第35話 見える世界の拡大鏡
「ご馳走様でした!」
「ごちそうさま〜♡ 犬の姿でも普通に食べられるし、満腹にもなるのね! 新発見だわ!」
最後の一滴まで、生ビールを飲み干したケルベロスは、満足そうに口の端をペロリと舐める。
桃花も、パフェの最後のひと口を名残惜しそうに飲み込み、スプーンをコトンと置いた。
夜風が火照った頬を撫で、屋台の提灯がゆらゆらと紅い影を石畳に落としている。
その余韻を見計らったかのように、先程の店員が瞳を輝かせて近づいてきた。
「あの……今、お時間よろしいでしょうか?」
「ん? ああ、さっきの件ね。構わないわよ。優しく抱っこしてね♪ そして可愛く撮るのよ〜♡」
「はいっ! もちろんですとも!」
ケルベロスが快諾するやいなや、店員は瞳を輝かせ、迷いもなくケルベロスをひょいっと抱き上げた。
「きゃ〜! モッフモフで、ふわっふわ〜!」
思わず撫でたくなるふわふわの毛並みは、まるで高級羽毛布団と猫を混ぜたような、究極の癒し。
頬を毛並みに埋め、うっとりと吐息を漏らす店員の姿に、桃花は内心で深く頷く。
(……うん、その気持ちはわかる。私もそう思った)
ケルベロスは抱き上げられながらも、得意げに尻尾をふりふり。
「そうでしょそうでしょ♡ 遠慮なくアタシの魅力に溺れなさいな〜♡」
そして、店員はスマホを取り出し、桃花へと差し出した。
「あの、スマホで写真と動画、お願いしてもいいですか?」
「え? あ、はい。いいですよ!」
桃花は、少し緊張した面持ちでスマホを受け取ると、画面越しに二人へレンズを向けた。
「そ、それじゃ……いきますよ! こ、こっち向いてー!」
カメラを向けられた瞬間、店員はケルベロスを抱いて可愛くポーズを取る。
だが、ケルベロスも負けじと「モデル魂」に火をつけた。
カシャッ、と軽快なシャッター音が夜の街に響く。
流石は「地獄の番犬」と言うべきか、何と言うか……。
そのケルベロスは、超ノリノリで次々と様々なポーズを決めていく。
前足を片方挙げてのピース。
舌をペロッと出した「てへっ☆」と、あざとく首をかしげたポーズ。
極めつけは、潤んだ瞳で両脚を揃えた「おねだりポーズ」まで。
「……ケルちゃん。ノリノリすぎない?」
「アタシ、こういうの得意なのよ♡ 桃花ちゃんだって、いい角度で撮ってくれてるじゃない♪」
「……うん、なんだろう。撮らなきゃいけない使命感?みたいのに駆られたというか」
数枚の写真と短い動画を撮り終えると、桃花はスマホを店員に返す。
店員は画面を確認し、目を輝かせて歓声を上げた。
「わぁぁ! すごく可愛く撮れてます〜! ありがとうございますっ!」
「よ、よかったです。こういうの撮るの初めてだったので……」
桃花は少し照れながら答えた。
ケルベロスも画面を覗き込み、満足げな様子。
「あら〜ん! いい感じじゃない♡ 撮るの上手じゃないの〜♪」
「え? そ、そうかな……」
不意の褒め言葉に、桃花の胸が小さく高鳴る。
その時、店員が少し控えめに、しかし期待を込めて尋ねた。
「あの……今撮ったやつ、SNSにアップしてもいいですか?」
「構わないわよ〜♪ タグ付けして、そして可愛く加工してね♡」
ケルベロスは尻尾を振りながら快諾した。
「やった!ありがとうございます!」
「アンタがアップしたやつアタシも見たいから、ID交換しましょ♪」
「いいんですか!? というかワンちゃん……スマホ持ってるんですね。なんで?」
店員が目をまん丸にして驚いた。
犬がスマホを持ってるなんて、誰も思わないよね……と桃花は内心苦笑する。
犬(?)と連絡先を交換するという異常事態に店員が固まっていると、ケルベロスは桃花へと目線を移した。
「そういえばアタシ、桃花ちゃんの連絡先とかSNSのID、知らなかったわね。教えて♪」
「あ、そういえば、そうだったね」
「もしよろしければ、私とも繋がりませんか?」
そのやり取りを聞いた店員も、すかさず乗っかってきた。
「え? あ、はい。大丈夫ですけど……でも私、SNSやったことないのでアカウントが……」
「そうなんですか!? なら、今ここでパパッと作っちゃいましょう!」
「え? そんな簡単に?」
店員の鮮やかな手つきで、桃花のスマホに新しい世界への窓が作られていく。
「えっ、すごい……ほんとにすぐ作れた……!」
「桃花ちゃん。アンタ、SNSのアカウントなかったのね」
