第72話 白衣の天使
その名が口にされた瞬間、場の空気が、わずかに沈んだ。
音が消えたわけではない。
それまで交わされていた軽い雑談や、気の抜けた笑い声が、すっと潮を引くように後退していく。
「……アタシが、ナイチンゲールと最初に出会ったのはね」
ゆっくりと紡がれる声には、懐かしさと、わずかな痛みが滲んでいた。
「桃花ちゃんの育ての親である、じじばば相手に戦って、見事フルボッコにされた時よ」
「え? それって……」
桃花は反射的に声を上げ、途中で言葉を止めた。
脳裏に、以前聞いた話の断片が、音を立てずに重なっていく。
「そう。この前、紅葉ちゃんの鬼の営業所で桃花ちゃんに話した内容よ♪」
その一言で、点と点が線になる。
あの時——
桃花が単独で鬼の営業所に乗り込んだ際、ケルベロスから聞かされた過去の一端。
あの敗北の後の話だと、すぐに理解した。
「ボコボコにされた後、奇跡的に逃げ延びることには成功したんだけど……傷が深すぎてね。その場から、一歩も動くことができなくなっちゃったの」
「……」
誰も言葉を挟まない。
ケルベロスの語り口は軽い調子を装っていたが、その言葉は、確かな死の重みを持って落ちてくる。
「ああ、もうダメかもしれない……そう諦めかけていた、その時よ」
ふっと、彼女は遠い過去の空を仰ぐような目をした。
「アタシの前に、ナイチンゲールが現れたの。それが最初の出会いだったわ」
淡々と語られる声の奥に、深く刻み込まれた感情が滲み出している。
「たまたま近くを通りかかったみたいでね。血塗れで死にかけてたアタシを見つけるなり、バタバタと駆け寄ってきたのよ。私が魔族だって分かっていたはずなのに、警戒する素振りすら見せずにね。……理由も事情も何も聞かず、ただ必死に治療してくれたわ」
ケルベロスは、ふっと小さく息を吐く。
その情景を思い浮かべるだけで、彼女の胸の奥が静かに、けれど強く締めつけられるのが桃花にも伝わってきた。
「……あの時、ナイチンゲールがアタシを見つけてくれなかったら。……見捨てずに、助けてくれなかったら」
一瞬、言葉が途切れる。
「きっとアタシは……あの冷たい土の上で、惨めに死んでいたと思うわ」
静寂が、更に深く店内に沈み込んだ。
「……だから、ナイチンゲールは、アタシの命の恩人なの」
「ナイチンゲールさん……ケルベロスさん……」
フィオンは胸元で両手をぎゅっと組み、その瞳を潤ませていた。
エルフの少女の心には、種族を超えた慈愛の物語が、痛いほどの感動となって響いているようだ。
「……」
その様子を一瞥し、ケルベロスはふっと視線を桃花へ向けた。
「……一応、言っておくけど桃花ちゃん」
優しい声色だった。
「アンタが気に病むことなんて、一ミクロンもないんだからね? アンタは根が優しすぎるから、変に責任を感じて落ち込んじゃうかもしれないもんね。念の為に言っておくわ♪」
「……う、うん……大丈夫。ありがと、ケルちゃん。気遣ってくれて」
小さく頷いた瞬間、桃花の胸の奥に、じんわりと温かいものが広がる。
それは、桃花のおじいさんとおばあさんが、かつてやったこと。
桃花自身には直接の関係はない。
それでも——
彼女が過去の因縁に思い悩み、背負い込んでしまう性格だと知っていたからこそ、ケルベロスは先回りして優しく釘を刺してくれたのだ。
「やっぱり、素晴らしいお方ですね……ナイチンゲールさん……」
フィオンが感極まったように、しみじみと呟く。
「これは、つい最近の出来事よ。といっても……三百年以上前のことだけど」
「確かに……三百年くらい前なら、つい最近ですね」
「全然つい最近じゃないって……二人の感覚には、ついていけないよぉ」
あまりのスケールの違いに、桃花は思わず肩を落とした。
「……おい、今の話って三百年以上も前のことなんだろ? 何言ってんだコイツら。時間感覚バグってるんでねぇか?」
クマの率直すぎる呆れ声に、桃花は思わず苦笑してしまう。
魔族であるケルベロスと、エルフであるフィオン。
この種族は、人間や動物とは比べものにならないほど、圧倒的に長い寿命を持つ。
そのため、時間の感覚に大きくズレが生じてしまう。
それは、どうしても避けられないことだった。
同じ場所にいても、同じ時間を生きているわけではないのだ。
「ク、クマさん……この感覚のズレを共有できる相手がいることに、私ちょっと感動してるよ」
「いや、この感覚が普通だべっちゃ。おめぇも、何言ってんだべよ」
人間である桃花と、ただの動物(?)であるクマ。
その決定的な違いが、生と死、そして時間の捉え方をくっきりと分けていた。
そこでふと、桃花は何かに気づいたように首を傾げる。
「ん? ちょっと待って、ケルちゃん。そのナイチンゲールさんって……今も生きてるんだよね?」
胸の鼓動が、少しだけ早くなる。
「今の話が三百年以上前ってことは……もしかして、ナイチンゲールさんって……」
「そう。ナイチンゲールは『エルフ』よ」
「ええ!? ナイチンゲールさんって、私と同じ……エルフだったんですか!?」
「いや、なんでアンタが真っ先に驚くのよ。っていうか、フィオンちゃん。アンタ知らなかったの?」
「……フィオンさんって、細かいことは気にしないタイプですか?」
桃花とケルベロスは驚いているフィオンを見て、少々呆れたような視線を向けた。
——そこへ。
この微妙な空気をぶち壊すように、クマがまたしても余計なことを口にする。




