第45話 Devil’s Doorを後に
背後で、重厚な扉が「ゴォン……」と低い余韻を残して閉ざされた。
宿の中に満ちていた喧騒と、焦げたスパイスのような悪魔たちの熱気が遠ざかる。
代わりに、『望郷街』の朝の空気が、ひんやりとしたハッカのように鼻腔を抜けていく。
通りを照らすのは柔らかな陽光。
しかし、桃花の胸のうちはその穏やかさとは程遠かった。
目まぐるしく過ぎ去った、昨晩から今朝にかけての出来事が、まだ整理されないまま、心のバケツから溢れ出している。
驚き。
困惑。
そして自分でも認めがたい微かな高揚。
それらが綯い交ぜになり、胃のあたりをざわざわとくすぐり続けていた。
ふと隣を見ると、この街の出口まで付き添ってくれるというラウムが、ふいにその足を止めた。
「お見送りをするという段階になって今更ではありますが……。まだお二人に、僕の名前を正式にお伝えしておりませんでしたね。大変失礼いたしました」
ラウムはすっと背筋を伸ばし、淀みのない所作で一歩引く。
仕立ての良い燕尾の裾が、音もなく優雅な弧を描いた。
深々と頭を下げるその姿は、朝の光を背負って一幅の絵画のように完成されている。
「改めまして。悪魔の宿『Devil’s Door』に勤めております、ラウムと申します」
耳に心地よく響く、絹のように滑らかなテノール。
それは王宮の最深部で仕える筆頭執事のような、非の打ち所がない完璧な礼だった。
「確かにアタシたち、お互いに言葉は交わしてたけど、自己紹介はまだだったわよね♪」
ケルベロスは腰に手を当て、モデルのようなポーズでニヤッと不敵に口を吊り上げる。
「ふふっ、アンタも律儀でイイ男ね♡ アタシはケルベロスよ。ヨ・ロ・シ・ク・ね♡」
「あわ、わ、私は、桃花です! よよよっ、よろっしくお願い、いたしまっするっ!」
突然の自己紹介の流れと、目の前の美形悪魔男子との距離が近すぎるせいか、舌が複雑骨折したかのような勢いで、景気よく盛大に噛み散らかす。
「ふふ、よろしくお願いします。ケルベロスさん、桃花さん」
ラウムが細めた目元から、ふわりと柔らかな微笑みがこぼれる。
その瞬間、冷ややかだった朝の空気が、そこだけ春の陽だまりに変わったかのような錯覚を覚えた。
「あっはは〜! 桃花ちゃん、噛みすぎ〜♪ ま、こんなイケメンが相手じゃ、緊張しちゃうのも仕方ないわよねぇ〜♪」
「うぐぅ……は、恥ずかしやー!」
桃花は火を噴きそうなほど熱くなった顔を両手で覆い隠した。
耳たぶまで完熟のトマトのように染まり、指の隙間から熱気が漏れ出している。
「おやぁ? 桃花ちゃん、お顔がリンゴみたいに真っ赤よ〜ん? 盛大に噛んじゃったから? それとも〜、イ・ケ・メ・ンが目の前にいるから〜?」
「ど、どっちもだよぉ!!」
もはや取り繕う余裕もない。
桃花の降参の叫びが、まだ眠りの中にある街の通りに小気味よく響き渡った。
そんな騒がしい二人を、ラウムは琥珀色の瞳を優しく揺らして見守っている。
「ふふっ……。お二人は、とても仲が良いのですね」
「そうなのよ〜♪ 実はアタシと桃花ちゃん、昨日出会ったばかりなのに、もう大事なお友達なの♪」
「……私も、ケルちゃんと出会えて、友達になれて……本当に嬉しいよ。ありがとう」
「こちらこそよ〜♡」
そのやり取りを聞きながら、ラウムは静かに目を細めた。
その眼差しには、慈しみと、どこか遠い記憶をなぞるような、淡い追憶の色が混じっている。
「……きっと、そのように思える素敵な出会いは、これからもたくさんあると思いますよ」
「そうね。アタシもそう思うわ。今もこうして、ラウムとも出会えたし♡」
「ありがとうございます。そのように言っていただけて、大変光栄です」
三人は再び歩き出す。
規則正しく石畳を叩く乾いた足音が、しんと静まり返った通りにリズムを刻む。
出口までの距離は短いはずなのに、この心地よい和やかさがいつまでも続いてほしいと、桃花の胸に名残惜しさが小さく芽生えた。
けれど、ふいにラウムの纏う空気が微かに変質する。
微笑は絶やさぬまま、だがその瞳の奥だけが、薄氷が張るように静かに引き締まった。
