第8話 鬼の営業所
つい先程、ボコボコに叩きのめした三バカ鬼たちから聞き出した場所を目指し、桃花は慎重に歩を進めていた。
その足取りは、まだ軽い。
だが、心のどこかで、「そう簡単にはいかないだろう」という予感だけが消えずに残っている。
ほどなくして、視界の先に建物が現れた。
そこには、やけに立派な看板が掲げられている。
【鬼商会 東営業所 第一支部】
その文字を認識した瞬間、桃花の足が、わずかに止まった。
——営業所。
言葉の響きと、目の前の光景が、どうにも噛み合わない。
ガラス窓は妙に新しく、植木は丁寧に剪定され、壁面に汚れ一つ見当たらない。
どう見ても「普通の企業の支社」にしか見えない佇まいに、桃花は首を傾げてしまう。
「え、営業所って……本当にあったよ」
桃花は思わず呟いてしまった。
「一体ここで何の営業してるの? 人間からのカツアゲを月額課金制で請け負ってるとか? 私も、ついさっき恐喝されかけたし」
冗談めいた思考の裏側で、違和感だけが、じわじわと積み重なっていく。
——その違和感に、決定打を打つ存在がいた。
入口の前。
巨大な影が、堂々と鎮座している。
「三つの首」を持つ、「漆黒の犬」。
「……え」
言葉が自然と喉で詰まる。
「あ、あれって、もしかして……!?」
実物を見るのは初めてだった。
想像していたよりも遥かに大きい。
体躯は通常の犬の十倍はあろうかという圧。
牙も爪も、冗談抜きで「致命」の二文字が似合う。
『地獄の番犬ケルベロス』
神話の中の存在が、まるで当然のように営業所の入口を塞いでいる。
桃花は反射的に木陰へ身を隠し、建物全体を観察した。
入口を守る、あの圧倒的な存在感。
「……あ、あれって、絶対にボス戦用に仕上がってる感じだよね?」
そうぼやきながら、桃花は深呼吸した。
胸の奥が、ひやりと冷える。
それでも、逃げるという選択肢は浮かばなかった。
ここまで来てしまったという事実。
そして何より、引き返したところで何も変わらないと、どこかで理解している。
その時、ふと先ほどの三バカ鬼たちの言葉が脳裏をよぎった。
——「営業所の電話番号も教えときますんで! これですわ!」
あの妙な親切さ。
今になって違和感がはっきりと形を持つ。
「怪しい……」
一拍置いて。
「……でも一応、試すだけ試してみようかな」
桃花はリュックサックからスマホを取り出して、半信半疑で教えられた番号をトントンと押し、電話をかけ始めた。
『trrr……』
「あ、かかった!」
思わず声が漏れてしまう桃花。
だが……。
「……あ? あれ? ヤバ、なんかすっごい緊張する! なんで!? 心臓のドキドキよ! 静まりたまえ!」
桃花は、今にも胸の奥から飛び出しそうな鼓動を必死に抑えながら、耳にスマホを当てた。
自分でも驚くほど動揺している。
これが人生初挑戦の「知らない番号」への電話だ。
それが、よりにもよってまさか鬼の営業所とは、なんという悪運。
そんな愚痴を頭の中で溢していた瞬間。
『……はい、お電話ありがとうございます。鬼商会 東営業所 第一支部の紅葉が承ります』
「!!」
思わず体が跳ね上がる。
——声が、あまりにも美しすぎた。
予想外すぎて、更に心臓がドッキン!!と鳴る。
柔らかく落ち着いていて丁寧な口調だ。
全く隙がない。
それはまるで、高級旅館の女将のような声音。
(……な、なんだこのギャップは! クレーム率九割とかいう話は一体どこへ!?)
勝手に想像していた「ドスの効いたヤンキー声」「不機嫌な早口」とは真逆だ。
思わず、スマホを持つ手がブルブルと震える。
必死に平静を装い、桃花はしどろもどろに口を開いた。
「えっと、あの……す、すみません。そちらに伺いたいんですが、その、道に迷ってしまって……」
声が少し裏返る。
すると、「紅葉」と名乗った女性は穏やかに返した。
『そうでしたか。今どちらにいらっしゃいますか?』
「え、えーっと……。その、黒くて大きい犬みたいなのがいて、その後ろに建物が見えます……」
咄嗟ではあったが、他に言いようがなかった。
一瞬の間。
『……ふふ』
小さな、含みのある笑い声。
『はい、そこで間違いありません。今見えている建物が弊社でございます』
桃花の背筋が、すっと伸びる。
『すぐ近くですので、安心してお越しくださいませ。お待ちしておりますので、どうぞお気をつけて』
「ご、ご丁寧に、ありがとうございます。それでは、し、失礼します……」
通話が切れた瞬間。
どっと、力が抜けた。
肩が落ち、全身がぐったりと重くなる。
「な、なんで……疲れた……」
とてつもない疲労感。
たった一分間程度のやり取りでこの有様だ。
「……今の、本当にクレーム率九割の受付嬢? 声も対応も完璧だったけど?」
理解が追いつかない。
「も、もしかして、別の受付嬢……とか?」
謎が一つ増えた。
だが、はっきりしたこともある。
——ここは間違いなく、鬼商会の営業所だ。
桃花は再び入口を見る。
あの地獄の番犬ケルベロスは、微動だにしない。
「……さて」
小さく息を吐く。
「まずは、あの番犬をどうにかしないと……だね」
その言葉は、覚悟を確かめるための、静かな合図だった。




