第29話 静かな夜の空騒ぎ
上質な茶葉がもたらす紅茶の香りが、ふんわりとほどけるように鼻腔をくすぐる。
「はぁ……あったかい。紅茶って、こんなに優しい味なんだねぇ」
桃花の口から、ぽつりと漏れた言葉と共に、一日中張り詰めていたものが、胸の奥からゆっくりと溶けていくのを感じていた。
アンティーク調のふかふかのソファが、疲労の溜まった体を優しく包み込み、抗いようのない心地よさに、瞼が自然に落ちていく。
うとうと……。
禍々しい外観の宿であることも忘れ、心地よい眠気に身を委ねかけていた。
その時——
ガタン!! ダダダダダ!!
その静寂を切り裂くように、入り口の方から勢いよく重い扉が開け放たれた音と、ハイヒールが石の床を叩く足音が、館内にけたたましく鳴り響いた。
「ひぇっ!? な、何っ!? 地震!? 爆発!?」
跳ね起きた心臓を押さえ、反射的にソファから立ち上がる桃花。
さっきまで浸っていた安らぎが、文字通り一瞬にして吹き飛ぶ。
襲撃者か。
あるいは、この魔界の宿がついに本性を現したのか。
身構えて振り向いた先には——
「オリアス様ぁぁーーん!! 私を泊めてぇぇーー!!」
「ラウムきゅ〜ん!! 部屋まで案内してぇ〜♡」
「ゼフォンさぁぁーーん!! また来ちゃったーー!!」
そこにあったのは、殺意でも魔物の群れでもなく、狂気だった。
入口から、ド派手な化粧と露出の多い服装をした女性たちが、群がるように雪崩れ込んできたのだ。
宿の静寂が、一瞬で混沌へと塗り替えられる。
「ぎゃぁぁーー!! 見つけたぁぁーー!!」
「やっぱり魔界宿最高ぉ〜!!」
「抱いてぇぇーー!!」
あまりの騒々しさに、桃花とケルベロスは驚きを隠せない。
「一体何事!?」
「何なの!? あの女たち!?」
そのやかましい客たちを見た従業員、ゾンビやドラキュラ、フランケンシュタインは、一斉にその方向へと振り向き。一瞬動きを止めた。
だがすぐに「ああ、またか……」といった感じで、また平常運転へと戻っていく。
どうやら、この狂騒は初めての事ではないらしい。
するとそこへ、近くにいたガイコツのホテルマンが、カタカタと骨を鳴らしながら、何事もなかったかのように接客へと入った。
「お客様方。大変恐れ入りますが、お静かにお願いいたします。他のお客様のご迷惑に——」
「ガイコツ邪魔!!」
「どいて!!」
「彼はどこ!? ゼフォン様ぁぁーー!!」
その瞬間——
ドカッ! ポキポキパキーン!
「あ〜れ〜」
職務を全うしようとしたガイコツは、推しを求めて暴走状態にある女性客たちの、無慈悲な体当たりを受け、あっけなく宙に舞った。
腕や脚、肋骨、そして頭蓋骨などのパーツが、コミカルなほど見事にバラバラとなり、無惨に飛び散る。
「ああ! ガ、ガイコツがー!」
あまりの理不尽な暴力に、桃花の悲鳴がロビーに響き渡った。
カチャーン! と乾いた音を立て、床にカラカラと転がる白骨たち。
もはやホラーではなく、スラップスティック・コメディだ。
そんな修羅場な空気の中、バックヤードからスッと現れた一つの影。
漆黒の細身のスーツに身を包み、背中まで届く美しい金色の長い髪と、彫刻のように端正な顔立ちをした、三人目のイケメン悪魔の青年だった。
「どうなさいましたか? お客様?」
目の前で、ガイコツがバラバラにされていようと一切狼狽えず、堂々たる態度。
その声は、騒音を掻き消すほどに深く、落ち着いていた。
(……あ、またイケメンきた。実はこの宿って、魔界のホストクラブなのでは?)
