第84話 六文銭
エルフのフィオンが営む薬屋「Treatment Light」を後にした二人。
そして、今晩泊まる予定の宿へと歩き出す。
クマの過去を聞いたことで纏わりついていた重たい空気は、店の木の扉から離れて歩を進めるごとに、少しずつ薄れていく。
夕暮れの十文字村は、温かな橙色に染まり始めていた。
傾きかけた西日が、二人の頬を優しく、柔らかく照らし出している。
「あ、桃花ちゃん。あれじゃない? フィオンちゃんが言ってた宿って」
ケルベロスの視線の先には、この村の素朴な景観を圧するような、立派な和風造りの宿が鎮座していた。
太く立派な木の柱と、幾重にも重なる大きな瓦屋根が堂々と構え、どこか歴史と格式を感じさせる佇まいだ。
入口に掲げられた木彫りの看板には、力強い筆致で「六文銭」と書かれている。
その三文字が視界に飛び込んできた瞬間、桃花の足が見えない糸に引かれたように止まった。
「……なんだか、懐かしいな」
ぽつりと零れた声は、夕闇に溶けていく微熱を帯びていた。
自分でも驚くほど甘く、柔らかく響く。
「懐かしい? 桃花ちゃん。ここに来たことあるの?」
記憶の底に沈んでいた「何か」を掬い上げたような桃花の様子に、ケルベロスが不思議そうに首を傾げて問いかけた。
「ううん。来たことはないよ……。さっきさ、この村に私が知ってる人がいるって話をしたの、覚えてる?」
「そういえば言ってたわよね。桃花ちゃんが小さい頃の知り合いとかって」
「うん。男の人でね、私が十歳くらいの頃から会ってないんだ。昔、その人が私によく、“ほれ、六文銭だ。これでお菓子でも買ってきな!”って言って、お小遣いをくれたんだよ」
「六文銭」という古めかしい響きが鍵となり、胸の奥深くにしまわれていた記憶の引き出しが、静かに開いていく。
「あら、そうだったのね。でもさ、その六文銭ってどれくらいの金額なの? 今の時代、そんなお金の呼び方しないわよ」
「お菓子とジュースを一つずつ買えたから、三百ちょいくらい……だったかな? どういうわけか、その人いつもお金をそういう言い方でくれたんだ」
幼い頃、少し誇らしげにお菓子を握りしめていた光景が、夕焼けの光と共に鮮やかに蘇ってくる。
「ウフ♪ 気前のいい男だったのね。話だけでも、なんだか面倒見が良さそうな感じよ♡」
「うん。私ともよく遊んでくれたし、すごくお世話になったんだ」
その時の温かな感情が胸を満たし、桃花の表情は自然と花が咲くようにほころんだ。
「どういう男だったの?」
「えっと、商人……だったのかな? 世界中を旅しながら色んな商売をしてたとか、何とか言ってたような、気がするような……?」
「ふ〜ん。なんだか凄い男みたいね。しかも世界を旅しながらってのが、なかなかの手だれ感があるわ」
「とっても強い人でもあったよ。あ、そういえばその人、十字架の『十』を書いたような、でっかい『十文字槍』を持ってたな〜」
十の字を描く巨大な槍を軽々と振るう背中。
その威風堂々とした姿は、幼い桃花の目に、御伽話に出てくる「英雄」のように映っていた。
「この世界を旅して生き抜くには、腕っぷしも必要よね♪」
「私、おじいちゃんとおばあちゃん以外にもね、その人からも稽古をつけてもらってたんだけど、一度も勝てなかったよ……」
しんみりと、大切に宝物を撫でるように、桃花は思い出の残滓に耽る。
その横顔はとても甘く、郷愁に満ちていた。
「何年かは近くの家に住んでたんだけど、また村を出て行っちゃったんだよね。旅に出る前の間も、その人を訪ねてくる人がたくさんいたよ」
そんな彼女を横目で見ていたケルベロスが、悪戯っぽく、そして鋭く目を細めた。
「ふ〜ん? もしかして桃花ちゃん。その男が、“初恋”の人だったりしてぇ〜?」
「あえっ!? いや! え、えっとね、それは……ち、ちがう……よよ?」
桃花は、まるで鳩が豆鉄砲をくらったように目を丸くし、急にしどろもどろになって視線を泳がせる。
ケルベロスの放った何気ない一言が、桃花の心の湖面に巨大な石を投げ込んだようだった。
みるみると頬が朱に染まり、耳たぶまで熱を帯びていく。
もじもじと指先を弄る姿は、完全に隠し事を暴かれた少女のそれである。
「……桃花ちゃん。アンタも、さっきのクマと同じで分かりやす過ぎ」
あまりにも素直すぎる反応を目の当たりにし、ケルベロスは驚きを通り越し、溜め息混じりに呆れ果ててしまった。
「うぐっ……い、いいじゃん別にっ!」
「冗談で言ったつもりだったんだけどね〜♪ まさか、桃花ちゃんのストライクゾーンに入ってたとは♡」
