第74話 逮捕しちゃうゾ
ケルベロスは、ひとつ区切りをつけるように小さく息を吐いた。
それは、過去の重みから意識を現在へ戻すための、ささやかな合図のようでもあった。
「……それでね。アタシが助けられたことがきっかけとなって、ナイチンゲールとの交流が始まったの。今でも、たまにお手紙で連絡を取り合ってるわ♪」
さらりと告げられたその一言に、店内に張り詰めていた空気がふっと緩む。
死の淵から始まった縁が、三百年を超えてなお途切れず続いている。
その事実は、静かに桃花たちの胸へと沁み込んできた。
「そうだったんですね……!」
フィオンの瞳が、夜空の星を映したかのようにパッと輝いた。
「ケルベロスさんのお話を聞いて、ナイチンゲールさんに会いたい気持ちが更に強くなりました! ずっと遠い雲の上の存在だと思っていたけれど、なんだか……少しだけ近くに感じられます!」
その声には純粋な尊敬と、より強固になった憧れが混じっていた。
話を聞く前よりも、確実に強くなった感情が、まっすぐに滲み出ている。
「だ・か・ら♪ フィオンちゃんが会いたがってるってこと、ちゃんと彼女に伝えてあげるわね♡ あ、でも彼女は忙しいし、手紙でのやり取りで時間はかかるでしょうから、確実とは言えないけどね。それでも良ければ♪」
ケルベロスは楽しげに尻尾を揺らす。
「ありがとうございます! 凄く嬉しいです! よろしくお願いします!」
椅子から立ち上がらんばかりの勢いで、何度も深々と頭を下げるフィオン。
そのひたむきな姿に、桃花は自然と口元を綻ばせた。
「フィオンさんは……ナイチンゲールさんのこと、本当に尊敬してるんですね」
「はい! とても尊敬してます! 私も、ナイチンゲールさんみたいに、誰かを助けられる人になりたくて……それで、私が得意な医療で、お薬を扱うお店をやろうと決めたんです!」
迷いのない言葉。
そこには、自分が選んだ道への誇りと、確かな覚悟が宿っていた。
「フィオンさんって……とっても凄いです。しっかりと自分の志を持っていて」
「そ、そんな……私なんて、まだまだです」
桃花の率直な称賛に、フィオンは頬を染めて、照れたように視線を逸らす。
「ですが、実はこのお店、まだ『開店準備中』なんです。本当は、すぐにでも始めたいのですが……」
「あら? まだ開店してなかったのね」
ケルベロスの言葉に、フィオンは一瞬、言葉を選ぶように視線を落とした。
「はい。私が十文字村へ来る前に、ここで薬屋を営んでいた方がいらっしゃったんですけど……」
ここでフィオンは、少し言い淀む。
「その方の名前が、『熊坂長範』さん。という店主だったみたいなんですが、お奉行さま? 新撰組……いや、今で言う警察屋さんに捕まってしまったんです。それで、店主不在となったこの薬屋を、私が継ぐ形になり——」
「捕まっただぁぁっ!!?」
「ひぇっ!?」
クマの、地鳴りのような咆哮が空気を切り裂いた。
その凄まじい剣幕に、フィオンはビクリと肩を震わせ、持っていた湯呑みを落としそうになる。
「おい! なんだよそれ! 一体どういうことだっちゃ!」
「え? あ、はい……。今から一ヶ月ほど前のことです。その方が捕まり、村に薬を扱える人がいなくなってしまったので、村の役所にいる村長さんから“医療の心得があるなら、好きに使っていいよ〜ん”と許可をいただき、ここを預かることになったのですが……」
「なんってこったい……!」
クマは愕然とした表情のまま、崩れ落ちるようにブルーシートの上で項垂れた。
十文字村に戻れば、かつての仲間や強力な後ろ盾がいると信じ、なんとかなると思っていたクマにとって、それはあまりにも残酷な「現実」だった。
