、楽しい女子会のはずですよね? 今は信繁さんや六郎さんたちのご好意を、ここでしっかりと受け取りましょう」
フィオンの言葉が静かに、そして力強く、その場の方向を決定づける。
その一言で、空気が切り替わった。
張り詰めていた空気がスッと霧散し、桃花の表情がパッと明るく差し込む光のように晴れ渡った。
「ありがとうフィオンさん。確かにそうですよね。少しだけ、元気が出てきました」
「うんうん♪ やっぱりこういうのは、パーっと明るく楽しくいかないとね〜♡」
ケルベロスの明るい一言に呼応するように、桃花とフィオンの声色も、先程までの陰鬱さが嘘のように弾み、活力が戻ってくる。
「ま、あのバカクマのことだから、どうせ上手くやってるわよ。アタシと桃花ちゃんであれだけ叩きのめしても、最後までケロッとしたたんだから。心配するだけ無駄無駄よ♪ 悪運の強さだけが、アイツの取り柄みたいなものでしょうし♡ それに、後でまたGPSで動きを確認すればいいしね〜♪」
楽観的な言葉。
だが、それが今はちょうどよかったのだろう。
「……た、確かにそうだよね! ケルちゃんの言う通り、クマさんのことはキッパリと綺麗に忘れて! みんなで楽しく、ご飯食べることが弔いだよね! うん!」
「はい! そうしましょう! もう早く食べたくて食べたくて! 私、死んじゃいそうですよぉ……。これでやっと! まともな食事にありつけますじゅるり!」
二人の屈託のない笑顔を見て、ケルベロスは少しだけ呆れたように、けれど嬉しそうに目を細める。
「弔いって……。というか、アタシは別に、あのバカクマのことを忘れろとまでは言ってないし、この熊肉がアイツだとも言ってないんだけど……。まぁ、いっか♪ 忘れましょ♡」
さっきまでの重い空気はどこへやら、三人の間には再び心地よい賑わいが戻り始めていた。
するとそこへ、絶妙なタイミングで六郎がやってくる。
手には、先ほど追加注文した例の「バカバケツ」が握られていた。
「お待たせしましたフィオンさん! こちらが追加の、バケツサーフィンイケイケウイスキーロック『夏の陣』です! どうぞ!」
「六郎さん。ありがとうございます! あ、また同じものを追加でお願いできますか?」
たった今、持ってきたばかりだというのに、間髪入れずの追加注文。
「か、かしこまりました! 少々お待ちくださいねフィオンさん!」
六郎が再び笑顔で厨房へと消えていく。
その直後、ケルベロスは心底信じられないといった様子で、フィオンに食ってかかる。
「はぁ? アンタ、また同じもの頼んだの!? 今、新しいお酒持ってきたばかりじゃないの! たった今注文したものと合わせたら、もう3杯目よ!? そんなペースで飲んでたら、アンタバカになってアル中で死ぬわよ!?」
ケルベロスの鋭いツッコミが炸裂した。
しかし、そんな忠告など馬耳東風。
フィオンは澄ました顔でバケツを傾ける。
「食前酒ですってば〜」
「だから食前酒の量じゃないっての!」
必死のツッコミも虚しく、フィオンは豪快にウィスキーを喉へと流し込んでいく。
その横で——
桃花だけは、すでに食欲という名の本能に従い、目の前の料理へと勢いよく手を合わせていた。
「いただきますじゅるり!!」
その一言とともに料理へと箸を伸ばし、とても幸せそうに食べ始めていた。
その顔に、もう迷いはない。
食べて。
飲んで。
騒ぐ。
そんな奔放な二人の様子を、ケルベロスは呆れつつも、どこか楽しげに、ただ黙って眺めていた。