「いや、それは……!む、昔の話だよぉ! 過去のことっ!」
必死に火消しを図るが、完全に後の祭りである。
「いいじゃない♡ 素敵なお話よ〜ん♪ でも、あらら〜? もしかするとぉ〜? ここの宿の店主が、その“初恋の男”だったりしてぇ〜? きゃぁぁーーん! あり得るっかもぉぉーー!?」
「ちょーっ! やめてよケルちゃん! もし万が一、本当にそうだったらすっごい恥ずかしいでしょうに!」
「ウフフ〜大丈夫よ♪ この広い世界で、そんな偶然は滅多にないから。安心なさいよ♪」
「そ、そうだよね! 天文学的確率だよね!」
「いや、そこまでとは言わないけど。ま、この話は〜? 後でじっっっくりと聞き出して、ア・ゲ・ル♡ あ、その時はフィオンちゃんも呼んじゃおうかしら? 一緒に盛り上がれるし♡」
「もうケルちゃん! 私で遊ばないで!」
すっかりケルベロスのおもちゃと化し、桃花はジタバタと抗議する。
だが、その軽快なやり取りの影で、先程まで漂っていた重苦しい空気は跡形もなく霧散していた。
二人の弾けるような笑い声が、静まりかけた夕暮れの通りにこだまする。
その賑やかさに誘われるように、ついさっきまでいた薬屋の扉が僅かに開き、フィオンが不安げに顔を覗かせてきた。
「あ、あの〜。どうか、されましたか……?」
二人の騒ぎを気にしたのか、少し不安そうにしている様子。
「あ、ごめんなさいフィオンさん。別になんでも……」
桃花が制止するよりも早く、ケルベロスの声が鋭く滑らかに割り込んだ。
「フィオンちゃんっ! ちょうどよかったわ! アンタもタイミングがいいわねこのっ! 今晩アタシたちと一緒にご飯食べましょ♪ そこで桃花ちゃんの元彼の話をするからさ! 一緒に盛り上がって女子会よん♡」
「なっ!? 待ってよケルちゃん! 元彼じゃないって! なんで誇張するの!?」
一気に悪ノリが超加速するケルベロス。
その誘いを聞いたフィオンの反応はというと——
「是非っ!!!」
即答だった。
しかも、控えめな彼女からは想像もつかない程の力強い声。
フィオンのテンションが一気に跳ね上がる。
彼女の瞳はまるで、未知の娯楽を見つけた子供のようにキラキラと輝き、期待に胸を膨らませていた。
「な、なぜ、どうしてこうなった……」
桃花は小さく天を仰ぎ、絶望の溜め息を漏らした。
この予想外の包囲網を嘆いていた、まさにその時である。
リュックサックの奥底から、桃花のスマホの通知音が、『prrrr!!』と空気を切り裂くような大爆音で鳴り響いた。
収まりかけた騒ぎが再び弾け始める。
「音うるさっ! 何? 誰?」
ビクッと肩を震わせ、慌ててスマホを取り出して確認した桃花は、更に驚愕することになる。
画面に表示されていたのは、遠く離れた「おばあさん」からのチャット通知だった。
メッセージの内容は、「その男の話、詳しく聞きたいわ〜☆」の一言だけ。
どう考えても、今の桃花の恋バナに対する強烈なパッションである。
「なんで!? このタイミングで、おばあちゃん!? どういうこと!? どこかに隠れて見てるの!?」
もはやホラーの領域に足を踏み入れた意味不明な状況。
目の前には、恋バナの気配を嗅ぎつけて大盛り上がりのケルベロスとフィオン。
逃げ場を失い、好奇の視線が容赦なく突き刺さる。
その時だった——
目の前にある立派な宿屋「六文銭」の重厚な木製の引き戸が、ガラガラと乾いた音を立てて開いた。
わちゃわちゃと騒いでいた空気が、その重い音によって一瞬で断ち切られた。
そして、その宿の中から、店主らしき大柄な人物が姿を現す。
「……ったく、今度は何の騒ぎだ? ハイテンションで『機関銃』ぶっ放してた『ヒロコちゃん』と『マサミちゃん』が静かになったと思ったら次は……ん?」
腹の底に響くような、低くよく通る声。
その人物は、目の前に広がる喧騒に一瞬眉をひそめたが、フィオンの姿を見つけると表情をふっと和らげた。
「ありゃ? フィオンちゃんじゃねぇか。そこで何してんだ? って、なんか楽しそうじゃん? いいことでもあったのかい?」
「あ、『信繁』さん。す、すみません! お店の前で騒いでしまって!」
「ひぇぇあっ!?」
その顔を見た瞬間、桃花の口から間抜けな声が漏れた。
まるで雷に打たれたかのように、限界まで目を見開いたまま固まる。
胸の奥にしまっていた遠い記憶のパズルが一気に組み合わさり、そしてまた一気にバラバラに弾け飛ぶ。
六文銭。
十文字槍。
そして、あの懐かしい声。
絶対にあり得ないと思っていた「天文学的確率」の偶然は、時に残酷なほど鮮やかに、現実の形となって現れる——




