第55話 キャストオフ
「……おい! まだ持ってるでねぇかよ!」
静寂を切り裂くようなクマの怒号が空気を鋭く震わせた。
桃花は、跳ね上がる心臓を抑えるように目を瞬かせる。
「え!? どれのこと!?」
目の前に立つ巨躯は、もはや理性の欠片も感じられないくらいに、苛立ちを剥き出しにしていた。
地団駄を踏むたびに土埃が舞い、クマは威圧するように一歩、また一歩と距離を詰めていく。
「腕と脚についてるそれ! その物騒な装備! それに何か仕込んでるべ!」
叫ぶその声は、無駄に良い響き(イケボ)であるだけに、その醜悪さが際立っていた。
「刃物とか銃とか爆弾とか! 何ならレーザービームとかも出してくるんでねぇのか!? そんなもん当たったら、オラ即死だべさ! ふざけんな卑怯者めが!」
「いやいや、流石にそんな機能はない……と思う。多分?」
「はぁ!? 何しらばっくれてんだべさ! ふざけおってからに! それも外せ! 何がもう無いだよ! この嘘つきの卑怯者が!」
クマが指差したのは、桃花の両手足に装備されている、おばあさんから譲り受けた『破魔の籠手具足「苦死滅」』。
その機能を知る由もないクマにとって、それはもはや最新鋭の最終兵器にすら見えているようだった。
どうやら次の標的はそれらしい。
「え? これも外すの?」
「当ったり前だっぺよ! 全部外せっちゃ! この卑怯者め!」
「ええ……」
あまりの剣幕に、桃花は心の中で小さくため息をつく。
そして、両手足の装備に指をかけ、止めていたベルトを緩める。
「ア、アタシ、もうそろそろ、限界、かも……。この、バカクマが……!」
横でその光景を凝視していたケルベロスの口から、地を這うような低い唸りが漏れ出した。
三つの首が、それぞれ異なる角度からクマを睨みつけ、殺気という名の重圧を撒き散らしている。
巨大な体が、怒りで小刻みに震え、足元からは陽炎のようにゆらゆらと不吉な黒炎が立ち上り始めた。
なのにもかかわらず、殺気を向けられているクマは、まるで気が付いていない。
「……ほら、外したよ。これでいい?」
桃花は深く息を吐きながら籠手と具足を外した。
それらを刀が置かれているテーブルまで運び、そっと並べていく。
「……はい。見ての通り、もう何も持ってないよ」
そう言って桃花は、再度両腕を伸ばし、着物の左右の袖を手で掴み、ヒラヒラと振って何も持っていないことを証明していた。
その直後——
左の袖口からキラっと金色に輝く、細長い一本の鉄の棒がポロッと出てきて、そのまま地面にポテッと落ちた。
「あ」
その瞬間、桃花は思わず声が漏れてしまう。
「……」
クマは無言で、地面に落ちた「それ」を見つめていた。
「……なんだそれ?」
クマは静かに、そして無表情で桃花へと顔を向け、問いかけていく。
だが桃花は、まるで何事もなかったかのように、落ちた金色の鉄の棒をゆっくりと拾い上げ、クマへと説明していくのだが……。
「……これはね。簪っていう髪飾りだよ。旅に出る前、おばあちゃんからもらった大事な物なんだ。私、今は髪が短いから、まだ満足に使えてないんだよね。だから……」
「そうじゃねぇ! おめぇたった今、“もう何も持ってねぇ”って言ったばっかりだろうがよ! 何だそれは!? ガッツリと持ってるじゃねぇかよ! ふざけやがって! 嘘つきの卑怯者めが!」
クマの咆哮が東屋の屋根を再度震わせた。
ただの簪一本で、狂ったように喚き散らすクマの姿を見た桃花は、流石に動揺を隠せない表情を見せてしまう。
そもそも武器ですらない簪で、ここまで過剰な反応を示すクマは、もはやキチガイと言ってもいいだろう。
