第82話 クマの過去
「——オラがまだちっこい頃だっべ! 昔、『とある人間』に会ってたのを、たった今、思い出したばい!」
突然、クマが声を張り上げた。
その言葉が落ちた瞬間、場の空気がわずかに質感を変え、強張らせる。
先ほどまでの冗談めかした緩い空気が、ふっと息を潜めていった。
ハッとしたように見開かれたクマの目は、今ここではなく、遠い過去の情景を映している。
重く閉ざされていた記憶の扉が、内側から軋みを上げて開いていくように。
「とある人間……ですか?」
フィオンが不思議そうに首を傾げた。
「ああ。……昔な、オラはお袋と一緒に暮らしてたんだけんどもよ」
短く答え、クマはぽつりと話を始めた。
「オラが、まだちっこいガキんちょの頃だっちゃ。だがある日、そのお袋が飯を探しに行ったっきり……二度と帰ってこなかったんだべ」
その声は、驚くほど淡々としていた。
だが、その感情の抜け落ちたような淡白さが、逆に得体の知れない重さを伴って空気を沈ませる。
「……戻ってこなかったって……も、もしかして、それって……」
桃花は思わず息を呑んだ。
胸の奥に、氷の欠片のような嫌な予感が広がる。
「……わかったのか? 熊鍋って連呼してるやつは察しがいいな」
「まさか……」
クマの言葉に、フィオンの顔色もさっと青ざめた。
薬屋の温度が急激に下がり、空気が一段と重く沈み込む。
「ああ。オラのお袋は……多分、殺されたんだっぺな。……人間によ」
桃花とフィオンの表情が凍りつく。
今まで散々と口にしていた「熊鍋」という言葉が、鋭い刃となって自分たちの胸へと深々と突き刺さった。
「……オラがちっこい頃は、運悪く不作でな。異常気象で天候に恵まれなくてよ。森のどこにも食いもんがなかったんだっちゃ。そのわずかにあった食いもんも、強い熊に全部取られっちまうしな。だから仕方なく、お袋は人里まで下りて、オラに飯を持ってきてくれたんだべさ。見たこともねぇ食いもんだったけんどもよ、美味かったぜ……。それを人間が作った物だって気づいたのは、だいぶ後になってのことだがよ」
桃花とフィオンは、ただ辛そうに顔を歪めて、ただ話を聞くことしかできなかった。
軽率だった自分たちの言葉が、どれほど無神経で残酷なものだったかを痛いほど思い知らされながら……。
その罪悪感が、二人の喉を塞いでいる。
そして、そのクマの話を誰一人として遮ることができなかった。
静寂が、彼の悲痛な記憶を受け止める器のように広がる。
「……そんで、お袋はいつも通り、その日も飯を取りに、人里へ下りて行ったんだっちゃ。そしたら、そこで運悪く……警戒中の人間どもに見つかっちまったんだろうな。……そんで最終的には、お袋は銃で撃たれて駆除された……ってところだろうよ。オラは直接見てねぇからわかんねぇけんども……多分そうだ。だって帰ってこなかったんだからな。ま、人間に殺されたかもってのも、後になって気づいたことだけどよ。お袋が命懸けで……オラに飯を取りに行ってたってこともな」
クマの語り口は、どこまでも淡々としている。
まるで自分ではない、他人の悲劇を語るかのように。
だがその無機質さが、かえって彼が味わった絶望の深さを浮き彫りにし、ひどく痛々しく見えた。
「……まぁ、それはもういいっちゃ。終わっちまったことだかんな。……でだ、気になることは、ここから先の出来事からだべっちゃ」
「アンタがさっき言った…… “思い出した” ことね」
クマの話に対し、続きを促すようにケルベロスが応じていく。
だが、その強引な切り替えの早さに、桃花の胸がきゅっと締めつけられる。
「……クマさんっ、な、んで……そんなっ……!」
自分の母親がいなくなってしまい、その自分も飢餓で苦しんで死にかけていたというのに、あまりにもあっさりと話を終わらせてしまう。
桃花は涙目で声を上げようとしたが、上手く言葉にならなかった。
喉の奥で罪悪感が絡まり、ただ唇の震えだけが残る。
「桃花さん……」
フィオンは椅子から静かに立ち上がり、桃花の震える手をそっと握り締める。
言葉よりも確かなその温もりが、暗い感情に沈みかけていた彼女を、かろうじて現実へと繋ぎ止めた。
クマは、そんな二人の様子を気にすることなく話を続けた。
「お袋がいなくなっちまったら、オラは自分で食う手段がなかった。まだちっこかったし、何も教えてもらってなかったからな。それでも、なんとか森の中を彷徨って食いもんを探したが全く無くてよ。他の動物からも、襲われて食われそうになったこともあったべ。逃げるので精一杯だったからよ、ずっと何も食えず、ガリガリに痩せ細って餓死寸前だったっちゃ。人間のいるところに行けば飯はあったんだろうが……おっかなくて近づけなかったしよ」
桃花とフィオンは、俯いたまま辛そうな顔で黙って聞いている。
想像するだけで息が詰まるような、孤独で過酷な光景であった。
「……で、とうとう動けなくなったオラは、横になってただ死ぬだけになってたんだっちゃよ……だが、その時だったっぺ。その『とある人間』が、オラの前に現れたんだっちゃよ」
「……ふ〜ん。それで? その『とある人間』ってどんなやつだったのよ?」
ケルベロスだけが、意図的に感情を交えぬ冷静な声で問いかけた。
沈みきった空気をこれ以上重くさせないため、そして話の核心を掴むための、彼女なりの配慮であった。
そしてクマの言う、正体不明の「とある人間」へと話を移していく——