帰る場所も、頼るべき主君も、すでに「御用」となっていたのだから。
まさに、青天の霹靂であった。
「……い、意外な展開になったね」
桃花が困惑気味に呟く。
「そうね。まさか、すでにあっさりと『御用』になっていたなんてね。一体どういうことかしら?」
ケルベロスも予想外だったのか、表情をわずかに曇らせた。
その横で、クマは血相を変えてフィオンに詰め寄る。
「おい! なんで熊坂長範は捕まっただよ! 知ってること全部話すっちゃ! 隠し事は無しだっぺ!」
「え!? な、なんですか急に……?」
「いいから! 早く話すんだっちゃ!」
「落ち着きなさい。フィオンちゃんが怯えてるじゃないの……地獄の炎で焼き入れるわよ」
ケルベロスの冷徹な一喝が飛び、クマは「うっ……」と言葉を呑み込み、一気に大人しくなった。
桃花はその隙に、フィオンへと穏やかに語りかける。
「実はこのクマさんはね、ここをアジトとしていた山賊のメンバーだったんですよ」
「ええっ!? ク、クマさんって、山賊の仲間だったんですか!?」
「はい、なのでフィオンさん。その話、もう少し詳しく聞かせてもらえますか?」
「あ、は……はい」
フィオンはこくりと頷くと、少し覚悟を決めたように、静かに独白を続けた。
「今、クマさんが言った熊坂長範……その人物が、このお店の以前の店主です。ですが、その方の正体は……この周辺を縄張りにしていた、山賊を率いる頭領でもあったんです」
重苦しい沈黙が場に満ちる。
フィオンは視線を落としたまま、声を震わせた。
「ここから少し、私の話にもなりますが……」
彼女の回想は、一ヶ月前の嵐のような出来事へと遡る。
「……先程もお話しした通り、私はエルフの里から出てきました。ですが、人間の土地勘が全くなく、途中で道に迷ってしまったんです。路銀も底を尽き、帰ることも先に進むこともできず、困り果てていた時でした」
フィオンの拳が、膝の上できつく握りしめられる。
「そこで遭遇したのが、熊坂長範とその部下たちでした。彼らは私を囲むと——」
フィオンの声が震える。
記憶の中の恐怖が、再び彼女を捉えたようだった。
「……“お前の身包み、全部ここに置いていけ。さもなくばお前の命はない”と脅し、私に、その……乱暴を、働こうと……」
それを聞いた瞬間、ケルベロスの目つきが鋭く変化する。
「フン! このバカクマがアタシたちに言ってきたセリフと同じじゃない。何の捻りもない、バカみたいにつまらないセリフね。というか、こんなにも可憐な美少女を襲おうとするなんて、万死に値するわ! 即処刑よ処刑!」
「ケルちゃん。確かに、同じようなセリフではあったけどさ……今はフィオンさんの話を聞いてあげよ」
「え?」
「あ、ごめんなさいフィオンさん。このまま、続けられますか? もし辛いなら……」
つい口から出てしまったケルベロスの容赦ない毒舌を桃花が慌てて制し、先を促す。
「い、いえ……大丈夫です」
気を取り直し、フィオンは続けた。
「……私は、幸いにも魔法が使えたので、その魔法で追い払おうとしました。ですが、怖くて体が震えて、声も出なくて……私が、動けなくなったその隙を突かれ、力任せに押し倒されてしまったんです。その瞬間、もう里へは二度と帰れない。そう覚悟しました……ですが、その時」
フィオンは、ゆっくりと顔を上げた。
だが、その瞳には恐怖ではなく、言いようのない憧憬と感謝の光が宿っている。
「とある御仁が、その場に颯爽と現れて、私を助けてくれたんです」
「……とある御仁?」
その言葉に、再び空気が静まり返る。
窮地のフィオンを救い、山賊の頭領を捕縛へと追い込んだ謎の人物。
物語はここで、新たな「影」を落とし、さらなる混迷へと突き進んでいく。




