第63話 B - ウイルス
クマは、喉の奥に引っかかった何かを無理やり吐き出すかのように、ゆっくりと口を開いた。
そして、アジトである薬屋の店名を言葉に出していく。
「…………バイキン」
「……なんですって?」
あまりにも場違いな単語を耳にして、ケルベロスは思わず聞き返してしまう。
「薬屋の名前は『倍金』だっぺ。そこを拠点にして、オラたちは活動してるんやで」
「なんで薬を扱う店名が『バイ菌』なのよ!!」
静寂を切り裂くような、裂帛のツッコミが飛ぶ。
「紛らわしすぎるでしょ! 全然薬屋に関係ない名前じゃないの! むしろ、バイ菌なんて薬屋に絶対あってはならない名前でしょうに! しかも隠れるどころか、逆に目立つわ!」
「そんなこと、オラに言われても……」
クマの言う「倍金」と、ケルベロスの脳裏に浮かぶ「バイ菌」。
二人の間に横たわる溝は、もはや埋めようのないほど深く、そして滑稽に食い違っていた。
傍らでやり取りを眺めていた桃花は、一人だけ「バイキング?」と首を傾げていたが、彼女のささやかな疑問は、その場の雰囲気にあっさりと呑み込まれ、霧散していく。
そして誰もそれに気づかぬまま、致命的とはいかないまでも、変な誤解を孕んだこの奇妙な会話は、泥沼の深みへと足を踏み入れていくのだった。
ここでケルベロスは一度、大きく天を仰ぎ、荒れ狂う思考を無理やり深呼吸で鎮める。
「……ふぅ。まぁ、いいわ。それで活動範囲は? 他のメンバーは今どこにいるの?」
「多分、二人はアジト周辺の調査に行ってるはずだっちゃ。残り一人はアジトにいると思うべ」
「そのアジトにいるのは誰よ?」
「リーダーである熊坂長範だ。今は薬屋をやりながら、そこで金勘定と、次の計画を練ってるはずだっちゃね。多分な」
「ふ〜ん。そう〜♪」
その瞬間、ケルベロスの唇が艶やかに吊り上がった。
獲物を追い詰めた肉食獣が、最後に喉元へ牙を立てる直前の、残忍で美しい愉悦の色。
「ん? どうしたのケルちゃん?」
「ちょうどいいわ!」
「え?」
「今から、その『十文字村』に行きましょう! ここからなら、そう遠くないはずよ♪」
「い、今から行くの?」
「そうよ。そこに桃花ちゃんの知り合いもいるんでしょ? だったら行ってみましょうよ♡ アタシも久しぶりにまた行きたいし〜♪」
歌うような弾んだ声でケルベロスは言葉を紡ぐ。
しかし、その響きには抗いがたい決定事項としての重みが宿っている。
「それに、コイツのリーダーである熊坂長範も在宅なら……ついでにぶっ潰しておきましょ〜♪ 壊滅、壊滅ぅ〜♡」
「はぁ!?」
物騒な
宣言が鼓膜を震わせた瞬間、クマの表情は絶望に塗りつぶされ、目を見開いて叫び出す。
「お、おい! 約束通り、聞かれたことは話したっぺよ! オラのリーダーをぶっ潰すなんて、聞いてねえぞい!」
「たった今聞いたじゃない」
あまりに涼しい顔で、あっさりとケルベロスは言い放つ。
「というか、今思いついたんだも〜ん♡ アタシがやりたいって言ってるんだから、仕方ないわよね〜♪」
「なんてっ! 無茶苦茶なやつだっぺさ……!」
「そもそも、アタシが情報を引き出しただけで、それだけで済むだなんて思ってたわけ?」
ケルベロスは愉悦に浸るように一歩、また一歩とクマに歩み寄り、言葉のナイフをじりじりと突き立てる。
「こうなることくらい、予想できなかったのかしら? あらあら、本当におバカなクマちゃんね〜♪ お可愛いこと♡」
「……ク、クソッ! チクショオォォォォォーーーーーィィッ!!」
クマは慟哭し、拳と頭を地面に激しく「ドン!ガン!ゴリ! ぺち!」と鈍い音を出しながら叩きつけ、制御不能な悔しさを大地に爆発させた。
そのやり場のない悔恨が、土煙とともに舞い上がる。
このあまりにも凄まじい荒れ狂いっぷりに、桃花は言葉を失ってしまう。
そして地味に、そして静かにドン引きまでしていた……。
「で、でも……そうだよね」
桃花は、自分の中の動揺を押し殺すように、努めて冷静に表情を引き締めた。
「この話を聞いた以上、このまま熊坂長範を放ってはおけないね。じゃあ、今日は十文字村に泊まろうか」
「ええ、それが賢明ね♪」
桃花の提案に、ケルベロスが満足げに頷く。
