第57話 必殺少女
「さぁ、おバカなクマちゃん……死んでくれる?」
チャージ完了の合図。
死神の宣告よりも甘く、そして冷徹な声。
三つ首の魔獣——「地獄の番犬ケルベロス」の全身から噴き上がる黒炎は、周囲の酸素を焼き尽くし、逃げ場のない明確な殺意となって膨れ上がっていた。
「マァァンマミィィィヤァァァーーーーン!! 食い殺されるぅぅぅーーーー!!」
絶望の底から絞り出すクマの断末魔。
その情けない叫び声を聞きながら、ケルベロスは三つの首を同時に傾けてみせた。
「はぁ? 何言ってるわけ? 食い殺したりなんてしないわよ。殺した後に食うだけ」
「一緒じゃぁぁぁーーー!!」
死の淵に追い詰められている状況にもかかわらず、クマは鋭くキレのあるツッコミを見事に決めた。
その滑稽なやり取りが響いた瞬間、それまで呆然としていた桃花がハッと我に返り、両者の間に割って入る。
「ケ、ケルちゃん! ちょっと待って、ストーップ!」
「なによ桃花ちゃん! 邪魔しないでよ! 止めないで! 今からこのバカ毛玉を、熊の丸焼きにするんだから!」
「熊の丸焼きって……何もそこまでやらなくても……」
桃花が焦って制止する。
だが、ケルベロスはそれを受け入れる気などなさそうである。
「桃花ちゃん! アンタは優しすぎるのよ! 甘いのよ! 優甘いのよ! 激甘パフェで甘々のトッピング増し増しで盛り盛りなのよ!」
怒髪天を突く勢いで、ケルベロスはデザートに例えたよくわからない言葉を叩きつけてくる。
「ここでコイツを見逃したらダメ絶対! アタシらみたいに、運悪く絡まれる被害者が間違いなく出てくるわ! 桃花ちゃんもさっきそう言ってたじゃない!」
激しく喋ると同時に、三つの口から黒い火の粉が散っている。
「だから! 今すぐコイツをこの場で始末して、ここで食ってやるの! 丸焼きにして熊鍋にして跡形も残さず食い尽くすの! それしかないの! それ以外ないの! というかアタシがぶっ殺したいのよ!」
「イッヒィィンエッヘォォォォォーーーーーンアッハハァァァァーーーーーン!!」
議論の俎上に載せられたクマは、またしても奇妙で耳障りな断末魔の悲鳴を上げた。
それを聞いたケルベロスは……。
「うるさい!! さっきからなんなの!! バカみたいな悲鳴をバカみたいに出しやがって!! バカで空気が汚れるじゃない!! バカじゃないの!! やかましいのよ!! 黙りなさいよ!! 喋んじゃないよ!! 」
「ケルちゃん……。“黙れ、喋るな” って……。それ、紅葉さんも同じようなこと言ってたよ」
怒りのあまり、気付かぬうちに語彙力が「バカ」に侵食されていくケルベロス。
気づけばこのクマに対して何回「バカ」と言ったのか、もはや数えるのも馬鹿らしいほどに言い放っている。
そのあまりの剣幕に、桃花は流石に気の毒に感じ、そっと宥めるように合いの手を入れた。
「でもケルちゃん……。クマさんを丸焼きにするのは、ちょっと乱暴すぎるよ。もっと優しく、丁寧に扱ってあげないと……ね?」
「……ちっ! 桃花ちゃんが、そこまで言うなら仕方ないけどさ……」
ケルベロスは渋々と、天を突いていた炎の勢いを絞っていく。
だが、その黄金の瞳に宿る不満の炎までは抑えていなかった。
「でも正直、アタシはこれじゃ気が済まないし、納得もいってないんだけどね。このアタシの怒りと、元の姿に戻ってしまっているこの状態。流石にこのままじゃ収まりがつかないわ!もう熊鍋とかどうでもいいから、一気に焼き殺してスカッ!とストレス発散したい気持ちの方が強いわねっ!」
「……っ!……!!」
ケルベロスに「うるさい! 黙れ! 喋るな!」と怒鳴られてしまったクマは、悲鳴すら上げられなくなり、必死に両手で口を塞いでブルブルと震えながら堪えた。
