第92話 女神の悪戯
乾杯の前に、各々が注文した飲み物を手に持つ。
その中で特にイカれた存在感を放っていたのは、やはりフィオンが注文した飲み物だった。
無骨な鉄のバケツに入っている溢れんばかりに満たされた大量の氷と、琥珀色のウイスキー。
それを清廉なエルフの美少女が、華奢な両手で重そうに持ち上げている。
その姿は、どこからどう見ても異常であった。
周囲の席にいる一部の客たちからも痛いほどの注目を浴び、「あれに一体何が入っているんだ!?」という、ざわついた空気が広がっていた。
そんな視線を気にすることもなく、どこ吹く風と受け流し、ケルベロスが両手で大ジョッキを高く掲げ、元気よく乾杯の号砲を鳴らした。
「それじゃ、いくわよん! 女子会開始よー! かんぱーい!」
「「かんぱーい!」」
ケルベロスの音頭に合わせて、桃花は愛らしいピーチレモネードのグラス。
フィオンは大量の氷とウイスキーが入った凶悪な重量の鉄製バケツ。
それらを掲げ、三人の飲み物をガチンと当てて乾杯する。
グラスで飲む桃花の姿は、至って平和な光景だ。
犬の姿で大ジョッキを煽るケルベロスも、普通に見て異様ではある。
けれど、こんなことは桃花にとって日常の範疇。
周りの客も当然ガッツリと見ているが、百歩譲っていいとしよう。
だが一人だけ、巨大なバケツを両手で持ち、豪快に顔を突っ込み、浴びるようにしてウイスキーを飲んでいるフィオンの姿は、控えめに言っても異常な光景であった。
他の客たちも、このような意味不明で豪快すぎる飲み方は、おそらくこれまでの人生で一度も見たことはないだろう。
ざわめきすら消え、誰もが箸を止め、ただ釘付けになってその様子を見守っている。
そしてケルベロスと桃花は、最初の一口目を飲み、グラスとジョッキから口を離した。
「ぷはー! やっぱりビールはキンッキンに冷えてるのが一番美味しいわよね〜♡」
「ケルちゃん。ホント美味しそうに飲むよね。不思議と、私も飲んでみたくなるような魔力があるもん」
「ウフ♡ 桃花ちゃんはまだダーメ♪ これは、オ・ト・ナの味だから♡ きっとお口に合わないわよ〜ん♪」
「でも昔、おじいちゃんとおばあちゃんが飲んでるのを、ちょぴっとだけ味見したことあるけど、すっごく苦い味したからなぁ……。今は、まだ飲まなくてもいいや」
二人がそんな微笑ましい会話をしている間も、フィオンはまだバケツを傾け、喉を鳴らしながらゴクゴクと底知れぬ勢いで飲み続けている。
「……」
「……」
ふと、その尋常ではない飲みっぷりを見た桃花とケルベロスは、会話を忘れ、そのまま黙ってフィオンの「作業」を凝視していた。
そして、ようやく息継ぎをするようにバケツをテーブルへ置くフィオン。
だがそのバケツの中身は、ゴロっと虚しく音を立てる氷だけしか残されていなかった。
あれほど並々と入っていたウイスキーが、完全に空となっている。
軽く二リットル以上は入っていたであろう、アルコール度数四十%超えの強烈な液体を、なんとこの女は一気に、まるで呼吸をするかのように軽々と飲み干してしまったのだ。
「……っくはー! 美味しいっ! 久しぶりに体の中へとアルコールが沁み渡っていきます〜! あ、同じものをもう一回頼んでもいいですか?」
「……」
「……」
あまりの出来事に言葉を失う桃花とケルベロス。
そんな二人に構わず、フィオンは更なるおかわりを要求する。
それを見たケルベロスは、少し焦ったような、そして深い呆れを含んだ目でフィオンを見つめ、一言ポツリと漏らした。
「……アンタ飲み過ぎ。しかもそれ、ウイスキーのロックよね? 後で絶対ヤバいことになるわよ? わかってる? 下手すりゃ致死量よ?」
「食前酒ですよ〜」
「食前酒の量じゃないわよ!」
まだまだイケると満面の笑みで豪語するフィオンの言葉に、ケルベロスは鋭く激しいツッコミを入れる。
するとそこへ、まだ頼んでいないはずの料理が次々と運ばれてきた。
「あ、あれ? 六郎君。これって? まだ料理の注文はしてないはずだけど……?」
桃花が怪訝な表情で尋ねる。
「はい! こちら全てノブさんからです! お召し上がりください! まだまだ持ってきますので、楽しみにしていてくださいね!」
先程の少年店員の六郎が、弾けるような笑顔で料理が乗った皿を持ってきた。
若鶏の唐揚げ。
山盛りのポテトフライ。
彩り豊かな和風サラダ。
そして、何の魚かよく分からない妙に艶やかな刺身の盛り合わせ等。
他にもたくさんの料理を、次から次へとテーブルの上に並べ、一瞬にして豪華な美食の山へと変貌した。
「こ、こんなに!? いくらなんでも、信繁おじちゃんサービスしすぎだよって!」
「あら〜ん♡ ダンディったら〜こんなに〜? 太っ腹にも程があるわ〜♪ 流石、アタシが目をつけた男だけあるわね♡」
あまりにも多種多様なご馳走に、桃花は驚きを隠せないでいる。
隣のケルベロスも、豪快な信繁の男気に、うっとりとした表情を浮かべていた。
一方、フィオンはというと……。
「こ、これ……全部、食べていいんですか!? まさか……毎日、食パンの耳しか食べられない生活から、こんなにも豪華な食事にありつける日がくるなんて! ゆ、夢のようですよぉ……グスッ。生きてて良かった……。諦めなくて良かった…………ううっ」
感極まった彼女は、嬉しさのあまりポロポロと大粒の涙を流しながら大喜びしている。
その顔は微かに綺麗な紅色に染まってきており、アルコールの回りも手伝ってか、すでにもう出来上がっているようにも見えた。
その哀愁漂う極端な様子のフィオンを見た二人は、戸惑いながらも優しく声をかける。
「……アンタ、ずっと苦労してきたのね……というか、もう酔ってるのかしら?」
「フィオンさん。今日はたくさん食べて飲んで、いっぱい話して楽しもうね……。というか、もう酔ってます?」
桃花は袖の中からハンカチを取り出し、泣いているフィオンへ差し出す。
少し感動的で、ちょっと変な空気が流れていた……その時。
ついに最後の料理が、六郎によって運ばれてきた。
それは、年季の入った大きめの土鍋。
鍋の蓋が開けられる直前、六郎は一番の元気を込めて料理の名を告げた。
その料理名は——
「お待たせしました! こちらが最後の料理になります! つい先ほど仕留めたばかりの新鮮な熊肉を使用している当店自慢! 特製『熊鍋ヒャッハー機動戦士世紀末女々しくて男はツラいよダイナマイトボンバーデストロイ熊鍋』です!」
「「「!!!」」」
六郎の威勢のよい声から飛び出してきた、このあまりにも衝撃的で、あまりにもツッコミどころが満載な料理名。
その瞬間、三人は一気に表情を凍らせる。
脳裏に過るのは、つい先程までバカみたいにやかましく騒ぎ立て、命乞いをしていた、あの巨大なクマの姿。
偶然という名の悪夢か、あるいは気まぐれな女神の悪戯か。
それとも、これは避けられぬ因果の結末なのか。
立ち上る芳醇な湯気の向こう側で、三人はただ言葉を失うことしかできなかった。




