第88話 モンキーマジック
白く霞む視界の向こうで、湯面がゆらゆらと揺れている。
体の芯まで温まり、熱を帯びた肌からは、旅の道中で蓄積された疲労がじんわりと溶け出していくようだった。
「……ねぇ、ケルちゃん。私、そろそろ上がるけど、どうする? まだ入ってる?」
湯気がふわりと立ちこめるの中、湯船に肩まで浸かりながら、桃花はとろけそうに力の抜けた声で首を傾け、ケルベロスへ問いかけた。
「ん〜? あらそう?……じゃ、アタシも上がろうかしら〜♪」
ケルベロスも目を細め、名残惜しそうに湯を撫でるように、ゆっくりとした動作で湯船から体を起こす。
その動きで、水面が静かに波紋を広げていった。
「ケルちゃん……この後、“一杯”やっちゃいますか〜?」
桃花はニコッとイタズラっ子のような笑みを浮かべ、指先をクイッと曲げて飲む仕草をしてみせた。
紅葉への心配で少し重くなっていた空気を、自ら払拭するように明るく振る舞う。
「ウフ♡ いいわね〜。お風呂上がりの“一杯”は、この世の贅沢♡ 堪んないわよねぇ〜ん♪」
ケルベロスもその意図を汲み取ったかのように、楽しげに尻尾を揺らしてノリ良く応じた。
軽やかなやり取りが、沈みかけていた空気を自然と引き上げていく。
「ケルちゃん。一応聞くけど、私が言ってる意味……わかってるよね?」
「牛乳のことでしょ? わかってるわよ〜ん♪ お子様にお酒は、まだ百年早いものね♡」
「……またお子様って。ぐっ、聞くんじゃなかった……! ってか百年は長すぎるよ! あと四年くらいで飲めるようになるって!」
見事にいなされ、桃花は悔しそうにプクッと頬を膨らませた。
軽口を叩き合える日常の温もりが、湯気とともに二人の間を満たしていく。
そう言いながら湯船から上がり、洗い場で火照っていた体を流し始めた……その時だった。
ガラガラ——
木製の引き戸を開ける音が、湯気の向こうから鈍く響いてきた。
新たな客が浴場へ入ってくる気配。
桃花は音が聞こえた方へと顔を向け、視線を巡らせるが、そこには「人影」らしいものが見当たらない……。
だがその瞬間、ふと視界の端の下で何かが、サッと動いたのが見えた。
桃花は驚いて、咄嗟に動いた方向へと視線を落とす。
すると——
「んえあっ!?」
「……あら? モンキーちゃんだわ♪」
そこには一匹のメス猿。
ケルベロスの声に重なるように、その猿は慣れた足取りで桃花の横を、スッと通り抜けていく。
小さな体で、何事もないように浴場を歩いていた。
その動きには一切の迷いがない。
初めての場所を探る様子もなく、まるで何十年も通い詰めた常連客のように、そのまま洗い場へと向かった。
そして器用に蛇口を手で捻ってお湯を出し、風呂桶を持って体を流し始めている。
その動きはあまりにも自然で、あまりにも人間らしい無駄のない所作。
それを見た桃花は、手に持ったタオルを思わず落としそうになりながら呆然と呟いた。
「……ま、まさか、本当にお猿さんが来るとは……」
信繁の言葉を単なる冗談で受け取っていただけに、現実とのズレに思考が追いついていない。
「ま、犬のアタシも入れるんだから、モンキーちゃんが入れるのは納得よね。さっきダンディが言ってたじゃない♪」
「う、うん。信繁おじちゃん言ってたね……」
信繁の話を半信半疑で聞いていた桃花は、その妙に筋の通ったその理屈に、思わず納得させられてしまった。
「あの妙に小慣れている動き……もしかして、あのお猿さんも喋るとか? もしそうなら、さっきのクマさんと同じように魔法をかけられているんじゃ……?」
先程の謎の女性が残した余韻とはまた違う、間の抜けた、けれど平和な空気がその場を包んでいた。
そんなモヤっとした気持ちは温泉へと置き去りにし、脱衣所で着替えを済ませる。
火照った体に、扇風機から流れてくる風がほんのりと心地よい。
そして先ほど言っていた通り、二人は並んで自販機へ向かい、小銭を投入する。
迷いなく牛乳のボタンを押すと、ガコンと瓶が落ちる音が小気味よく響く。
手に取った瓶はひんやりと冷たく、指先に気持ちよくなじむ。
「それじゃ、頂きます!」
「ウフ〜ン♡ こういうのは、一気にグビっといっちゃうのがイイのよね♪」
カチリ!
お互いの瓶同士が触れ合う澄んだ音が響いた。
桃花は腰に手を当て、豪快に喉を鳴らして牛乳を飲み干す。
ケルベロスも、彼女の横で同じようなポーズを取り、牛乳瓶を器用に持って飲んでいる。
それは、温泉の醍醐味を知り尽くした者だけが許される、至福の儀式でもあった。
「……くはー! 美味しい! 温泉上がりの一杯って、なんでこんなに美味しいんだろうね!」
「芳醇な味わいね〜♡ ビールも捨てがたいけど、この純白の誘惑も悪くないかも!」
冷たい牛乳が体の内側をすっと通り抜けていく。
火照りがゆっくりと引いていき、その代わりに満たされた心地よさが広がっていった。
「はぁ〜幸せ〜。ず〜っと、こんな感じで旅ができたらなぁ」
桃花の口から、無意識のうちに本音がこぼれ落ちる。
緩んだ空気が、心の奥底に隠していたささやかな願いを引き出していた。
「それわかるわ〜♪ 世界中の名湯を巡る癒し旅♡」
「あ、でもこの先にさ。山越えがあるって悪魔のラウムさんが言ってたよね?」
「ええ、そうね。しかも雪があるって話も言ってたわ」
「また温泉あるかな? 今度は雪景色を見ながら、のんびりと……なんてさ!」
「ウフフ♪ それは楽しみね♡ アタシが雪を溶かして露天風呂を作ってあげてもいいわよ〜ん♪」
未来への期待に自然と笑みがこぼれる。
過酷な旅路の中にある、ささやかでほんの小さな楽しみ。
それを共有し合うことで、二人の心は湯上がりよりも更に深く、温かな繋がりで満たされていた。
その後、桃花はドライヤーを手に取り、ケルベロスの濡れた毛を丁寧に乾かしていく。
風に揺れる毛並みは、次第に空気を含んでふんわりと膨らんでいった。
「うん、いい感じ……!」
「アハ〜ン♡ 完璧じゃない、桃花ちゃん♪ このシルクのような触り心地、最高よぉ〜ん♡」
ケルベロスもその仕上がりに、とても満足した様子で胸を張った。
ふわふわとした毛並みが誇らしげに揺れている。
そして二人はそのまま温泉を後にし、今晩泊まる部屋へと戻るため、廊下を歩き出す。
やがて視界が開け、広々としたロビーへと差し掛かる。
すると、そこには柔らかな灯りと人の気配が感じられた。
桃花はふと足を緩め、窓際の休憩スペースに目を向けると……。
そこには見覚えのある姿が——




