第87話 パワーゲイザー
宿泊手続きを済ませ、桃花とケルベロスは今晩泊まる部屋へと足を踏み入れた。
襖を引いて中へ入ると、そこには宿の外観に違わぬ、見事な和の空間が広がっている。
藺草の新しい香りがふわりと鼻腔をくすぐり、障子越しに差し込む柔らかな光が、部屋全体を琥珀色の静寂で優しく包み込んでいた。
これまでの張り詰めた戦いや騒動が嘘のように、どこか静かで心がほどけるような空気が漂っており、桃花にとってはどこか懐かしい空間でもあった。
桃花は部屋の中央に立ち、ぐるりと周囲を見回す。
そして思わず頬を緩め、全身から力が抜けたように心底嬉しそうな吐息を漏らした。
そのまま、吸い寄せられるように畳の上へとパタリと倒れる。
「はぁ〜。この感じ……すっごく好き。ホッとするなぁ…… 畳の上でゴロゴロしよっと」
幸せを噛みしめるように、桃花は畳の上をゴロゴロと左右に転がり始めた。
「……確かに、悪くないわね。こういう趣の部屋って初めてだけど、また違った風情があって、それでいて落ち着く不思議な感覚がいいわ〜♡」
ケルベロスも物珍しそうに視線を巡らせる。
以前泊まった禍々しい悪魔の宿「Devil's Door」とは正反対の、清潔で凛とした佇まい。
それが、ほどよく新鮮に感じているようだった。
桃花はしばらく横になって寛いだ後、くるりと弾むような笑顔でケルベロスへと振り返る。
「……ねぇケルちゃん! 早速温泉に行こうよ!」
「そうね。そろそろいきましょうか♪」
「私、浴衣に着替えるから、ちょっと待っててね!」
「オッケ〜イ♪」
ケルベロスは軽い返事を済ませ、待っている間、畳の上をコロコロと寝転がっている。
桃花は慣れた手つきで、用意されていた糊のきいた浴衣へと袖を通す。
最後に帯を、きゅっと締めると、二人は期待に胸を躍らせて入浴場へと向かった。
歴史を刻んだ木造廊下を踏みしめるたび、トントンと小気味よい音が夜の静寂に吸い込まれていく。
やがて目の前に現れたのは、「男湯」と「女湯」の紺色と朱色で、鮮やかに染め抜かれた立派な暖簾。
ケルベロスはそれを見て少しだけ期待外れだったのか、残念そうに口を尖らせる。
「あら、混浴ではないのね。少し期待していたのだけれど、ちょっと残念♡」
「ケルちゃん……流石にそれはないって。もし混浴だったら、今頃は苦情の雨霰の大嵐だよ」
「ウフフ♪ 冗談よ〜ん♡ ささっ! 女湯の先へGO!GO!湯船にダイビングするわよん♪」
「温泉でダイビングしちゃダメだよケルちゃん!」
軽口を言い合いながら桃花は女湯暖簾をくぐり、脱衣所へ入る。
浴衣を脱ぎ、体にタオルをかけて、逸る気持ちを抑えながら温泉へと続く扉を開いた。
その瞬間——
白く立ち込める湯気の向こう側に、息を呑むような絶景が広がっていた。
「わぁ! いきなり露天だよ! 開放感抜群だね!」
目の前に広がっていたのは、岩組みの立派な露天風呂。
その岩の隙間からは、小さい滝のように豊かな湯が注がれている。
つい先程まで茜色だった空は、いつの間にか深い群青に染まり、満天の星々が宝石を散りばめたように輝いていた。
こんこんと溢れる源泉掛け流しの湯が、水面で月の光を反射し、銀色にゆらゆらと波打っている。
「アッハ〜ン♪ 硫黄のいい香りがするわ。しかも、アタシたちの貸し切り状態じゃない!」
ケルベロスは嬉しそうに、尻尾をパタパタと振るのを見て、桃花は慌てて制する。
「あ、でもまずは体を流してからにしないとね。湯に浸かるのはその後だよ」
「わかってるわよん! にしても、ここでお酒が飲みたくなるわね〜♪」
「いくら魔族でも、それは体に悪いんじゃない?」
そんな他愛のない冗談を言いながら、二人は洗い場へ向かい、並んで風呂椅子へと腰を下ろす。
極楽の温泉を目の前にし、すっかり気が緩みきっていた……その時だった。
「……こんばんは、可愛いお嬢さん……と、そちらはワンちゃんかな?」
桃花のすぐ左隣——
そこには、先に温泉へ入っていた一人の女性が、静かに風呂椅子へと腰掛けていた。
柔らかく優しい微笑みと共に、二人へ向けて穏やかな挨拶が投げかけられる。
「「っ!!?」」
その瞬間、桃花とケルベロスの肩が、電撃を打たれたかのようにビクッと跳ね上がった。
誰もいないはずの空間で、耳元に直接言葉を流し込まれたような衝撃。
心臓が凍りつき、一瞬だけ呼吸を忘れる。
「ひぃぃえあっ!? す、すみません! お騒がせしてしまって! わ、私たち以外に、誰もいないと思っていたので……」
「ア、アタシも気付かなかったわ……騒がしくしてごめんなさいね。ご迷惑だったわよね?」
二人は慌てて頭を下げる。
貸切だと思い込んでいたというのもあるが、驚きの本質は、単に人がいたことではない。
地獄の果てまでも利くと言っている程の鋭い嗅覚と、番犬としての気配察知能力を持つケルベロスでさえ、隣で声をかけられるまで、その気配を全く感じることができなかったのだ。
只者であるはずがない。
その女性は、二人の動揺を柳に風と受け流し、くすりと上品に微笑んだ。
