第26話 悪魔の宿
日が沈みきり、群青に溶けた空の下。
街の灯りが一つ、また一つと灯っていく。
遠目には温かな光であったのが、だんだんと少しずつ近づくにつれ、ざわめきや笑い声、食器の触れ合う音が混じり合い、空気が生き物のように膨らんでいくのがわかった。
やがて辿り着いた街の入り口。
巨大なゲートに掲げられた看板には「望郷街」とある。
桃花は看板を見上げながら、ほっと息を吐く。
「この望郷街って、旅人が休憩や観光、そして宿に泊まったりする場所みたいだね」
旅の疲れが、ようやくほどけそうな響きだった。
張り詰めていた神経が、少しずつ緩んでいくのがわかる。
「ここ久しぶりだわ〜! 前に来たことあるけど、その時よりも活気のある街になったわね♪」
小さく変身したケルベロスの声が足元で弾んでいる。
その無邪気さに、桃花の胸も少し軽くなった。
「じゃあさ、泊まる場所を決めたら、色々なお店見て回ろうか!」
「あら♪ いいわね! お腹も空いたし! 美味しいものもたくさんありそう〜♡」
「さっき、あれだけお団子食べたのに、もうお腹すいたの? ケルちゃんって食いしん坊だね!」
「アタシ、まだまだ育ち盛りだから〜♡」
「何万年も生きてるのに、まだ育ってるの〜?」
他愛のない会話。
笑いが重なり、場の空気はすっかり、名もなき旅人のそれになる。
「……あ、この宿にしようか。和風な感じで、すごく私好み!」
落ち着いた佇まいの宿を見つけた桃花。
そして中へ入ろうと、扉へ手を伸ばした瞬間、足元のケルベロスが一言ぽつり。
「……ところで桃花ちゃん」
「ん? どうしたのケルちゃん?」
「……そもそもアタシって、宿に入れるのかしら?」
「え?」
「傍から見たらアタシ、ただの喋る犬よ?」
何も考えていなかった現実的な問題に、桃花は扉に手をかけたまま戸惑った。
どんなに強力な魔族であろうと、見た目はただの小型犬だ。
「た、確かに……そうだね。あ、でも最近は犬も一緒に泊まれる宿もあるみたいだから、受付で確認してみようか」
とりあえず聞くだけ聞いてみようと、桃花はそのまま扉を開けて中へ入る。
「いらっしゃーせー」
気の抜けた声。
気だるそうな様子で、受付に一人の女性が立っていた。
その女性に、緊張しながらも丁寧に確認をする。
「あの、すみません。犬と一緒に泊まれるお部屋ってありますか?」
「……はぁ?」
その瞬間、受付女性の表情が一気に氷点下まで冷え込んだ。
まるで自分よりも可愛い女性を見て嫉妬するかのような、信じられないほどの不機嫌な顔で桃花を睨みつけた。
「犬? おいおい。泊まれるわけないでしょうが。ここは人が泊まる場所なの。ペットが泊まれるとこに見えるわけ? あんた目悪いの? 頭も悪いの? つまらない冗談すぎて笑えないんですけど」
言葉が鋭利な刃となって、無防備な桃花の心に突き刺さる。
周囲にいた客たちの好奇と憐憫の視線が、静かに集まるのがわかった。
「……っ!」
あまりにも理不尽な態度。
予想外の悪意の奔流に、桃花の視界が滲んだ。
「そ、そうですよね……。ごめんなさい! し、失礼しました!」
桃花は慌てて頭を下げ、足早に出口へと向かった。
「ちょっ、桃花ちゃん!?」
ケルベロスも、すぐに後を追う。
外へ出ようと扉を開けた瞬間、その無防備な背中に、さらに毒を含んだ声が飛んできた。
「ったく、面倒くさいの持ち込むなよ! ペットが入れないくらいわかるだろうが! バカか? もう仕事が終わる時間だから早く帰りたいんだよ! 犬嫌いなんだよ私は! 二度と来るな!」
胸の奥が痛む。
桃花は震えながら外へ出た。
その直後——
あまりにも感じの悪い態度の受付に腹が立ったケルベロスは、怒りに燃えて吠える。
「何なのあれっ!! 客に向かってバカァ!? バカはそっちでしょーがっ!! 信じられないわ!! アイツ人間なの!? なんであんなのを接客業の風上に置いてるわけ!? この宿のヤツらバカなんじゃない!? にしても、あのバカ女め……生きたまま蝋人形にしてやろうかぁぁ!!」
「う、うん、すごかったね……」
戸惑う桃花を横に、ケルベロスの怒号が夜空に響く。
するとその声に反応して、同じような怒号が後方から鼓膜を打つ。
「聞こえてるぞぉぉーー!! お前こそ蝋人形にしてやろうかぁぁーー!!」
今出てきた宿の中から、先程の態度の悪い受付女性が、まるで悪魔のような大声で叫び返してきた。
扉を突き抜け、声が外まではっきりと聞こえてくるレベルだ。
もはや接客業の欠片もない。
それを聞いたケルベロスは、即座に言い返す。
「バカのアンタでも聞こえるように言ってやったのよ!! やれるものならやってみなさい!! バーカバーカ!! クビになって路頭に迷え!! あんたみたいな女!! どうやっても男にはモテないでしょうし、彼氏もいないでしょうねっ!! そのまま一生独身で生きろ!!」
「何だとぉぉコラぁぁ!! 誰が一生結婚できねぇだぁぁ!! もう一回入ってこいやぁ!! お前のお望み通り!! 生きたまま蝋人形にしてやるわぁぁーー!!」
