第67話 エルフ
フィオンが奥へと消えた後、店内に残されたのは、調合された薬草の爽やかな香りと、場違いな沈黙だけだった。
「い、行っちゃった……。なんだか、不思議な雰囲気の子だね」
「ま、ここは大人しく座って待ってましょ♪」
ケルベロスに促され、桃花は控えめに椅子へと腰を下ろす。
だが巨体のクマだけは、居場所を失った大きな岩のように、窮屈そうに突っ立っていた。
「……ねぇ、ここがさっきアンタの言ってた熊坂長範のアジト『バイ菌』なの? 薬屋って、ここ以外に他はないわよね……? なのにこの店、どこをどう見ても、そんな不吉な名前の影すら感じられないんだけど」
ケルベロスの冷ややかな問いが、クマの耳を打つ。
だがクマは困惑を隠しきれない様子だ。
整然と並ぶ薬瓶をキョロキョロと見回し、鼻先をひくつかせている。
「……ち、違うべ。いや、場所自体は、ここで合ってるんだけんど……『倍金』じゃねぇ……。全然違うべさ」
「は? 何言ってるわけ? 場所はここなんでしょ? なら合ってるじゃない。一体何が違うっていうのよ」
「でもさ、ケルちゃん……。お店の入口にあった看板には『バイキング』なんて名前は書かれてなかったよ?」
その場にいる全員が、各々で認識した店名を口にしており、意味が空中で虚しくすれ違う。
「……あ? バイキング? 何言ってんだおめぇはよ……。まぁ、いいべ。ああ、そうだっちゃ。それが最初の違和感だったべ」
クマだけは、桃花が口にした店名の違和感に一瞬気付いた素振りを見せたが、今はそれどころではなかったため、その違和感をあっさりと流し、深く掘り下げることはしなかった。
「しかもさ、その熊坂長範って人、男性でしょ? それに、あの女の子……『フィオン』って名前で村の人たちから呼ばれてたよ?」
桃花も同じような違和感を持っていたようである。
それを聞いたケルベロスは、腕を組みながら首を傾げる。
「そうよね。確か、この店の名前は『Treatment Light』だったわよね。"光の治療”……とっても素敵で綺麗な響きじゃないの♪『バイ菌』だなんて、センスの欠片も品もない、汚らしくてばっちい名前じゃなかったわ」
「はぁ? 汚らしい? ばっちい……? もしかして……まさか、おめぇもか?」
桃花に続き、ケルベロスに対しても、この店名の認識がズレているのではないかと気づいたクマは、それを指摘しようとした。
……のだが……。
「……というかアンタ、まさかこの期に及んで、私たちを騙しているなんて、言わないわよね……?」
子犬の姿でありながら、ケルベロスの射抜くような鋭い視線を受け、指摘しようとした言葉を思わず飲み込んでしまうクマ。
その圧力にクマは顔色を悪くし、目に見えて狼狽し始めた。
「なっ! そ、そんなこと……もうしないっぺよ! オラにも意味がわからねぇだよ! 確かにこの場所がアジトだべ! 間違いねぇ!」
「アンタが最後にここへ来たのはいつよ?」
「……一ヶ月くらい前だべ。アジトへの集合は、決まって月に一回程度だったからな。他の仲間も同じだっちゃ」
「意外と少ないわね。頻繁に会って悪巧み会議とかしてるのかと思ったけど……まぁ、アタシが犯罪集団にこんなこと言うのも変だけど」
「定期的に集まって、話し合い自体はしてたっぺ。ただし、場所は一つに固定しねぇ。アジトの場所を知られる危険を分散するためだっちゃ。だから、他にも集まれる場所はいくつもあるっちゃね」
「へぇ〜。色々と考えてるんだね。私、ちょっと少し納得しちゃった」
「でも、この場所に関する疑問は残るわよ」
桃花は納得したように頷くが、ケルベロスの疑念は晴れない。
「アンタの話と目の前の現実が乖離してるわ……。と言っても、今できることといえば……あの可愛い美少女店主に話を聞いて、確認することくらいかしらねぇ」
クマ自身も混乱しているようで、話はそれ以上続かず、途切れてしまった。
するとそのとき——
「そういえば……」
ケルベロスが不意に思い出したように、艶やかな声を響かせる。
「あの美少女店主……『エルフ』よ」
「エルフ?」
桃花はケルベロスに対して、そのまま聞き返す。
「ええ。こんな人里に紛れているなんて、天地がひっくり返るほど珍しいわ。アタシですら、長い一生の中で、まだ数えるほどしか拝んだことがないもの。それが、まさかこんな場所にいるなんて……。最初見た時は、正直かなり驚いて絶句までしたわ」
「そんなに珍しいの? エルフって」
「すっごく珍しいわ。未だどこに住んでいるのかも分からない種族でね。数も極端に少ないって話よ。だから会えることなんて滅多にないどころか奇跡レベルよ」
「そうなんだ……。知らなかったよ。でも、なんであの子がエルフって分かったの?」
「まずは、あの神秘的な造形ね。耳の先が、木の葉のように少し尖っていたでしょう?」
「あ、うん。私も個性的だなって思ってた」
「それに顔と体が整ってる。あの子、すっごい美少女でしょ?」
「う、うん……。最初に見た瞬間、目を奪われたもん。肌や髪なんて透明感抜群だよ」
「エルフは美男美女しかいないって話もあるくらいだからね。ブサイクなエルフなんて存在しないとさえ言われているほどよ」
「本当!? 一体どんな遺伝子してるの!? 不公平すぎる!」
「更に、アタシと同じで超長寿ね。軽く数百年の時を、あの若々しい姿のまま駆け抜けるのよ。老いという概念すら、エルフにも通用しないのかもしれないわね」
「なんですって!? うらやましい! なんて素晴らしい遺伝子! 分けてほしいよ!」
「魔力も特殊よ。魔族のような禍々しさは微塵もなく、清冽な泉のように澄み渡った魔力でね。魔族とは性質の異なる魔法も操るみたいよ」
「へぇー。魔力にも種類や性質があるんだねー」
「アタシたち魔族には一生かかっても理解できないような、高度な術式を使うとも聞くわ」
「すごい種族だね……。ってことは、あの子は人間じゃないんだ」
「でも、普通に会話できるでしょ? 理性だってあるし、別に変な種族じゃないはずだから、そこは安心していいと思うわ」
「うん……。それに、すごく優しそうな子だったし……ん? ってことは、私より年上の可能性も……?」
「……おめぇら、さっきから楽しそうだな」
話に置いてけぼりのクマが、地を這うような恨めしげな声を漏らす。
「ええ、楽しいわよ♪ アンタはどうか知らないけどね」
「あ、そういえば……」
桃花は、ふと思い出したように声を上げた。
「あの子、ケルちゃんとクマさんの正体に気づいてる感じだったよね? “普通じゃない”って言ってたし」
「そうね。エルフ特有の鋭敏な感覚が、アタシたちの本質を嗅ぎ取ったのかもしれないわ」
「オラは、ただの熊だぞ?」
「アンタはどう見ても普通の熊じゃないでしょ。二足歩行で言葉を喋るんだから」
「ケルちゃんも二足で歩くし、言葉を喋るよね……。今更だけど」
「あの美少女……何かに気づいているどころか、アタシたちの目的すら見透かしてるかもしれないわね……。油断しないでいきましょ」
そして、この「Treatment Light」の店内で、予想外の展開が桃花たちを更に深い渦へと巻き込んでいくことになる。