先ほどの冷酷さはどこへやら、今はただの旅の連れのような柔らかな表情となっている。
「あそこには前にも行ったことがあるけれど、今はどう変わっているかしらねぇ♡」
「ケルちゃんって、ホント色んなところに行ってるよね。逆に、行ったことない場所ってあるの?」
「そりゃあるわよ〜♪ アタシたちが思ってるよりも、この世界はず〜っと広いのよ〜ん♡」
「それ前も聞いたよ〜」
まるでピクニックへ向かうような和やかな談笑。
だがその傍らで、クマが地を這うような低くて、とてもイイ声を絞り出した。
「ククックッ……おめえら……熊坂長範をナメてるだろ?」
その瞬間、二人の視線が同時にクマへと注がれる。
「リーダーは強いぜ! オラよりも数倍……いや、数十倍は強い! おめえらじゃ、まず勝てねぇよ! 御愁傷様ってのは、おめえらの方だっぺ! 残念だったな! ザマァみろや! ケッケケー!」
「……」
「……」
無機質な沈黙が場を支配する。
「な、なんだべっちゃよ……。何、旧に黙って、オラをじっと見てるっちゃよ……」
それを聞いたケルベロスは、鼻先でせせら笑う。
「はぁ……。何を言い出すかと思えば……。なんかアタシ、笑えてきちゃうかも」
「なんだって!?」
「アンタがその程度なら、親玉の熊坂長範も大したことないわね」
「おめぇら、熊坂長範の実力知らねえくせしてよ! 後悔するといいっちゃ!」
「……というか、アンタらのことなんて、最初から脅威なんて1ミクロンも感じてないんだけど。もはや雑魚よ。ザ・コ♡ お話にもならないわ。そもそも勝負の土俵にすら上がっていないことに、アンタはいつになったら気づくのかしら〜?」
「なっ! お、おめぇは……! さっきからっ……言いたい放題っ……!」
「フン、もういいわ。ほら、さっさと十文字村のアジトまで案内しなさい」
「はあっ!? なんでオラが、そんなことしないといけねえんだってばさ!」
「どうせ戻るんでしょ? だったら案内くらいしなさいよ。暇でしょ? それとも、案内すらできないほど、記憶もおザコちゃんなのかしら〜?」
そして、ケルベロスはクマへ三つ首を近づけ、毒を孕んだ声で囁いた。
「……あ、でもやりたくないなら、それでもいいのよ〜? その時は、人間の言葉を解する『極めて珍しい希少な検体』として、窓のない冷たい研究機関へと高値で売り飛ばしちゃうかもねぇ〜?」
「ひょっ!?」
「もしそうなったら……二度と太陽は拝めないし、外にも出られない……というか、死んでも出られないわね〜♪ 御愁傷様〜♡」
「ひいぃぃっ……!!」
「ケ、ケルちゃん……いくらなんでも、それはちょっと……」
もはや、どっちが悪党なのかわからなくなってきた桃花。
それでも、この暴力的なほどの交渉術が事態を動かしているのは事実であり、それを理解している彼女は、複雑な表情のまま口を噤んだ。
「………………こ、こっちだべ……。オラに付いてくるっちゃ…………」
もはや反発する気力すら削がれ、クマは重い足取りで、とぼとぼと十文字村の方角へ歩き出した。
「フン! 素直にそうすればいいのよ!」
「……あんな脅し文句を言われたら、そうせざるを得ないし、従う他ないよケルちゃん」
そして、桃花とケルベロスは、意気消沈したクマの背中を追うように歩き出す。
しばらく進むと、鬱蒼とした森の切れ間に、温かな村の灯りが見えてきた。
近づいていくと、村の入口の横に巨大な鉄製の十字架が聳え立っており、そこには、年月の風雨に耐えた重厚な刻字で『十文字村』と、村名が刻まれていた。
だが、村全体を俯瞰してみても、決して寂れた印象はない。
建物は、歴史を感じさせる古びた木造建築から、新しく建て替えられたばかりの堅牢な平屋までが混在している。
行き交う村人たちの足取りは軽く、どこか活気に満ちていた。
思いのほか、村は繁栄を謳歌しているようだ。
通りには豊かな品を揃えた商店が軒を連ね、村の中央には清冽な水を湛えた噴水が涼やかな音を立てている。
その周りのベンチでは、人々が穏やかに語らい、時折笑い声さえ聞こえてきた。
そんな平和を纏った十文字村に、桃花とケルベロスは静かに足を踏み入れていく……。




