第64話 十文字村
クマに先導される形で、勾配のキツイ山道を一歩ずつ踏みしめる。
そして、不意に視界が開けた。
湿った土の匂いに混じり、人の営みが放つ暖かな空気が鼻腔をくすぐる。
「……ここがオラ達のアジトがある『十文字村』だべ」
クマが重い足取りを止め、力なく告げる。
眼前に広がるのは、立ち並ぶ家屋の煙突から細い煙が立ち上り、いくつかの商店が軒を連ねる、活気に満ちた村の情景だった。
一見すればどこにでもある平和な村だが、その入口に佇む無機質な鉄の十字架が、どこか異様な威圧感を放っている。
「へぇ〜。ここが十文字村か。私、初めて来たけど、想像していたよりずっと立派な村だね」
桃花は率直な感嘆を瞳に宿し、夕暮れ時の賑わいをゆっくりと見渡した。
「アタシが最後にここへ寄ったのは……そうね、つい最近の話かしら。と言っても、人間たちの尺度で言えば、百年くらい前のことだけど」
「そのケルちゃんの言う “つい最近” って感覚、人間には絶対理解できないよね」
さらりと悠久の時を口にするケルベロスに、桃花は困ったような、けれどどこか親しみを感じさせる苦笑いを浮かべた。
そんな二人の、どこか場違いなほど穏やかなやり取りの横で、クマは落ち着かない様子で巨躯を揺らす。
クマは意を決したように、懇願するような視線をケルベロスへと向けた。
「……なぁ。案内はここまでで、いいやんな……? もう勘弁してくれや」
案内役としての役目をここで終わらせたいという悲痛な思いが、ありありと滲み出ていた。
だが、それを聞いたケルベロスはというと、心底呆れたように冷ややかに眉をひそめてみせる。
「はぁ? 何を寝ぼけたことを言ってるのよ。いいわけないでしょうに」
冷徹な一言が、クマの僅かな希望を木っ端微塵に打ち砕く。
「ここまで来ておいて、“後はご自由にどうぞ” なんて中途半端な展開、アタシの辞書にはないわ。さぁ、とっととアジトまで案内しなさい」
「なっ!……おめっ! 一体どこまでさせる気だべ! こんなの、オラに組織を裏切れって言ってるようなものだべさ!」
「そうよ」
必死の抵抗を試みるクマに対し、ケルベロスは残酷なまでにあっさりと言い放った。
「というか、もうとっくに裏切ってるようなものじゃない。何を言ってるの? 今更よねぇ〜桃花ちゃん?」
「え? また私!?」
突然、また話を振られ、思わず声を上げる。
「こんなことしたら、オラもう組織には居られねえ……。戻れねえよぉ……」
クマは地面にめり込むほど深く肩を落とし、まるで幽霊のように力なく項垂れた。
「いいことじゃない。もう悪さしなくて済むんだから、これはいい機会よ。さっさと足を洗うことね……と言っても、今のアタシが強く言えることじゃないんだけどね」
「ケルちゃん……」
ケルベロスの吐き出した言葉には、自嘲めいた重苦しい響きが混じっていた。
——ほんの一週間前までのこと。
ケルベロス自身もまた、魔族側から鬼の陣営へと送り込まれ、悪事に手を染める駒の一つに過ぎなかったのだ。
今のクマの姿は、かつての自分の影そのものだった。
だが今は違う。
桃花という光を隣に、自身の意思で新しい道を歩み始めている。
様々な出来事を経て、ケルベロスも考えを改め、行動を変え始めていた。
ケルベロスは小さく首を振り、過去の残り香を振り払うように村の入口を見つめた。
そして、そのまま村へ足を踏み入れようとしたのだが、ここで桃花は重要なことに気づき、ケルベロスを制するように見上げた。
「あ、待ってケルちゃん。そのままの姿だと入れないよ。また豆柴に変身してくれる? あ、村の人に気づかれないように、あそこの塀と木のところでね?」
「あら? そうだったわね。アタシとしたことが♪ うっかり屋さん♡ ちょっと行ってくるわね〜♪」
桃花にそう言われ、村人に見えない場所に移動するケルベロス。
そして、次の瞬間——
おどけた口調とは裏腹に、ケルベロスの全身から、月の光を凝縮したような淡い輝きが溢れ出した。
膨大な魔力が弾けるとともに、山のような体躯がみるみるうちに凝縮されていく。
光が収まった後に座っていたのは、つぶらな瞳を輝かせ、首を傾げる一匹の黒柴の子犬だった。
「はあん!? な、なんだっぺ!? 今、一体何が起きたんだべっさよ!」
すぐ傍で繰り広げられた、物理法則を無視した急激な変化に、クマは目玉が零れ落ちんばかりに驚愕し、腰を抜かさんばかりにのけぞった。
「小さく変身してもらったんだよ。私と普段一緒にいる時や、街に入る時はこうしてもらってるの。ケルちゃんの元の姿は大きいから目立っちゃうし、騒ぎにもなるだろうから」
桃花がそう説明すると、クマは呆気に取られたまま「はへあぁぁ……」と気の抜けた声を漏らし、目の前の子犬を見つめた。
無事に変身を完了したケルベロスは、桃花とクマの元へ、タタタッと走り寄ってくる。
「お待た〜♪ だいぶ目線が低くなったわ。変身するたびに思うけれど、こんなにも見える世界が違うものなのね」
黒柴の姿で、ケルベロスは周囲の匂いを嗅ぎ分けながら冷静に分析する。
「……今更だけんどもよ。デッカくなったり、ちっこくなったり……おめぇ、一体ナニモンなんだっぺよ?」
ケルベロスの変身を短時間で二度も目撃したクマは、恐れと好奇心が混ざり合った、根源的な疑問を口にした。
すると——




