第75話 謎の武士
「はい。私を助けてくれた方のお名前は……『金太郎』さんと『牛若丸』さん。このお二人が、熊坂長範たちをやっつけてくれたんです。そして……」
フィオンの唇から漏れたのは、祈りのような穏やかな響きだった。
だが、その二つの名が店内の空気に放たれた瞬間、目に見えない震動が場を支配した。
「……え? 今、金太郎と牛若丸……って言った!?」
先刻のクマの咆哮を塗り替えるように、ケルベロスの鋭い声が叩きつけられた。
それは単なる驚愕ではない。
喉の奥に冷たい刃を突きつけられたかのような、反射的で、確信に満ちた響きだった。
その声の圧に押されるように、窓ガラスが内側から微かにカタカタと震える。
「ケルベロスさん?」
その驚愕ぶりに、フィオンの声が微かに震える。
「急にどうしたの、ケルちゃん? 知ってる人たちなの?」
「知ってるも何も……! その二人、今アタシたちが目指してる『武神街』で、定期的に開催されている『闘技大会』の歴代優勝者よ!」
その一言で空気が変わった。
ざわり……と、何かが裏返るような感覚。
「そうなの?」
「そうなの?って……桃花ちゃん、この村に来る前に話したでしょ。あの街は、腕に覚えのある冒険者や荒くれ者が世界中から吸い寄せられる街だって」
「あ、うん。聞いたよ。その街には、人間以外の種族もいるって話だったよね」
「ええ。その大会は人間はもちろん、魔族や妖怪、亜人……あらゆる種族が参加するわ。そこには種族の壁なんて存在しない」
「当然、そうなってくるよね。色んな種族がいるんだから」
「その大会の規模が凄いのよ。世界中から“我こそは”と名乗りを上げる猛者が集まるからね。その参加人数は、一度の開催で千人を超えるわ」
「千人!?」
ケルベロスが言葉を重ねるたび、「武神街」という響きが、ただの目的地から、底の知れない巨大な「戦いの迷宮」へと変質していく。
「そうなってくると、本選に上がるだけでも奇跡的。多い時なんて、下手するとその数倍の血が流れるんだから」
「い、いくらなんでも多すぎない……!? そんなのもう街じゃなくて、もはや戦場だよ!」
このあまりの衝撃に、桃花の声は思わず裏返ってしまう。
数千の刃と拳がぶつかり合い、火花と返り血が舞い散る地獄のような光景が、脳裏を埋め尽くす。
「そ、そんな街が、あるんですね……」
話を聞いていたフィオンも同時に息を呑んでいた。
自分を助けてくれた二人が、まさかそんな場所に身を置く存在だったとは、今更ながら実感が追いつかない。
「だから、ものすっごく物騒な街でもあるのよ。その武神街って街はね」
「私を助けてくれたお方が、そんなに危険なところに……」
「そして、その金太郎と牛若丸は、そんな化物たちが千人単位でひしめく修羅場を勝ち抜き、頂点に立った『歴代の覇者』なのよ」
その瞬間、店内から軽さが消えた。
冗談も茶化しも、入り込む隙がなくなる。
まるで目に見えない巨大な鉄槌が、場の中心にどっしりと落とされたかのようだった。
「そ、それを聞くと、凄い人たちなんだね……その金太郎さんと牛若丸さんって人」
驚きを通り越し、微かな畏怖が桃花の中に芽生える。
自分が今から向かおうとしている場所の「最高到達点」にいる者たち。その存在感に喉の奥が乾く。
「そうよ。闘技大会自体が大きな話題を生むからね。しかも、その頂点だもの。メディアやネットなんかでも、大きく取り上げられていたわ」
「凄すぎてもう、言葉も出ないよぉ……」
「そのルールは生か死か——『Dead or Alive』の世界よ。当然、人道的な批判も絶えないけれど、それが彼らの住む世界の『常識』ってことになるわね」
「ほ、本当に物騒な街だったんだね……」
「そう。そしてその二人は、桃花ちゃんと同じく、暴れる魔族や妖怪を退治して回っているっていう噂よ」
「あ、そうなんだ。同業者なんだね」
言葉は明るいが、桃花の胸の奥では、別の感情がじわりと広がっていく。
——自分は、そんな伝説のような存在と同じ土俵に、今まさに足を踏み入れようとしているのか。
憧憬とそれ以上に重い「自覚」が、彼女の華奢な肩に伸し掛かる。
「アタシが以前いた『鬼の営業所』の連中なんてね、その二人の名前が出ただけで、どいつもこいつも小刻みにガタガタ震えてビクついてたわよ……紅葉ちゃん以外は」
「紅葉さんは、なんか肝が据わってそうだもんね。というか、もう……そこまでいくと有名人だよね。金太郎さんと牛若丸さんって」
「そうなのよ。そんな二人に助けられたなんて……フィオンちゃん、アンタは強運なんて言葉じゃ片付けられないくらいの超強運だわ。なんなら奇跡と言ってもいいわよ」
「そ、そんなに凄いお方だったんですね。私、ただの親切な旅の方かと……」
フィオンは困惑したように、しかしどこか誇らしげに小さく微笑んだ。
「私も全然知らなかったよ……流石ケルちゃん。物知りだよね」
桃花が素直に感心して頷くと、ケルベロスは緊張の糸が切れたように、深々と天を仰いで溜息をついた。
「はぁ……アンタたちねぇ、これはもはや常識レベルの話よ? モノを知らなさ過ぎよ……」
「それくらい、オラでも知ってんぞ……っつーかよ、熊坂長範の件、早く話してほしいんだけんど……また脱線してね?」
クマですら知っていたという追い打ちに、ケルベロスは更に天を仰ぐ。
「……まぁ、桃花ちゃんは最近までスマホなんて触ったこともなかったし、フィオンちゃんも樹海の奥じゃネットやパソコンがあっても、なかなか回線が繋がらずに情報から隔絶されていたでしょうからね。アタシは環境のせいだと思いたいわ……」
クマを上回る程の、世間知らずな二人に対して、環境が整っていなかったことも要因の一つだと、ケルベロスは最大限の歩み寄りを見せた。
だが、その気遣いをフィオンは——
「あの……『すまほ』って、なんですか?」
「は?」
一言で粉砕した。




