第90話 忍
温泉の湯気がまだわずかに残る廊下の一角。
そこには四人の輪が、静かに形を成していた。
柔らかな灯りが畳を照らし、揺れる影がわずかに呼吸するように伸び縮みする。
その穏やかな空間の奥底に、言葉にはならない緊張と、これから何かが明かされる予感が淡く漂っていた。
「ねぇ、お姉さん……。アンタ、ただの客って感じじゃないわね。何者かしら? さっき温泉で会った時、アタシ鳥肌が立ったわよ」
ケルベロスの問いは軽やかでありながら、その実、鋭い刃のように核心へと触れていた。
冗談めいた声音の奥に、確信めいた違和感が潜んでいる。
その女性は、ほんの一瞬だけ目を細めた。
だが動揺は微塵もなく、流れるような所作で静かに立ち上がる。
一歩。
その動きだけで、場の空気がわずかに引き締まった。
「……申し遅れました。拙者、隣にいるこの男……真田 信繁に仕えている、名を『猿飛 佐助』と申します。以後、お見知りおきいただけますと幸甚です」
凛とした声。
丁寧で柔らかいはずの言葉が、不思議と隙を許さない。
その名は、ただの自己紹介でありながら、まるで遠い時代の記憶を呼び起こすように、静かに重みを伴って響いた。
空気が一段と引き締まっていく。
ケルベロスは小さく頷いた。
そして納得と同時に、どこか愉しげな色を宿した視線を向ける。
「猿飛 佐助……なるほどね〜。アンタ、ダンディの『真田十勇士』の『忍者』だったわけね。どおりで、アタシが気配を全く感じられないはずよ〜。納得だわ」
忍び——
地獄の番犬の嗅覚すら欺き、矜持を上回るその隠密の技量に、ケルベロスは敵意ではなく、純粋な感嘆と称賛の念を抱いていた。
張り詰めかけた空気が、彼女の軽やかな口調によって、ふっと緩む。
桃花はそのやり取りを見つめながら、わずかに眉を寄せた。
「真田十勇士って何? 信繁おじちゃんの仕事仲間ってこと?……っと、その前に、私の名前は桃花です。よろしくお願いします」
「あら、失礼。まずは自己紹介よね。アタシの名は、地獄の番犬ケルベロスよ♪ 魔族で〜す♪ ヨロシクねぇ〜ん♡」
佐助は桃花の真っ直ぐな瞳と、ケルベロスの奔放な空気感を静かに受け止める。
「はい。宜しくお願いいたします。桃花さん、ケルベロスさん。先程は拙者、本日の業務終了後に、そのまま温泉へと浸かっていました。驚かせてしまい、申し訳ありません」
丁寧な謝意。
優雅に微笑むその姿勢には一切の無駄がない。
この落ち着きに桃花は少しだけ、クッと背筋を伸ばす。
すると、そのやり取りを見ていた信繁は、桃花に対してあることを尋ねる。
その彼の声は軽く、どこか笑いを誘うような雰囲気があった。
「なぁ、桃花ちゃん。佐助のこと覚えてないか? こいつ、今回が初めてみたいに自己紹介しやがったけど、昔に桃花ちゃんと何度か会ってるんだぜ」
「……え? 私と、猿飛さんが?」
突然の振りに、桃花は眉を寄せながら、幼い頃の記憶を「う〜ん」と唸りながら辿っていく。
だが、頭の中で過去を振り返ってみても、この美しい女性の姿が鮮明に浮かんでくることはなかった。
期待と不安が交錯する中、彼女は言葉を探す。
「……えっと、ごめんなさい……。思い出せないです」
桃花は、申し訳なさと気まずさで、小さくなって俯いてしまう。
すると、その様子を見た佐助は、スッと冷ややかな視線を信繁に向け、小さく溜め息をつき、呆れたようにぼやいた。
「……はぁ、もうノブ……。せっかく気を遣って拙者が自己紹介をしたのに……全部台無しだよ。もしかしてわざとやってるのか? ほら、見てみなよ。桃花さんが困ってるじゃないか」
「え……?」
先程までの丁寧な口調から一転。
信繁に対して、佐助の発した「ノブ」という、あまりにも親密な呼び方を聞いた桃花は目が点になり、きょとんとした表情を浮かべる。
それは主人であるはずの信繁に対する、遠慮のない態度に驚いたものでもあった。
そして同時に焦った信繁は、般若のように冷たく睨みつけながら攻め立ててくる佐助を必死に宥める。
「ちょちょっ、おいおい! 悪気はないんだって! もしかしたら覚えてるかもと思って、ただ聞いてみただけじゃんか! そんな怒んなよ!」
「別に怒ってはいない。呆れてるだけだよ」
どこか意味深で棘がある。
そんな淡々とした冷たい声で切り捨てる佐助と、タジタジになるかつての豪傑。
その力関係の逆転を見た桃花は、主従のようでもあり悪友のようでもある信繁と佐助を交互に見て、あたふたと視線を彷徨わせている。
小さな笑いが漏れそうではあるが、まだ緊張が完全には解けていない雰囲気が、その場には残っていた。
「桃花ちゃんが小さい頃な。俺と一緒に、佐助も何度か行動してたんだよ。ま、たま〜にだったけどな」