「アンタが来なさいよバカ女!! “助けてくれー!!”って、叫ばせてやるからなーー!!」
愛らしい子犬の姿でありながら、背後に黒炎が立ち昇る。
「ケ、ケルちゃん落ち着いて! もういいよ! というか何で蝋人形なの!? しかも私が言ってるみたいになってるから! もう行こう!」
怒りが収まらないケルベロスを桃花は慌てて抱き上げ、急いでその場を去る。
そしてそのまま、人目のつかない路地裏の方へと逃げ込んでいく。
離れて行ったはいいのだが、さっきの受付から言われた、あまりにも酷い言葉が遅れて効いてきてしまう。
桃花はショックに耐えきれず、思わずその場にしゃがみ込んで泣き出してしまった。
「……ぅっ……」
「……桃花ちゃん、泣かないで。あんなアホの言うことなんて、気にするだけ時間の無駄よ。桃花ちゃんは何も悪くないわ。切り替えて違うとこ、一緒に探しましょ! ね?」
ケルベロスは抱かれたまま、涙ぐむ桃花の頭を、前足で「よしよし」と優しく撫でる。
さっきまでの激昂が嘘のような、慈愛に満ちた声だった。
「……うん、ありがと、ケルちゃん」
優しく暖かい言葉と肉球の感触に、桃花は救われた。
その時、不意に桃花の脳裏にあの三バカ鬼の言葉がよぎる。
(……そういえば、あの三人の鬼が言ってた「クレーム率九割の受付嬢」って、もしかして今の受付の人? あそこまでいくと、これ演出なのかな?って疑っちゃうよ)
涙の合間に、そんな推測が浮かぶ。
傷は残っているが、完全には沈まない自分がいることに気づく。
「犬のアタシでも泊まれる宿があるか調べてみるから、ちょっと待ってて」
するとケルベロスは、どこからともなくゴソッと自分のスマホを取り出し、二足で立ちながら、手慣れたように操作し始めた。
「……さっきの受付の対応も驚いたけど、ケルちゃんもしれっと驚くことしてるよね?」
「そうかしら? これくらい普通じゃない?」
「ケルちゃん? 体のサイズや、姿形も変えられて、しかも犬の姿で二足で立って、スマホの操作するって、普通じゃないんだよ?」
「細かいことは気にしないの。そんなんだから、すぐに泣いちゃうのよ」
「うぐっ……」
痛いところを、グサッと的確に突かれた桃花。
反論の言葉が見つからない。
するとその時、ケルベロスが「あ!」と嬉しそうに声を上げた。
「桃花ちゃん! あったわ! あたしが泊まれる宿!」
「ホント!?」
「ええ! すぐ近くに、一件だけだけどね!」
「どこどこ!?」
「こっちよ! アタシについてきて!」
そう言うとケルベロスは、スマホをしまうと同時に、二足から四足走行モードになり、その宿がある方へと一気に駆け出した。
「ちょっ、ちょっと待って! いきなり四足走行にならないで! 速いよぉ!」
ケルベロスの後を慌てて追いかける桃花。
夜風が頬を撫でながら、街灯のオレンジ色の光が点々と流れていく。
その光が必死に走る二人を照らし、石畳を蹴る足音が静かな夜に響く。
街の喧騒から少し離れた路地の奥で、ケルベロスがピタッと止まった。
「桃花ちゃん! ここよ!」
そして、たどり着いた宿を見上げた瞬間——
桃花の声が震えた。
「……バ、バカな……。もう勘弁して」
彼女の目の前に現れたのは——
重厚な鉄の門。
血のように怪しく光る赤いランプ。
黒々とした蔦に覆われた石壁。
そして、夜の闇すら切り裂くように空を突き刺す尖塔。
その禍々しい外観は、どう好意的に解釈しても……。
RPGのラストダンジョンでもある、あの「悪魔城」を想像させるものだった。
「こ、これが……宿……?」
「そうみたいよ! いや〜ん、最っ高に雰囲気あるじゃな〜い♡」
桃花の絶望とケルベロスの歓喜。
対照的な反応が交差する。
ケルベロスが目を輝かせてうっとりと見上げる横で、桃花は膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪え、絶句する。
「あ〜ん素っ敵〜♡ ここ、とっても懐かしい感じがするわ〜♪」
「懐かしいって……ケルちゃん、それ絶対、魔王がいる城でしょ……」
桃花は息をつきながら、半ば現実逃避のように呟いた。
その瞬間——
ギィィ……。
重苦しい音を立て、誰も触れていないはずの巨大な鉄の門が、ゆっくりと内側へ開く。
開いた隙間から、墓場のようなひんやりとした冷気が足元へ流れ出してきた。
「なんで!? 今、誰もいなかったよね!? なんで開いたの!?」
「ふふっ♪ 自動ドアでしょ? 歓迎されてるみたいじゃな〜い?」
ケルベロスの無責任な言葉を裏切るように、開いた門の隙間から漏れた微かな光の中に、何かの巨大な影がゆらりと浮かび上がる。
まるで城そのものが意志を持ち、「中へおいで」と誘っているかのように。
「……また、何か起きる予感しかしない……」
桃花は本能的な恐怖に駆られ、無意識に後ずさり、青ざめた顔で呟く。
「ぜ、絶対、また何かある……。私、旅に出て今日がまだ初日だよ!? 修羅場が続きすぎるって……」
不安が胸の奥で波紋のように広がる。
ランプの灯が揺らぐ中、悪魔城のような宿が、二人を見下ろしていた。
まるで「待っていた」かのように——




