第79話 蜘蛛の糸
「……あのね。当然そういう流れになってくるでしょ。アンタも犯罪に加担してたんだから、しっかりと警察は調べてくるわよ」
「ぐっ……」
クマの喉の奥から、絞り出すような呻き声が漏れた。
「悪党なんてものはね。自分が捕まれば芋づる式で仲間を売るものよ。自分だけが捕まるなんて嫌だものね〜♪」
楽しげに語尾を跳ねさせるケルベロスとは対照的に、クマの顔色は土色を通り越して真っ青に染まっていく。
「く、熊坂長範は、そんなこと……!」
「そんなことしないって? どうかしら〜? 警察って飴と鞭を上手に使ったりするからね〜♪ 吐けば罪を軽くしてやるとかで〜? アンタのことあっさりゲロってるかもよ? なんなら今頃、美味しいカツ丼でも出されて、涙流しながら喋ってたりして〜♡」
「!?」
クマの瞳が激しく揺れる。
長年築き上げたはずの信頼への疑念と、迫り来る公権力の影。
今になってようやく、自分の足場が砂の城のように崩れていく感覚に襲われていた。
そこへ桃花が、ふと頭をよぎった純粋な疑問を口にする。
「でもさ、ケルちゃん。クマさんのこと警察が逮捕なんてできるの? 相手は動物だよ?」
あまりにも真っ当な問いに、ケルベロスはしばし思考を巡らせた。
「そこは難しいところよね。コイツに知性があって言葉を話すとはいえ、法的にはただの動物なわけだし」
「うん。動物を裁く法律なんてないもんね……。じゃあもし、警察が本気でクマさんを探して、捕まえたらどうなるの?」
一瞬の静寂。
黒柴姿のケルベロスは口元を三日月のように歪め、甘く、そして残酷な響きを込めて言い放った。
「駆除♡」
「イィィェェェェーーーーガァァァァァァァアーーーーー!!!」
その単語が鼓膜を叩いた瞬間、店内に鼓動を狂わせるほどの大絶叫が炸裂した。
耳をつんざくようなとてつもない音圧。
薬棚の瓶がカタカタと震え、物理的な衝撃波となって周囲を襲う。
「う、うるさいです……」
騒音とも言える絶叫に、流石のフィオンも思わず顔をしかめ、両手で耳を塞いだ。
まるで懲りていないクマの様子に、ケルベロスは深い溜め息をつく。
「……まったく、このバカクマ! あれだけアタシが、“うるさい!” って言ってるのに全然理解できてないようね! デカい図体の割に胆っ玉がダニより小さいわ!」
呆れ果てるケルベロスを横目に、桃花は苦笑しつつも、現実的な問題に向き直る。
「そ、それはそうとケルちゃん。クマさんのこと、どうしようか?」
一段落ついたタイミングで、クマの処遇について話題を移す。
「そうね。ここまでの案内は済んだし、うるさいしデカいし目障りだし、邪魔。もう用無しね」
その言葉を聞いた瞬間、絶望の淵にいたクマの顔に、奇跡でも見たかのような光が差し込んだ。
「や、やっと!! オラを解放してくれるだか!? やったぜぇっ!! ベイベェェーー!!」
両手を天高く突き上げ、勢いよくガッツポーズを決め込んだ。
(その際、天井に手がぶつかる)
地獄から天国へ這い上がったような安堵感がクマを包んでいく。
だが——
ここでフィオンが、またとんでもない爆弾発言をクマへと叩き込む。
「え? 熊肉、逃しちゃうんですか? それはもったいないですって。今すぐ熊鍋にして食べましょう! 私が美味しく調理してあげますからね!」
「やったぜっ!! ヒャッホォォーーィイィ何だってぇぇぇぇ!!?」
あまりにも唐突に出てきた物騒すぎる言葉に、クマは自分の耳を疑ってしまう。
「あ、確かにそうですよね。熊肉もったいないですよね。お腹も空いたし……じゅるり」
フィオンの言葉に、桃花までが瞳を輝かせて同調する。
魔法を唱え始めるフィオン。
刀を抜く構えの桃花。
二人を包む空気は、もはや「熊鍋」という名の究極の料理に取り憑かれたハンターそのものだった。
一歩、また一歩と、死神のような足取りでクマへと迫っていく……。
「おいおいおいっ!? 嘘だべ!? ここまで耐えてきたってのに!! なんて奴らだべっさ!! や、 やめれぇぇぇ!! こっち来んなぁぁぁぁーーーー!!」
クマの安堵は一瞬にして打ち砕かれた。
天国から地獄に叩き落とされるとは、まさにこのこと。
振り子のように揺さぶられるクマの心は、もはや限界だった。
桃花とフィオンの瞳には、食欲という名の純粋で昏い光が宿っている。
単なる「駆除」ではなく、肉の塊として「消費」される死の恐怖が、目の前にちらつく。
「あー、はいはい。ストーップ。こんなガサツなバカクマを食べても、色んな意味で後味が悪いし、頭バカになるわよー」
本気で獲物を定める二人の間にケルベロスが割って入り、ギリギリのところで宥める。
「えーダメですか? 残念です……」
「えー絶対美味しくできるのに……」
あからさまにガッカリと肩を落とす二人からは、演技ではない本気の落胆が伝わってくる。
「おめぇらよぉ! いい加減しつけえぞ! オラを食おうとすんなっ!」
先程から何度も、絶低絶命の危機に陥ってはいるのだが、その度に運良く命拾いしている。
クマは滝のような冷や汗を拭いながら、信じられないものを見る目でケルベロスを仰ぎ見た。
「だがよ……まさかおめぇが、オラを庇うようなことを言うとはな……意外だべ」
クマを庇ったケルベロスに、安堵した表情を向ける。
一瞬で救われた気がしてしまう。
——しかし。
ケルベロスは、決してそんな慈悲深い聖女などではない。
「地獄の番犬」と呼ばれている魔獣なのだから——




