第59話 BLACKER THAN DARK
桃花とケルベロスに骨の髄までしっかりと懲らしめられ、「もう二度と悪さはしない」と涙ながらに誓ったクマ。
直面していた命の危機からは辛うじて解放されたものの、依然として地面に正座をしたまま、小さく縮こまっている。
巨躯に似合わぬその卑屈な姿勢が、場の奇妙な静寂を際立たせていた。
そんな重苦しい空気の中。
桃花はふと首を傾げ、先ほど飲み込まれた疑問を再び投げかける。
「クマさん……本当は、お腹が空いてるんじゃない?」
「お、お腹……で、ごぜえますでやんすか?」
「まーた変な口調になったわねコイツ」
唐突に向けられた場違いなほどの温情に、クマは泳ぐように視線を彷徨わせた。
自分が今、なぜ慈悲深い眼差しを向けられているのかが全く理解できず、ただ困惑だけを全身から滲み出している。
桃花の脳裏には、最近よく耳にする「人里に降りてくる飢えた動物たち」の悲しい姿が浮かんでいた。
そんな彼女の無垢な気遣いを切り裂くように、今度はケルベロスの冷ややかな声が差し込まれる。
「ねぇ、桃花ちゃん。なんでコイツにそんなこと聞くの?」
桃花は少し考えるように視線を落とし、胸の内に芽生えた推測を静かに言葉へと変えていく。
「……うん。なんでクマさんは、こんな追い剥ぎなんてことするんだろうって、ふと思ったの。もしかしたら、木の実や山菜などの食べ物が山に無かったからなのかなって」
「だから仕方なく山を降りてきて、こんな追い剥ぎをしていたと?」
「うん。ほら、ここ最近よく聞くでしょ? 山から熊が出てきて村や街に食べ物を求めて出没してるって話」
「ネットやニュースでも話題になってたわね。人間も襲われたとか」
「だからこのクマさんも、もしかしたら食べ物に困ってたのかなって」
その切実な推測を耳にした瞬間、ケルベロスは腕を組み、鼻先でせせら笑い飛ばしてあっさりと言い切った。
「なるほど、そういうことね。でも断言するけど、絶対違うわよ」
「うん……ん? え? 違う!?」
意外な返しに思わず声を裏返す桃花をよそに、ケルベロスは淡々と獲物を追い詰めるような理詰めの言葉を重ねていく。
「だって、コイツが要求してきたのって『身包み』でしょ? 『食べ物』じゃなかったわよ。それに最初から最後まで、“食べ物を寄越せ”なんて言葉、一度も言ってこなかったわ」
「あ、言われてみれば……」
「お腹が空いて仕方なかったんなら、まず何よりも先に食べ物が一番にくると思わない? “金や装備品を置いていけ”なんて発想はまず出てこないし、言わないわよ」
「そ、そうか……なぁ?」
「そもそもコイツの体を見てご覧なさいよ」
ケルベロスは顎で無骨にクマの腹を指し示した。
「全然痩せてないじゃない! なんなら肉付きが良過ぎるまであるわ。お腹だって出てるし、丸々のデブデブよ」
容赦なし。
その言葉が、冷たい風のようにその場を吹き抜ける。
「……」
クマは何も言わず重力に逆らえない自らの腹を、ただじっと見つめ、沈黙を守っている。
そんなクマを横目に、ケルベロスはそのまま話を続けていく。
「こんな体したやつが食べ物に困ってるわけないじゃない。むしろ逆に贅沢して美味しい物食べまくってるまであるわ。完全なる栄養過多の立派な肥満体。これほど説得力のある証拠はないわね」
「……でも、確かにそうだね。体重も軽く500kg超えてるし」
正座しているクマの横腹に重なる脂肪を改めて観察し、桃花もあっさりと納得の頷きを返した。
「結局、コイツは何がしたかったのかしら? 身包みを剥がして、それを一体どうするつもりだったのかしら?」
「え? どうするって……お店に売ってお金にするんでしょ?」
「クマが直接店に品物を持ち込むの?」
桃花の疑問に、ケルベロスは即座に首を振る。
「そんなことしたら、街に入った瞬間から大騒ぎになると思うわよ? まぁ、魔族や妖怪が普通に出入りできる街や店もあるから、一概には言えないけどね」
「そっか……普通に考えて、街に熊が現れたらその瞬間から大騒ぎになって、ハンターに囲まれちゃうよね」
「でしょ? この辺りでクマが街や店に入れる場所といえば、魔族や妖怪がいる街になると思うわ。この近くだと、まだ距離がある『武神街』と、少し前に立ち寄ったDevil’s Doorがある『望郷街』くらいしかないはずよ?」
「どっちも遠いね……」
桃花の眉が、怪訝そうに寄せられる。
「そうなると、ここから近い村か街に立ち寄ることになるよね……でも、そのまま入ったら捕獲されるか、最悪その場で駆除されちゃうね。運が良ければ逃げられるかもだけど」
「しかもこのクマ、魔族でも妖怪でもない普通の動物なのに、なぜか言葉を話すでしょ?」
「そうだよね。普通の動物は喋らないもんね」
「そんな正体不明の希少種が捕まったらどうなるか……即座にどこぞの研究機関に引き渡されて、一生冷たい檻の中で、ありとあらゆる解剖や実験の被験体にされるわよ」
「!!」
その悍ましい未来予想図を耳にした途端、クマの体がビクッと地面から離れるほど跳ね上がった。
「コイツ、救いようのないくらい愚か者なバカではあるけれど……」
ケルベロスは突き放すような言葉と冷徹な視線をクマへと投げつけるが——
「そこまでバカじゃないと思うの。わざわざそんな危険は犯さないんじゃないかしら」
「じゃあ……このクマさんは奪った物をどうするつもりだったの?」
一瞬、場に濃密な「間」が生まれた。
「……もしかして、だけど」
「ん?」
「コイツ、裏で真っ黒くて暗くて、闇深い犯罪に加担してるんじゃないかしら?」
「ええっ!? ク、クマさんが犯罪に!?」
「っ!?」
ケルベロスの予想した言葉を聞いたクマは露骨に驚愕し、その目を皿のように見開く。
けれど重い口は決して開こうとはせず、二人の会話にビクビクと怯えながら耳を傾けていた。




