第31話 夜の望郷街
オリアスに案内された部屋で、ベッドに寝転がっていた桃花とケルベロス。
持っていた荷物を下ろすと、張り詰めていた空気がふっと緩む。
そして外出の準備を整えた桃花が、足元で待機するケルベロスへと視線を落とす。
「さて、それじゃ! 外に行こうかケルちゃん!」
「そうね♪ せっかく街に来たんだもの、楽しまなきゃね♡」
ケルベロスが期待に尻尾を揺らす。
そのひと振りが空気をかき混ぜ、旅の高揚感を膨らませた。
重厚な扉を押し開くと、静謐な廊下の先に玄関ロビーが広がっている。
受付には、先ほど案内をしてくれた悪魔のオリアスが、絵画のような佇まいで仕事をしていた。
漆黒のスーツは皺一つない。
その完璧な姿勢は、畏怖と見惚れてしまうような溜息を同時に抱かせる。
相変わらず一切の無駄がない洗練された空気を纏っており、それだけで宿の格を上げているようにも見えた。
「あ、オリアスさん。少し外へ出てきますね」
桃花が声をかけると、オリアスは氷が解けるような柔らかな会釈を返した。
「かしこまりました。では、お部屋の鍵をお預かりします。お戻りになりましたら、またお声掛けください」
鍵を渡す際、指先が触れそうな距離でオリアスが穏やかに微笑んだ。
「この望郷街は、初めてですか?」
「はい! なので、すごく楽しみです!」
「アタシは前に来たことあるけど、随分と様変わりしたわね。まるで別の街に迷い込んだみたいだわ♪」
犬の姿のまま堂々と言うケルベロスに、オリアスは崩しすぎない絶妙な塩梅で、小さく笑って頷いた。
「左様でしたか。では、夜の喧騒を存分に味わってきてくださいね」
その洗練された微笑みと声の響きに、桃花の胸の奥がきゅっと鳴る。
(……何度見ても、素敵)
その爽やかな笑顔に見送られ、二人は外へと出た。
夜の街の喧騒が一気に押し寄せてくる。
屋台の電球が夜を橙色に染め、どこからか流れる音楽と、すれ違う観光客たちの笑い声。
熱を帯びた夜の空気に、二人の影が長く伸びていた。
「ねえ、ケルちゃん。どこ行こうか?」
「そうねぇ……お腹空いちゃったし、まずはご飯にしましょ♡」
「うん。それじゃ、ご飯食べようか!」
意気揚々と歩き出した二人だったが、桃花はふと立ち止まり、あることに気づく。
「……そういえば、ケルちゃんって犬だよね?」
「ん? どこからどう見ても可愛いワンちゃんだけど……それがどうかしたの?」
「いや、可愛いけど……。普通のお店、犬は入れないんじゃないかなって」
「……確かに。衛生的にアウトよね……。盲点だったわ」
ケルベロスの耳が、少しだけ下を向く。
「外で食べれるところ探してみる?」
「そうね。そうするしかないわね」
とりあえず二人は、提灯の赤い光が並ぶ小路へと足を踏み入れる。
するとそこには、どこか懐かしい昭和レトロな光景が広がっていた。
ひしめき合うように並んだ小さな食堂や屋台の間から、ふと、胃袋を掴むような醤油と出汁、そして焦げた油の香ばしい匂いが、風に乗って運ばれてくる。
「あ、ケルちゃん見て! あそこに屋台があるよ!」
桃花が指差す先には、もうもうと湯気を立てる屋台が数軒並んでいた。
古めかしいのれんには「味自慢」の文字が染め抜かれている。
鉄板の上で何かが焼ける音が、周囲の空気を一層美味しそうに染め上げていた。
それを見た桃花は、思わず小さくお腹が鳴ってしまう。
「どれも美味しそうだね! 目移りしちゃうよ!」
「いい匂い〜♡ おでん? ラーメン? どっちも捨てがたいわね!」
「ケルちゃんって、おでんとかラーメン……食べられるの?」
「もちろん食べられるわよ! アタシ、人間の食べ物大好きだもの♡」
「あ、じゃあ……。あそこにある屋台で食べようか」
「OK♪ 早く行きましょ♪」
足早に屋台の前に到着したものの、カウンター席はすでに客で埋まっていた。
しかし、そのすぐ横に外向きに設けられたテーブル席が空いている。
「カウンターは無理だね。でも、あっちなら座れそう」
「そうね。あそこにしましょ!」
二人が席に着くと、すぐにエプロン姿の女性店員が水を持ってやってきた。
桃花は少し身を縮め、戸惑いながら確認する。
「あの、犬もいるんですが……ここ、大丈夫ですか?」
「え? ああ、大丈夫ですよ。ここ外ですし、今は混み合っていませんから」
「ありがとうございます!」
その言葉に安堵し、桃花は冷たい水を一口飲んでから、二人でメニューを開いた。
「よかったね。断られなくて……ホッとしたよ」
「ウフフ♪ そうね♪ さて、何を食べようかしら〜?」
「うーん、どれも美味しそうだなぁ……じゅるり」
メニューを見ながら、二人の目が期待に輝く。
まるで獲物を狙うハンターのように。
「……私は、味噌バターコーンラーメンとチャーハンに、メロンソーダにするよ!」
「アタシね〜。トマトキムチカレーラーメンに餃子、そして枝豆と生ビール♡」
「トマトキムチカレーラーメン!? そんなのあった!? 味の迷子だよそれ!」
「あるじゃない。ここに」
「あ、本当だ……。でも味の想像がつかないな。よく食べようと思ったね」
「なんか美味しそうだったから♡ アタシはいつだって、チャレンジャーだから♪ もっと発音良く言ってあげましょうか?」
「いや、発音はいいけどさ……というか、生ビールってお酒でしょ? その姿で飲むつもり?」
「もちろんよ♡ こういうシチュエーションでのビールが一番美味しいのよ〜!」
小さな犬の姿で胸を張るケルベロスに、桃花は苦笑する。
「犬の姿でお酒って、体は大丈夫なの?」
「アタシを誰だと思ってるのよ? 地獄の番犬に現世の法律なんて、通用しないの♪ あ〜ん、早く飲みた〜い♡」
「いや、名前は関係ないと思うけど……」
「余裕よ♪ でも、この姿で食べたり飲んだりするのは初めてね。どんな感じかしら〜♡」
「ケルちゃん、楽しそうだね」
「あ、店員さんいるわ! すみませ〜ん! こっちおねが〜い!」
ケルベロスは元気いっぱいに前足を挙げ、店員に向かって声を張った。
「え? あ、はーい!」
呼ばれた女性の店員が、オーダーを取るためにテーブルへと駆け寄ってくる。
「ご注文お決まりですか?」
「はいっ!」
桃花は少し焦りながら注文を開始する。
「えっと……。味噌バターコーンラーメンとチャーハン、それとメロンソーダを」
「……はい、かしこまりました。そちらのワンちゃんの方は? 何にしますか?」
店員がニコッと微笑みながら、冗談めかしてケルベロスを見た瞬間——
その「ワンちゃん」が勢いよく口を開いた……。




