第89話 ミステリアスな……
「あ……さっきの綺麗な女性だよ」
「あら? 本当ね。それに、信繁ダンディも一緒にいるじゃな〜い♡」
そこには、先ほど浴場で見かけた女性と、宿の店主である信繁が親しそうに会話を交わしていた。
女性は湯上がりの浴衣を端麗に着こなし、長く艶やかな黒髪を後ろで一つに結んでいる。
スラリとした背筋。
ただ座っているだけなのに、一本の抜き身の刀のような凛とした静謐さを纏っていた。
その佇まいには、どこか隙を感じさせない雰囲気も漂わせている。
すると、桃花たちの視線に気づいた信繁が「おーい!」と豪快に手を振って声をかけてきた。
「よう、お二人さん! 温泉はどうだったよ? めっちゃ良かったろ!」
「うん! すっごく良かった! もう何回でも入りたいくらいだよ!」
「そうね〜♪ アタシなんて湯船で浮きながら、つい寝ちゃったくらいよ〜ん♡」
とても嬉しそうに感想を話す二人を見て、信繁は我が事のように満足げな笑顔で応えた。
「そうだろう! 俺がそれなりに苦労して掘り当てた源泉だからな! ここにいる間は何回でも、好きなだけ堪能してくれ!」
「ありがとね! 信繁おじちゃん!」
「ウフ♡ ありがたいわ〜! そういえば、さっき入れ違いでモンキーちゃんが温泉に入っていくのを見たわよ。随分と小慣れた感じだったわね」
「お、そうだったか! 猿にもけっこう人気があってな! 時折、遠方から団体で押し寄せてきて、てんてこ舞いになることもあるくらいなんだぜ」
信繁が自慢げに語る。
おそらく、この宿の名物なのだろう。
壁に目をやれば「猿と混浴可」という、突っ込みどころ満載の張り紙が堂々と貼られている。
そこには、信繁が猿と仲睦まじく入浴する写真や、筋骨隆々での肉体美を惜しみなく晒け出す写真。
そして、素っ裸になった信繁の「大事な部分(股間)」を、足元にいる猿が見事に風呂桶で隠している写真など……。
なんともシュール極まりない、ギリギリで際どいにも程があり過ぎるサービスショットまでもが展示されていた。
更に驚くべきことに、その信繁が巨大なゴリラに背中を流してもらっている写真まで……。
流石は元武将だけはあると、そう思わされてしまう豪快すぎる写真だった。
それらを見つけてしまった桃花は、その衝撃的な「漢」の記録(体)に、顔を真っ赤にしながらも、食い入るようにガン見していた。
「ま、次に温泉で猿どもに会ったら仲良くしてやってくれよ! オス猿とメス猿でしっかり分けてるから、そこは安心していいぜ」
「うえっ!? う、うん!? 安心できるような、できないような……?」
桃花は少し引きつった表情を浮かべながらも、ここ最近の非日常な出来事の連続に、もう細かいことは気にしないことにした。
「ふふっ、お嬢さんとワンちゃん。先程はどうも。ゆっくりできましたか?」
鈴の音のように透き通った声で、柔らかく話しかけてきたのは、温泉の洗い場でほんの少しだけ一緒になった女性だった。
浴衣姿になっても、その内側から滲み出る気高さは一切損なわれていない。
「あ、はい。とてもゆっくりできました……あの、先程は失礼しました。周りも見ずに騒いでしまって……」
「アタシも、ごめんなさいね。温泉は初めてだったから、ついはしゃいじゃったわ」
桃花とケルベロスが居住まいを正すと、女性は優雅に微笑みを返した。
「いいえ、お気になさらず。楽しんでもらえて何よりです」
その余裕のある仕草と落ち着き払った美しい雰囲気に、二人は呼吸を忘れて一瞬見惚れてしまう。
だが、和やかな空気が流れる中、ケルベロスの直感だけが静かに警鐘を鳴らしていた。
あまりにも洗練された所作。
自然体に見えて、いつどこから襲われても対応できるような、完成された静寂。
そこに、ほんの僅かな違和感を覚えていたケルベロスは、まっすぐに女性の目を見据えて問いかけた。
「……ねぇ、お姉さん……。アンタ、ただの客なのかしら?」
「ケルちゃん?」
突然の鋭い問いかけに、少々戸惑った桃花は声を漏らす。
ケルベロスの思いがけない反応に、少し意外な表情を見せた信繁とその女性。
ロビーを流れていた湯上がりの暖かな空気が、再び静かな緊張感へと変化していく。
女性はわずかに目を細め、その鋭い疑問に対して、隠すことなく丁寧に返答する。
「……はい。あなたのおっしゃる通り、拙者はこの宿の客人ではありません」
その声から柔らかな余韻が消え、硬質な響きが宿る。
女性が、すっと僅かに姿勢を正した。
「この宿「六文銭」の給仕者——いえ、正確には……」
柔らかさのあった瞳の奥に鋭さが光る。
そして一拍置いた後、静かに口を開いた——