「それで……お別れする前に、お二人にお話しておかなければならないことがございます」
「話?」
桃花は小首を傾げる。
「はい。悪魔に取り憑かれていた例の女性の件と、当宿のシステムについてです」
「あ! そういえば、オリアスさんが私たちを部屋に案内してくれてる時、言ってました。なんか “システムがどう” とかって……」
「あら? そんなこと言ってたかしら? 桃花ちゃん、よく覚えてたわねぇ」
「うん。いきなり何のことだろうとは思ったんだけど、聞きそびれちゃって」
「では、女性のお客様の件をお話しする前に、まずは当宿のシステムについてご説明いたします」
ラウムは小さく頷くと、歩調をほんの少し緩めた。
通りの先、ぼんやりと霞む出口を見据え、朗読のような落ち着いた声で語り始める。
「あの宿、Devil’s Doorには会員制システムを設けております。その会員に入会すると、決められた回数宿泊する毎に、その回数に応じた特典をお客様に贈呈するというものです」
「そういうことやってたのね。知らなかったわ」
「ポイントみたいな感じですか? 色々と考えているんですね」
「はい。そして——記念すべき”100回目の宿泊”を達成した方には、当宿のVIP会員の資格が与えられるのです」
「VIP会員? 通常の会員とは違うのかしら?」
「VIP会員になられた方へは、オリアスやゼフォンをはじめ、僕や他の従業員が “お客様の身のお世話” をし、最高のおもてなしを提供する……という特別なサービスです」
その言葉が落ちた瞬間——
「!!」
桃花とケルベロスの脳裏に、昨晩ロビーで狂騒を繰り広げていた、あの「異様にテンションの高い女性客三人組」の姿が鮮明に蘇った。
二人は無言で顔を見合わせる。
そして同時に「ああ……」と、パズルの最後のピースが嵌まったかのような、深い納得の吐息を漏らした。
「……なるほど、そういうことね。アタシ、なんかわかっちゃったかも」
「うん。あの図々しかった女性客三人はVIP会員で、その “最高のおもてなし ”サービスに、どっぷりハマってるってことだよね?」
「そう考えれば、あの女たちの異常行動も納得できるわ。あのイケメン悪魔によるVIPなサービスだもの。そりゃ文字通り、悪魔的にハマるわよね〜♪」
ラウムは小さく咳払いをした。
甘く脱線しそうになった空気を、プロの矜持を感じさせる所作で元に戻す。
「ですが、VIP会員専用の最高級プランにも、厳密な禁止事項はございます。違反行動や過度な要求をされた場合には、会員資格の剥奪や、出入り禁止などの厳しい処置もいたします」
「け、結構厳しいんですね……」
「はい。他のお客様のご迷惑になりますので。実際に、過去にそういった対応をしたこともあります」
「ふ〜ん。それで……? その最上級プランの内容って……一体どこまで、オ・モ・テ・ナ・シ、してくれるのかしらぁ〜?」
ケルベロスの目が怪しくキラッと光り、獲物を狙うような悪い笑顔でラウムに食い込む。
(た、確かに、気になる……一体どこまで……? ドキドキ、ヤベッ鼻血出そう)
桃花も横で「私も知りたい」と、好奇心と不純な期待で胸を高鳴らせていた。
興味津々である。
だが——
「ふふっ……それは、お二人がVIP会員になられた時にでも、改めてご説明させていただきますね」
ラウムは、涼やかな微笑みを一ミリも崩さないまま、鮮やかに話題をかわした。
それは熟練のディーラーが、観客の目の前でエースの一枚を消し去るような、鮮やかすぎる手際だった。
「ちっ……やはりそう来たわね。ワンチャン聞き出せるかと思ったのに! アンタも相当な商売上手ね!」
「一筋縄ではいかないか……でも、気になる……!」
ケルベロスと桃花は、そのもどかしさに悶絶した。
肩を落とす二人をよそに、ラウムの纏う空気がふっと変わり、先程までの柔らかな雰囲気が、僅かに引き締まる。
彼は前を見据えたまま、真実の核心へと足を踏み出した。
それは、あの悪魔に取り憑かれていた「女性客」の、不可解な真実について——