ここで信繁が、苦しい言い訳のように情報を付け加えてきた。
「え? う〜ん……。でもさ、信繁おじちゃんと一緒にいる人って、たくさんいたよね? 誰のことだろう?」
だが、あまりピンときていない反応の桃花。
指を顎に当てて、唸りながら首を傾げている姿はどこか微笑ましい。
曖昧な記憶の奥底を探っているその表情。
思い出そうとする仕草が、彼女の無垢さを際立たせる。
ぼんやりとした影のような存在。
記憶の糸を手繰っても断片がふわりと漂うだけで、確かな像にはならず、靄がかかったままだ。
「覚えていないのは無理もありません。何年も前のことですからね。大変失礼いたしました。……なので、ここで改めての自己紹介とさせていただきました。どうかお気になさらず」
佐助は桃花に向き直ると、再び柔らかな声色に戻り、気遣うように微笑む。
安堵の色が一瞬で広がり、場の空気も柔らかく戻っていく。
「そ、そうでしたか! では、こちらこそ改めまして、宜しくお願いいたします。もう大丈夫ですっ! 忘れませんっ!」
佐助の気遣いに救われ、そう力強く言って桃花は、心からの誠意を込めて深々と頭を下げた。
彼女の真摯さが、周囲の心を和らげていく。
「こちらこそ……何卒、宜しくお願い申し上げます」
佐助も姿勢よく桃花に向かい、一点の乱れもない所作で綺麗にお辞儀を返す。
二人の間に、ようやく正式な縁が結ばれた瞬間だった。
この少し気まずくなりかけたタイミングで、信繁は空気を切り替えるように、両手を体の前に出し、パン!と勢いよく手を叩いた。
「よしっ! そんじゃ、自己紹介も済んだってことで! 桃花ちゃんとケルちゃんはよ。この後、フィオンちゃんと女子会って話だったろ? やる場所は決まってんのか?」
「え? いや、まだ場所は決まってないんだ。だからこれからお店を探す予定だよ」
「場所が決まってねぇならここでやれよ。飯食う場所だってあるし丁度いいじゃん! 美味いもん、たらふく出してやるぜ! 飲み食いは全部俺の奢りだ! 好きなだけ飲んで食ってけや!」
「いや〜ん♡ もてなしてもらえるの? しかもダンディの奢りって、至れり尽くせりじゃないの〜♪ イイ男はやることも派手だわね〜♡」
信繁の太っ腹な言葉を聞いたケルベロスは、嬉しそうにパッと目の色を変えていた。
「え!? でも、そんな悪いよ、急に来た私たちに奢ってくれるなんて。それに信繁おじちゃん忙しいでしょ?……そこまでしてもらうのは……」
その景気の良い話を聞いた桃花だったのだが、宿屋の主人としての立場を思いやり、申し訳なさそうに尋ねる。
そんな遠慮がちに戸惑っている彼女に対し、信繁は豪快に笑い飛ばす。
「いや、実は俺、全然忙しくねぇんだわ。でも別に暇ってわけじゃねぇよ? というか、久しぶりに桃花ちゃんと会ったんだから、もてなさないわけにはいかねぇだろ! 再会を祝してってやつだよ! だから遠慮なく受け取りな! 厨房の料理長には俺から話つけとくぜ!」
「あ、ありがとう信繁おじちゃん。でも、私からは何もあげられないのに、そんな……」
豪勢なおもてなしに対して、やはりまだ遠慮がちな桃花。
子供の頃の顔見知りとはいえ、これほどの厚遇を受ける理由がないと思ってしまうのだ。
一方、ケルベロスはというと、そんな遠慮など全くお構いなしで、その好意を受け取る気満々。
「桃花ちゃん! このダンディがここまで言ってくれてるんだから、遠慮はしないで豪快に受け取りましょ♡ それがこの場での礼儀でもあるわよん♪」
「そうだぜ桃花ちゃん! ケルちゃんの言う通り、遠慮せずに受け取ってもらえると俺も嬉しいんだわ! だから気にすんなって! な?」
二人に背中を押され、桃花は少し戸惑いながらも、ふっと表情を緩めた。
「……そう? うん。それじゃ、そのご好意に甘えて、ありがたく受け取るね!」
「おうよ! 任せとけって! そんじゃ、時間まで部屋でゆっくりくつろいでな!」
「それでは桃花さん。ケルベロスさん。この後も、ごゆっくりとお過ごしください」
豪快に笑う信繁と、静かに一礼する佐助に見送られながら、二人はその場を後にする。
そして立派な廊下を歩きながら、自分たちの泊まる部屋へと戻っていく。
フワフワになった毛並みを揺らしながら、ケルベロスも楽しそうにステップを踏んでいる。
襖を開けて静かな部屋に入ると、桃花は「ねぇ」とケルベロスに対して声を上げた。
「……ケルちゃん。ここで女子会するってこと、フィオンさんにも伝えないとね」
「そうね。少し部屋でゆっくりした後、伝えに行きましょ♪」
温泉の余韻。
再会の余韻。
温かいもてなしに心を弾ませながら、いよいよ始まる「女子会」。
それに向けて、二人は畳の上で羽を伸ばすのだった。