あまりの状況に、桃花は反射的にそう思ってしまった。
その金髪の悪魔が現れた瞬間、その女性客たちは、鼓膜が破れそうなほどの黄色い歓声を上げた。
「ゼフォンさぁぁーーん!!♡ また来ちゃいましたぁぁ!!」
「ぎゃぁぁぁーーー!! 相変わらず今日も麗しいぃ〜!!」
「推しが尊い〜!! 会いたかったですぅぅ!!」
まるでドームツアー中のトップアイドル登場のような光景。
出てきた悪魔、ゼフォンは、涼しい顔で「いつもありがとうございます。お元気そうですね」と甘く微笑んだ。
その瞬間、彼の周囲にだけ眩しいほどのエフェクトがかかったように見えた。
圧倒的な美の暴力。
物理的にキラキラと発光している錯覚に陥り、視界がチカチカする。
「ま、まぶしっ……!」
桃花が目を細めたその時。
女性客の一人が、まるで撃ち抜かれたように、その場へバタリと崩れ落ちた。
「あれ? 倒れた?」
「……倒れたわね」
その状況に、ケルベロスの声も少し引き気味だ。
すると、ゼフォンは倒れたその女性を優しく抱き上げ、穏やかに声をかける。
「大丈夫ですか? お部屋を取ってお休みになられますか?」
「はい……♡」
倒れた女性は頬を赤らめ、完全に昇天したような表情を浮かべた。
ここが宿というのもあり、セリフだけ聞くと完全に別の意味に聞こえてしまう。
他の女性たちは、露骨に羨ましげな視線を向けている。
するとそこへもう一人、先ほどお茶を出してくれた銀髪の悪魔、ラウムが静かに現れた。
「……ゼフォンさん、どうされました?」
「ああ、ラウム、俺はこのお方をお部屋にお運びするから、お二方の対応をお願いできるかい?」
「承知しました」
金髪と銀髪。
二人の超絶イケメン悪魔が並んだ瞬間、むせ返るような香水と熱気で淀んでいた空気が、一瞬にしてマイナスイオンで浄化されたような気がしてしまう。
「なんなの……。あの圧倒的ビジュアル攻撃……」
桃花は思わず頬を押さえる。
(……しかもイケボ。これは悪魔のささやきというASMRか? よく眠れそう……。いや、逆にこれは寝られないな)
ゼフォンは、目の前で倒れた女性を軽々とお姫様抱っこし、部屋まで運んで行った。
「ぎいいやゃぁぁぁぁぁぁーーーーーー!!!」
まるで悲鳴のような歓声が上がる。
音量も熱量も桁違いだ。
そして、残った興奮状態の女性たちの対応を、ラウムが涼しい顔で引き継ぐ。
「いらっしゃいませ。今宵はどのようなお部屋をご希望でしょう?」
慈愛に満ちた優しい笑顔と、完璧な礼儀。
だがその瞬間——
ドサッ
また一人、倒れた。
「また倒れたよ!」
「また倒れたわね」
桃花とケルベロスは同じような反応。
もはやここは宿ではなく、イケメンによる事故多発現場のようであった。
だが、ラウムは驚くでもなく、手慣れた様子で自然にその女性を抱き起こす。
「お客様、お怪我はありませんか?」
「ねぁ……私のために、部屋を取って♡」
倒れた女性は、ラウムの腕の中でちゃっかりと上目遣いになり、甘えきった声で言ってきた。
「かしこまりました。一室ご用意いたします」
ラウムは一瞬も乱れずに微笑んだ。
悪魔とは思えぬホスピタリティ。
「立てますか?」
「立てな〜い♡」
女性は、自力で立つ気など最初からないと言わんばかりに駄々をこねる。
(……嘘つけよ。さっきまで一番高くジャンプしてたくせに)
心の中で、思わず的確なツッコミを入れてしまった桃花。
「では、お部屋までお連れいたします。お続きは後ほどお願いいたします」
「うん……わかった♡」
そう言って、ラウムもまた、まるで羽を扱うようにお姫様抱っこし、女性を連れていく。
流れるような手際だ。
二人目、搬送完了。
「……い、一体、ここで何が起きてるの……?」
恐怖の悪魔城での一夜を覚悟していた桃花の脳は、この斜め上の展開に、もはや処理を諦めかけていた。
眠気など完全に吹き飛んでいる。
すると、呆れ顔のケルベロスがポツリと呟いた。
「なるほどね」
「え?」
「あの女たち、『推し活』よ。推し悪魔を追ってここに来てるんだわ」
「お、推し悪魔!? そんなジャンルが!?」
「ああやって倒れたフリをして、接触してんのよ」
「嘘でしょ!?」
「あれ、全部演技でしょ。だって目の前で倒れたら、お姫様抱っこしてもらえるんだもの。あの手この手よ」
「信じられない……。いくらなんでもやり過ぎだって」
「そうよね。あたしもそう思うわ。なんで出禁にしないのかしら?」
「色々と事情があるのかな……?」
Devil's Doorの経済事情にまで、思いを馳せながら話ている二人。
すると、最後に残った一人の女性客の対応を、近くにいたミイラのホテルマンが、包帯を揺らしながら行っていたのだが……。




