第36話 バーサーカー
桃花とケルベロスは、色とりどりの露店や珍品店を巡り歩き、賑やかな通りを抜けていった。
夜の街にはまだ灯りが残り、店々の威勢のいい呼び込みや弾けるような笑い声が、心地よい残響となって耳をなでる。
桃花は満足げに両手を挙げて、ぐっと伸びをする。
「賑やかで楽しかったね〜」
「ええ! この街も以前よりだいぶ発展したわ。いいところになったものね〜♪」
彼女の足元で歩くケルベロスも、満足そうにリズムよく尻尾を揺らしていた。
やがて二人の前に、あの禍々しい宿「Devil’s Door」の門が姿を現す。
「……やっぱりこの外観は、慣れそうにないなぁ……」
「そう? アタシは好きだけどね♡ 住みたいくらいだわ♪」
ケルベロスは上機嫌に尻尾を振る。
だが桃花は、その宿を見上げるたびに、冷たい指先で背筋をなぞられるような寒気が走った。
漆黒の鉄門には獣の爪痕のような意匠が刻まれ、不気味に明滅する魔紋が闇の中で脈動していた。
門の上で冷笑を浮かべる巨大なガーゴイルは、今にも飛びかかってきそうな生々しさを放っている。
どこをどう見ても、旅人を癒す宿には見えない。
それは紛れもなく、普通に悪魔が住まう「城」の佇まいだった。
「でも、イケメン悪魔がいるのはいいんだけどね……。というか、それだけが救いというか」
そんなやりとりをしながら、桃花が重厚な扉を開いた瞬間——
言葉を失った。
「……」
「……ごめんね桃花ちゃん。“口は災いの元” ね。今度から気をつけるわ」
目の前に広がる光景は、数時間前に目撃したあの「地獄絵図」の完璧な再演だった。
二度あることは三度ある、三度あることは……。
冗談で言っていた不吉な予感は、最悪の形で的中してしまったのだ。
ロビーの中心には、先ほど屋台でヤケ酒を煽っていた「オリアス推しの女性客」が仁王立ちしていた。
しかも、その酔い方はもはや常軌を逸している。
大きな酒瓶を棍棒のように握り締め、瞳には理性の欠片もない凶暴な光を宿し、まさに見境のない「バーサーカー」そのものであった。
「だからぁぁ!! オリアスさんを呼べって言ってんのぉぉ!! いい匂いで男前のオリアスさぁぁ〜ん!! 私はここよぉぉ!! カルシウム不足のガイコツは邪魔ぁぁーー!!」
鼓膜を突き刺すような絶叫が、高い天井に反響してロビーを震わせる。
「今こちらにオリアスが参りますので、どうか、もう少しだけお静かにお願いします。他のお客様のご迷惑になりますので……」
必死に応対しているのは、先ほど吹っ飛ばされてバラバラになっていたガイコツの従業員。
オリアスの言う通り、彼は何事もなかったかのように見事な復活を遂げていた。
「……あ、ガイコツさん。ちゃんと元に戻ってたんだ。良かった〜」
桃花は目の前の現実から逃避するように、場違いな安堵を口にした。
「いやいや、それよりもあの女でしょ。飲酒でレベルが上がってるから、かなりタチが悪いわ」
「レベルって……でも、お部屋に戻るにはあそこを通って鍵を受け取らないと……」
入り口で立ち尽くす二人の横から、スッと影が滑り込んできた。
心地よい落ち着いた響きの声が二人を呼ぶ。
「お二方、ひとまずこちらへ」
振り向くと、そこにはイケメンホテルマンの悪魔「ラウム」が、慈愛に満ちた柔らかな微笑を浮かべて立っていた。
「あ……天使」
「いや、悪魔よ」
相変わらず現実逃避を決め込む桃花。
そんな彼女に対して、ケルベロスは鋭く一切の無駄がない冷たいツッコミを入れた。
ラウムに導かれ、二人が案内されたのは、ロビーから死角になる少し離れた待合室。
壁の陰になり、あの女性客の姿がちょうど見えない位置になる。
「また来たのね、あの女……しつこいわね」
「いくらなんでも異常ですよ。さっきよりも凶暴になってますし、まともな状態には見えません。お酒のせいだけじゃないような……」
桃花が震える声で指摘すると、ラウムは射抜くような鋭い眼差しで頷いた。
「あの方は常連のお客様でしたが……。ここ数日の間で急変され、あのように」
その言葉を聞いたケルベロスは、ぴくりと耳を動かし、声を潜めた。
「アタシ、この姿を維持するのに魔力を割いてるから探知が鈍ってたけど……。あの女、やっぱり “取り憑かれてる” わよね?」
「と、取り憑かれてるって何に!?…… あ、悪霊とか!?」
桃花が肩をすくませると、ラウムは淡々と事実を告げた。
「悪霊……よりもタチが悪いかもしれません。あの女性に取り憑いているのは、悪霊ではなく、悪魔です」
「なんですって? アンタ今、悪魔って言った?」
それを聞いた瞬間、ケルベロスは自分の耳を疑った。
「はい。女性悪魔の『サキュバス』と、そして男性悪魔の『インキュバス』。彼女は、その両方に取り憑かれています」
「は?」
ケルベロスは呆れたように乾いた声を漏らした。
「どういうこと? 一人の人間に、二体の悪魔が同時に取り憑くなんて聞いたことないわ。しかもサキュバスとインキュバスって……なんでアイツらが?」
「この生業をしておりますと、このような歪な事態も、さほど珍しいことではありません」
「ええっ、そうなんですか!?」
深まる謎に、桃花の混乱は更に増していく。
「普通の人間が悪魔に憑かれたら、その時点で意識を乗っ取られるか……最悪の場合、死んじゃうわよ。しかも二体の悪魔に憑かれてるなんて……。あの女、よく耐えられてるわね。自我を保ってるかは、かなり怪しいけど」
「承知しております。なので今、彼女を壊さずに、悪魔を剥がすための準備を進めているところです」
ラウムの瞳には微塵の焦りもなく、ただ冷静に状況を見極める静かな自信が湛えられていた。
「じゅ、準備ですか?」
「ええ。今、そのための時間を稼いでいるところです。ガイコツ君たちにも協力してもらっています」
それを聞いた桃花は、凶暴化した女性客に対応するガイコツへと視線を向けた。
「あ、あれが、時間稼ぎ? また吹っ飛ばされちゃうんじゃ……?」
「悪魔祓いをするのね? アタシも魔族だし、何か手伝えるかしら?」
「お気遣いありがとうございます。ですが、お二人は大事なお客様ですので、お手を煩わせるわけには参りません。僕たちにお任せくださいませ。さて、今お部屋の鍵を持って参りますので、こちらで少々お待ちください」
そう言い残すと、ラウムは再び喧騒渦巻くロビーへと、音もなく消えていった。
「だ、大丈夫かな……」
「大丈夫よ♪ この状況は特に珍しいことじゃないみたいだし。それに、この宿のイケメン悪魔たち、“出来る男” オーラがハンパないでしょ?」
「確かに。あの落ち着きよう……物凄い安心感があるもんね」
待合室に隠れ、ラウムが部屋の鍵を持ってくるのを待っている桃花とケルベロス。
ヒソヒソと息を殺して囁き合っていたその時だった——




