第68話 フルパニックモード
桃花は黒柴の子犬姿のケルベロス、そして巨体のクマと一緒に、十文字村の一角に建つ一軒の店へと案内されていた。
店の名は「Treatment Light」。
そこは「エルフ」であるフィオンが営む薬屋。
店内は、静謐な外観を裏切らない、木の温もりに満ちた空間だった。
椅子に腰を下ろした桃花とケルベロスは、その心地よさに身を委ねながら、エルフという種族について言葉を交わしていた。
その時——
店の奥へと下がっていた店主のフィオンが、静かな足取りで戻ってきた。
「お待たせしました……こちら、お茶です。どうぞ」
「あ、わざわざありがとうございます。い、頂きます……」
テーブルの上に置かれたのは、茶葉の緑が美しく透き通る、丁寧に淹れられた緑茶。
それをゆっくりと一口含んだ瞬間、豊かな香りと温かさが全身を巡り、桃花は思わず小さな息を漏した。
張り詰めていた肩の力が、ふっと解けていく。
「……っはぁ。美味しい、やっぱりお茶は落ち着くなぁ……」
「あ、それと熊さん。下に敷くシートです。これしかなくて……申し訳ありません」
そう言ってフィオンが持ってきたのは、どこにでもある無骨なブルーシート。
「いや、大丈夫だ。それで構わねぇべ……」
クマはそう言いながら、差し出されたブルーシートを受け取ろうと太い腕を伸ばす。
「はいぃぃっ!?」
「おわっち!? な、何だべっちゃよ! 急に大声出してからに!びっくりしたっちゃー!」
フィオンの喉から引き絞られたような突然の大声に、クマは驚いて飛び上がる。
「熊っ……!」
フィオンの様子が、先程までの楚々とした態度から一変した。
目を限界まで見開き、後ずさりしながら激しく動揺する彼女を見た桃花は、「?」と首を傾げた。
——次の瞬間。
「……熊が喋ったぁぁぁぁぁぁーーーーーー!!」
「いや気付いてなかったんかい!!」
桃花のキレの良いツッコミが、完璧なタイミングで静かな店内に響き渡る。
「しかも、すっごくイイ声ぇぇぇぇーーーー!! 」
この流れ。
フィオンが自分の店に招き入れた時点で、「事情は察している」ものだと、全員がそう思っていた。
エルフ特有の鋭敏な感覚で、ただの犬や熊ではないことを見抜いたのだと。
……だが、現実は全く違っていた。
何も気づいていなかったようだ。
一同の思考が、この絶望的なすれ違いに追いつけずにフリーズする。
「あ、あれ? アタシ、もしかして……この子のこと、買い被り過ぎてた……のかしら?」
この状況に、思わずケルベロスがポロッと呟いた瞬間——
「いいっ!? 犬も喋ったっ!? なんでぇぇぇぇーーーー!?」
フィオンのパニックが、更に一段階ギアを上げた。
「あなた何も気付いてなかったんですか!? なんでぇぇ!?ってのは、逆にこっちのセリフだよぉ!」
「まさかこの子、全く気付いてなかったなんて……流石のアタシも驚きよ」
「オラも驚きだべさ。この女、何か裏があってオラたちをここさ招き入れたのかと思って、ちょっと警戒してたのによ……」
この事態に、桃花やケルベロスはもちろん、人質同然のクマまでもが感情を共有していた。
「ひえぇぇーーっ!! 犬と熊がっ!? ふ、普通に会話してるぅぅぅーーー!!?」
事態を理解した側の三人と、理解してパニックに陥る側の一人。
その場にいる全員が、それぞれの理由で困惑し合うという、なんとも奇妙でシュールな空間が生まれていた。
フルパワーで混乱しているフィオンは、言動や挙動にまでその影響が出てきていた。
「とっ、とととにかく!? 皆さん!? いいい一旦落ち着きましょうや! 今、おお、お茶をお出しますのでへっ!? あら? メタノールの方がいいでっか!? それともっ! りゅ、硫酸?」
「いや、お茶はもう出てるわよ。落ち着くのはアンタの方でしょ。というか、メタノールや硫酸とか、そんな物騒なもの出さないでよ。殺す気?」
「一人で勝手に騒いでんのも、おめぇだけだしな」
思いのほか、ケルベロスとクマは冷静である。
桃花もフィオンの取り乱しように驚いてはいるが、彼女ほどではない。
「ね、ねぇ、まずは私と一緒に深呼吸しよ? ね? そうすれば落ち着きますよ」
「んえっ! あれ、うん! は、はひ!?……え、ぇ?」
完全に取り乱して震えるフィオンを見かねて、桃花はそっと彼女の手を取る。
そして、お互いに向かい合い、ゆっくりと呼吸を合わせていった……。