そんな震えるクマを、ケルベロスはギロリと血走った目で、今にも噛み付かんばかりに鋭く睨みつける。
「ケルちゃん、ダメだよ」
桃花の声が静かに、重みを伴って響いた。
「ケルちゃんの炎は強力すぎるんだからね。クマさんに当たったら一発で黒焦げの灰になっちゃうよ。もしそんなことになったら……」
ここで一拍、間を置いて桃花は言葉を切った。
その瞳に宿った光が、ふわりと変化する。
「すっごい新鮮で、脂の乗った美味しい『熊肉』が台無しになっちゃうじゃない? せっかくの絶品『熊鍋』が食べられなくなっちゃうんだよ? それでもいいの?」
「え?」
「え?」
ケルベロスとクマは、ほぼ同時に桃花を見て、全く同じ反応を示した。
両者は一瞬状況が理解できず、自分の耳が捉えた言葉の真意を疑った。
けれど桃花は、そんなことなど全く気にも留めていない様子で、そのまま続ける。
「だから! このクマさんの相手は私がするよ!」
そう言って桃花は、「はあぁっ!!」と、気合のこもった鋭い声を上げ、力強く戦闘態勢の構えを取り、地を踏み締めた。
その姿に一切の迷いはない。
完璧な格闘の構え。
ここでケルベロスは、ようやく気づいたように静かに言葉を溢した。
「……ああ、アタシ、どうやらとんでもない思い違いをしてたみたいね」
桃花は最初から、このクマを逃がすつもりなど毛頭なかったのだ。
彼女の頭の中にあるのは「慈悲」などではなく、最高の食材を最高の状態で仕留めるという、純粋な「狩人」の論理。
「熊鍋にする」という結論だけは、ケルベロスと完全に一致していたのだ。
そしてクマもまた、野生の勘で察知していた。
いや、これは本能というべきだろう。
この場で最も恐れるべきは、地獄の業火を操る魔獣ではない。
目の前で可憐な笑みを浮かべながら、自分をただの「肉」として見定めている、この人間の少女の方なのだと、ここでやっと気がつく。
だが気づいた時には逃げ場など、もはやどこにも残されてはいなかった。
ここは平原、目の前に簡素な東屋はあるが、巨躯なクマが隠れられる場所ではない。
もはや万事休す。
桃花に武器はない。装備も外した。
しかし、そこから放たれる桃花の気迫は、ケルベロスの黒炎よりも鋭くクマの皮膚を刺していた。
仕留める気満々の気合い。
凄まじいの一言に尽きる。
クマは自分が「熊鍋」にされる瞬間が、刻一刻と確実に迫っていることを、今ここで明確に自覚した。
桃花の瞳は、夜空の星を閉じ込めたかのようにキラキラと綺麗に、そして残酷に輝いている。
彼女の視線の先には、「今、ここで生きているクマ」の姿は映っていない。
見えているのは、湯気を上げる土鍋の中の、熊肉が美しく盛り付けられた熊鍋だけ。
桃花の中では、このクマはすでに「調理済み」であった。
「熊鍋、熊肉、熊鍋……でっかい熊肉、美味しい熊鍋じゅるり……」
幼い子供が宝物を数えるような、無垢な呟き。
その表情はとても嬉しそうにしており、心の底から楽しみにしているのが一目で分かるほどだ。
その様子を目の当たりにしたクマはというと——
「こ、これは……! マ、マジで……! 本気で超ヤバイっちゃよ!」
クマの背筋を、本物の死の恐怖が駆け抜ける。
さっきまでの勢いなど影も形もなかった。
「さぁ! 行くよ!」
桃花の足が爆発的な勢いで地を蹴った。
だが次の瞬間――
「——すみませんでした!! どうか、ゆるぅ……」
このままでは、確実に熊鍋にされる。
そう悟ったクマはついに観念し、土下座で謝罪の言葉を全力で叫ぼうとした。
だが、すでに空気を切り裂いて迫る桃花に、許しを乞う声は届かなかった。
一瞬で懐に潜り込む風のような踏み込み。
クマがその接近を網膜に捉えた刹那。
桃花の「おばあちゃん直伝の技」。
この容赦無き渾身の一撃が、クマの土手っ腹へと放たれた——