「いや、これは……別に隠してたわけじゃなくてね。袖の中に入れてたのを、ただ忘れてただけなんだよ。お守りとして身に付けていたってだけだから……」
「嘘をつけっちゃ! んなモン、どっからどう見ても、ただの『暗殺用の毒針』だべさ! そんでオラが油断した隙に首へブスリってか! 卑怯にも程があるべ! 必殺仕事人の殺し屋かおめぇは! あーおっかねぇおっかねぇ!」
「殺し屋って……」
耳を塞いで大袈裟に首を横に振るクマの姿は、もはや三文芝居のような喜劇にしか見えない。
低くイイ声で、こうも「おっかねぇ!」と連呼されると、もはやコメディを通り越して新手の嫌がらせかと思ってしまう。
「いやいや、毒針って……そんな物騒なものじゃないよ。ほら見て、先だって丸くなってるし刺せないよ。だから……」
「黙れっちゃ! んなモン、シュシュッと忍者みてぇに鋭くぶん投げて、オラの急所にぶっ刺すつもりだべ!? わかってんだかんな! この毒婦! 暗殺女!」
「毒婦……暗殺女……」
殺し屋。
毒婦。
暗殺女。
次々と浴びせられる全く身に覚えのない、あまりにも理不尽なレッテルに、桃花の瞳にうっすらと涙が浮かぶ。
その傍らで、ケルベロスの我慢は、ついに沸点という名の臨界点を超えていた。
三つの首が「ギチギチ……」と音を立てて牙を剥き出し、その間から黒炎が漏れ出していた。
そして、その足元の黒炎も、もはや東屋を焼き尽くさんばかりの猛りを見せ、周囲の草木を一瞬で炭へと変えていく。
だが必死に抑え、我慢している。
桃花がやると言った以上、ここで割り込むわけにはいかないと、必死に耐えている。
そして桃花は渋々、その簪を長屋のテーブルの上へと置く。
刀と籠手具足、それと簪が綺麗に並べられている。
「こ、今度こそ、もう何も持ってないよ。ほらほら〜」
「……」
クマは急に黙り込む。
そして偉そうに腕を組みながら、再び桃花を頭のてっぺんから足の先まで品定めするように、嫌らしく舐め回すように視線を滑らせていく。
その粘つくような視線が、桃花の肌を粟立たせた。
——そして次の瞬間。
「……おい!まだ持ってるだろうがよ!」
「ええ!? もう無いってば。ほらよく見てよ」
桃花は、その場で再度くるりと回って、本当に何も持っていないことを示す。
だが、クマは全く信用していない様子。
「いーや! まだあるっちゃ! その体の妙な膨らみ! それはなんだべさ!?」
「えー? どこ?」
「そこだそれ! その胸の不自然な膨らみのことだよ! それは一体なんなんだってばよ!?」
「……っ!?」
クマの指が着物越しに桃花の胸に向けられた。
「あ、いや、これはね! その……」
桃花は言葉に詰まり、羞恥と驚きで、顔どころか耳の先までが燃えるように熱くなった。
「そん中に何が入ってるんだべよ! 怪しいぞ! それも出せっちゃ!」
「いや、えっと、これはね。だ、出せないの」
「なんで?」
「なんでって……ダメで無理で嫌なの!」
「やっぱり! おめぇ、まだ何か隠してやがんだな!? ったくどこまで隠してんだべよこの卑怯者っ! ならその着物も全部脱げよ! 中にまだ暗器でも隠し持ってるんだべ! 油断も隙もねぇやつだっぺな! “人間の女は男と違って、隠せる引き出しを幾つも持ってる”って話は本当だなおい!」
ジリジリと距離を詰めてくるクマ。
「っ!?」
桃花は予想だにしていなかった急な展開に、視界がじわりと滲んでいき、涙が頬を伝った。
まさか、こんな辱めを人間ではなく、クマにされるとか夢にも思っていなかったため、どうしていいのか分からずにいた。
すると、その時——
ブチッ!
「……カッチーン!」
その声は、確かに空気を震わせ、どこまでも響き渡っていった……。