「うん。今朝まで、スマホすら持ってなかったし……」
「……よしっと! これでいけますね!」
桃花の横で操作を誘導していた店員が嬉しそうに笑う。
ピコンピコン♪
電子音が通知を知らせ、三人のスマホが鳴り響く。
誰かと「繋がる」という初めての感覚。
今日手に入れたばかりの文明の利器が、急に血の通った温かな絆になった気がした。
その瞬間、桃花の胸の奥がじんわりと熱くなる。
「ありがとうございます! それじゃ、後でアップするので見てくださいね!」
「もちろんよ〜♪ 加工はピンク系でお願い♡」
「ふふ、任せてください!」
ケルベロスと話をした店員は、嬉しそうにお辞儀をして、奥へと戻っていった。
「まさか、人間とこんな風に連絡先を交換する日が来るなんて、夢にも思わなかったわ♡ しかも二人も! この姿も案外悪くないじゃない♪」
「私も嬉しいな。こういうの、ちょっとワクワクするね」
「ウフ♡ これからも、こんな機会がた〜くさんあるわよ〜ん♡」
ケルベロスがウインクをパチッと飛ばし、満足そうにその場で伸びをした。
そして支払いを済ませるため、二人は立ち上がり、屋台のカウンターへと向かった。
先程の店員へと、桃花が会計の声をかける。
「お会計お願いします」
「はい! ありがとうございます!」
先程の店員が、弾けるような笑顔で対応してくれた。
ケルベロスが、その店員へと感謝の言葉を伝える。
「とっても美味しかったわ〜♪ ご馳走様でした〜♡」
「ふふっ、また来てくださいね!」
「ええ、近くに来たらまた寄らせてもらうわね♪」
「……おう、また来てくれや」
「え?」
店のカウンターの奥から、地響きのような図太い男性の声が割り込んできた。
桃花とケルベロスは、反射的に顔を向けると、そこには腕を組んだ屋台の大将が立っていた。
「お嬢ちゃんとワンちゃんの食いっぷりを見てたけどよ。美味そうに食ってくれたじゃねえか! 作ったこっちからしたら、すんげえ気持ち良かったぜ!」
「はい! とってもお腹空いてましたし、本当に美味しかったですから!」
「ええ! トマトキムチカレーラーメン、マジ最高だったわ! 他のメニューも制覇したいわ〜♪」
「嬉しいねぇ、また寄ってくれよ! そん時は、また美味いもん作ってやるからよ!」
「またいらしてください! お待ちしてます! あ、それとSNSも、後で覗いてみてくださいね!」
「ええ、楽しみに待ってるわ〜♡」
「ご馳走様でした!」
賑やかな見送られ方をしながら、二人が屋台の暖簾をくぐり抜けた。
その時——
桃花の視線が、隣の屋台のカウンターで凍りついた。
「……あ、あれれ? あの人って……」
そこにいたのは、先程の宿「Devil's Door」で激しい暴言と捨て台詞を吐き、不機嫌に去っていったあの女性客だった。
一人でグラスを傾け、伏せたまつ毛の先には、酔いと苛立ちが重く滲んでいる。
「ねぇケルちゃん、あそこのカウンターに座ってる人。さっきミイラさんに酷いこと言ってた女の人だよ」
「あら、本当ね。推しのオリアスに会えず、一人でヤケ酒ってとこかしら?」
「だいぶ酔ってるみたいだよね……。というか、今日あの人を見るの、もう三回目だよ。この短時間に三回って……」
「ウフフ♪ 二度あることは三度ある、三度あることは四度ある。みたいな〜♡」
「ちょっ! 不吉なフラグ立てないでよ。私、結構ショックだったんだから……」
「ね〜♪ 泣いちゃったもんね〜♡」
「だからやめてって……!」
桃花が赤面して抗議すると、ケルベロスは笑いながら「はいはい〜♪」と軽くいなす。
だが——
この夜の偶然が、単なる「運の悪さ」などではなかったことを、この時の二人はまだ知らない。
夜風が屋台の布を大きく揺らし、遠くで誰かの笑い声が弾けては消える。
桃花はスマホの画面を見つめ、そこに新しく並んだ「繋がった名前」を指でなぞった。
「人と繋がる」という感覚が、少しくすぐったく、そして少しだけ不安になる。
その時、ケルベロスが足元でふと桃花を呼んだ。
「ねぇ、桃花ちゃん」
「ん?」
「アタシたち、これから色んな人、そして仲間と出会うわよ。きっと、ね♪」
「うん……楽しみだね!」
桃花は、その言葉の背後にある重みを、まだ深くは考えていなかった。
だがそれは——
この先に待ち受ける、長く過酷な旅路の「幕開け」を告げるかのように、夜空へと静かに響いていった。