「ふふ、いいえ。拙者はもう出るところでしたので、お気になさらず」
「そ、そうでしたか、ありがとう、ございます……」
「では失礼……ごゆっくり」
そう言って女性は立ち上がる。
湯気を纏ったそのすらりとした体躯には、無駄な脂肪が一切ない体つきだ。
濡れた髪を軽く手で払う何気ない仕草にも武の気配と、どこか洗練された品格が漂っているように見えた。
そして彼女はニコッと会釈すると、足音ひとつ立てず、静かに浴室から去っていった。
立ち込める湯気の向こうへ、まるで幻のようにその姿が溶けるように消えていく。
彼女が去った後、その場には沈黙が落ちた。
張り詰めていた空気がようやく緩み、桃花は肺の中の空気をすべて吐き出すように、深く息を吐いた。
「……び、びっくりしたぁ……。まさか、私たち以外に人がいるとは思わなかったよ」
「ええ、アタシも驚いたわ。全く気配を感じなかったもの……。少し、はしゃぎすぎたわね」
「う、うん。そうだね。大人しくして、ゆっくりと入ろうか……。ケルちゃんの体は私が流してあげるね」
「あら? 流してくれるの? ありがとう〜♪」
未知の達人のような遭遇に冷や汗をかいた二人は、なんとか落ち着きを取り戻し、丁寧に体を流した。
そして、ゆっくりと露天の湯船へ足を入れ、そっと体を沈めていく。
芯から温まるような湯が、強張っていた筋肉を優しく包み込む。
「……っはぁ〜……気持ちいいねぇ〜。こういうのを極楽って言うんだねぇ〜」
全身の力が抜け、桃花は思わずとろけるような声を漏らした。
重厚なお湯が、旅の道中で凝り固まった筋肉を優しく解きほぐしていく。
「……ええ、ホントねぇ〜♪ アタシ、温泉に入るの初めてだけど、温度も心地よくて気持ちいいワ♡」
「あれ? ケルちゃんって温泉初めてだったんだね。温泉の感想はどう? どんな感じ〜?」
「そうね〜♪ 大地からパワーがみなぎってきて、ググッと湧き上がってくる感じ〜?」
「ケルちゃんの体の中から、エネルギーが溢れ出ちゃうかもね!」
「アタシの全身の毛が金色に変化して、スーパー犬にパワーアップしちゃう気分よん♪」
「それはそれで見てみたいなー! ここの温泉に入ったお猿さんたちも、金色にパワーアップしてたりしてね!」
そんなやり取りをしながら、桃花は畳んだタオルをちょこんと頭の上に乗せる。
一方ケルベロスは体を仰向けにし、無防備にお腹を上に出して気持ち良さそうに、湯船にぷかぷかと浮かべていた。
月明かりの下、湯気の向こうに揺れる星々を眺めながら、しばしの平穏を享受する。
先程の衝撃からの緊張がまるで嘘であるかのように、とろけた表情で寛いでいる。
湯の流れる音だけが心地よく響き渡り、しばらく静かな時間が流れていた。
やがて、湯気を見つめていた桃花がぽつりと呟く。
「……ねぇ、ケルちゃん」
「……ん〜?」
「さっきの女の人……美人さんだったよね。私、別の意味でも驚いちゃったよ」
その言葉に、浮かんでいたケルベロスも思い出すように目を細めた。
「確かにね。あのレディ、モデルさんみたいに美しかったわ……。とってもいい体だったし♡ 紅葉ちゃんと同じくらい凄かった……いや、もしかしたらそれ以上かも……」
何気なく比較に出してきたその名前に、桃花の表情が少しだけ曇る。
「……そういえば紅葉さん……大丈夫かな? あれから、どうなったのかな?」
ケルベロスは、ポチャリと音を立て体勢を戻し、犬掻きで桃花の元へと近寄る。
その犬耳が、不安げにわずかに下がった。
「……そうね。あれから何度か連絡は取り合ってたんだけど……。ここ数日、返信が全くないの。電話しても繋がらないし」
「え? それって……」
桃花の胸の中に冷たいものが走る。
湯の表面が、二人の動揺を映すように静かに揺れた。
「ええ。あまり状況が良くないんだと思うわ……。それに紅葉ちゃんは『鬼人』だから……。鬼どもに、酷いことされてないといいんだけど……」
立ち込める湯気の向こうで、ケルベロスの瞳が深く曇る。
最悪の想像が、彼女の脳裏を過っているようだった。
重くなりかけた空気を払拭するように、桃花はそっと、しかし力強く言った。
「……ケルちゃん、元気出して。もし紅葉さんから連絡があって、危険な状態だとわかったら、すぐに助けに行こうね!」
その真っ直ぐな言葉に救われたかのように、ケルベロスは少しだけ笑った。
「うん。ありがと桃花ちゃん……そうするわね。ちょっと、暗い雰囲気になっちゃったわね! 今は、この温泉をゆっくりと楽しみましょ♪」
少し強引に声のトーンを上げ、空気を変える。
桃花もそれに合わせるように頷いた。
だが、ケルベロスの瞳の奥にある、大切な友である紅葉への心配の影は完全に消えはしない。
桃花の心の中にもまた、同じように不安のしこりが残っている。
無理に言葉を紡ぐことはせず、それ以上の言葉は続かなかった。
二人は黙ったまま、静かに温かい湯に身を沈めていく。
白く立ち込める湯気に包まれながら、今日一日の激動の疲れを、今はただ、ゆっくりと癒していくのだった。




