第23話 紅葉とケルベロス
風が静かに吹き抜けていく。
焦げた土の匂いと、まだ消えていない白い煙が戦いの余韻を残している。
その場にいる三人——
桃花、紅葉、そしてケルベロス。
「……ごめんね。お嬢さん」
ケルベロスは少しだけ視線を落としながら、桃花に言った。
「アタシ、紅葉ちゃんだけは傷つけられない……お友達だから」
低くも穏やかな声が、静まり返った境内に落ちた。
その言葉に、紅葉はほんの一瞬だけ目を伏せ、それから少しだけ悲しそうに微笑んだ。
そして桃花は少しだけ息を整え、静かに答えた。
「うん、大丈夫だよ……ありがとう」
紅葉は片膝を地についたまま、無言で桃花を見つめている。
その瞳の奥には怒りでも悲しみでもない。
もっと複雑で、整理のつかない感情が揺れていた。
桃花は紅葉の前で腰を落とし、目線を合わせる。
だが、紅葉は目を伏せたままだ。
「……ごめんなさい、紅葉さん」
その声は、かすかに震えていた。
「私……決めることができませんでした。ケルベロスがいなかったら、何も選べず、その場で立ち止まったまま、今ごろきっと……殺されていたと思います」
拳を握りしめ、言葉を絞り出すように続ける。
紅葉は何も言わず、静かにその言葉を聞いていた。
「……自分の弱さと甘さを痛感しました。紅葉さんのような覚悟を、私は持てなかった。だから今回、生き残れたのは……ただの運だと思います」
桃花は小さく息を吐き、それでも顔を上げる。
「でも生き残った以上、どんな形でも、進んでいきます」
その瞳に宿るのは、恐れよりも微かな決意。
まだ未完成であっても、それは確かに本物の光だった。
「……」
紅葉の表情が、わずかに揺れる。
その揺れを確かめるように桃花は続けた。
「……私、紅葉さんのこと嫌いじゃないです。最初はすごく怖くて、嫌な感じでしたけど」
桃花は苦笑しながらも、言葉を探した。
「自分から挑んでおいて、迷って何も選べず、決められず……。運よく助けてもらった私に、こんなこと言う資格なんてありませんが……」
そう言って、桃花は静かに息を吸い、続ける。
「紅葉さんには、『鬼』としてじゃなく『人』として生きてほしい。そう思ってます」
紅葉の瞳が、僅かに開く。
その表情には、どこか懐かしい光が宿っていた。
静かな沈黙の中で、桃花の言葉がじんわりと染み込んでいく。
「凄く厳しかったけど、こんな私にも情けをかけてくれた。逃がそうとして、助けようとしてくれた。そういうところ、きっと人から好かれると思います……。それに、とっても美人ですし」
少しおどけたような最後の一言に、ケルベロスが「ふふっ」と小さく笑った。
紅葉は唇を僅かに動かし、静かに言葉を発する。
「……もういい。行きなさい」
その声は、突き放す響きではなかった。
「……はい」
桃花は短く返事をして、立ち上がる。
だがその時、紅葉がふと思い出したように口を開いた。
「……そういえば、あなた名前は?」
「え?」
「私ばかり名乗って、あなたの名前を知らないままっていうのも、変でしょ」
「あ……私の名前は、桃花です。桃の花と書いて、桃花って言います」
「桃花……可愛い名前ね」
「あら! お嬢さんの名前、桃花って言うのね! きゃわわ〜♡」
「あ、ありがとうございます……」
照れる桃花を見て、紅葉はふっと笑う。
戦いの場だったはずの境内に、初めて柔らかな空気が満ちた。
「……さぁ、もう行きなさい……。体には、気をつけて」
「はい……」
紅葉のその一言に、桃花は一礼して背を向ける。
「あ、桃花ちゃん」
ケルベロスが呼び止めた。
「アタシ、紅葉ちゃんと少しお話したいの。だからあっちで待っててくれる?」
「うん、わかった。きび団子、用意しとくね」
「ア〜ン! ありがと〜♡ すぐ行くわ〜!」
軽く手を振る桃花の背中が遠ざかる。
残された二人の間に、先ほどとは違う静けさが降りた。
「……ケルちゃん、とうとう行っちゃうのね。いずれ、こういう時が来るとは思っていたけど。まさか、こんな形とはね」
「うん、ごめんね……。でもアタシ、紅葉ちゃんのことダイスキよ♡ ずっとお友達だと思ってるから!」
紅葉は一瞬、驚いたように目を瞬かせ、やがて微笑んだ。
「そう言ってくれて嬉しい。私もケルちゃんのこと大好きよ。だからずっと友達でいたい。また会いましょうね」
「スマホあるし! いっぱい連絡取り合って、お話もしましょ♡」
「ふふっ、そうね……。これで終わりにしないでね?」
「もちろんよ!……ねぇ、これから……紅葉ちゃんどうなるの……?」
「……まず間違いなく、始末書からの降格と減給……。まぁ、左遷でしょうね」
「……」
紅葉の話を静かに聞くケルベロス。
空気がわずかに重くなる。
「もしかしたらクビ……。最悪の場合、殺される可能性もあるわ」
「……!」
「私、鬼と人間のハーフだから……。それを嫌ってる鬼はかなり多いの。それに今回の件は、裏で糸を引いてる『鬼組』連中も黙ってはいないでしょうから」
「ごめんね……。紅葉ちゃんに迷惑かける形になっちゃって。今までずっと苦労してきて、やっと所長にまで上り詰めて、出世コースだったのに……」
「いいのよ。たくさんの人間を不幸にしてきただけだもの。それに、これからどうするかはケルちゃんが決めることだし、悪気がないのもわかってるから」
紅葉は小さく笑みをこぼした。
「それに……あの子、桃花の言葉……色々と考えさせられるものがあったから。いい機会なのかもしれない。ケルちゃんも、あの子に『何か特別な不思議な力』を感じたから、着いていくって決めたんでしょ?」
「紅葉ちゃん……」
「この後、どうなるかわからないけど、この落とし前はつけるわ。所長としての責任も取る」
「……紅葉ちゃんに迷惑かけたアタシが言えることじゃないけど……。もし、鬼どもが紅葉ちゃんに嫌なことしてきたら即アタシに相談してね! ぶっ飛ばしてやっつけてあげるから!」
「ふふっ、ありがとう……。そうするね」
紅葉の笑顔は、これまでで一番柔らかかった。
「……それじゃ、紅葉ちゃん。アタシそろそろ行くわ……気をつけてね」
「ええ、ケルちゃんも……また会いましょうね」
二人は短く抱き合い、離れた。
ケルベロスの尻尾がふわりと揺れ、空気を切るように消えていく。
その姿が見えなくなるまで、紅葉はじっと見送っていた。
胸の奥に、あたたかな残響が残る。
痛みも不安も消えてはいない。
だがそれと同じ場所に、確かに灯ったものがある。
それぞれが違う道へと歩き出す。
けれど、心のどこかでは、確かに繋がっている。
夕暮れの空が、ゆっくりと朱に染まっていく。
紅葉の瞳にも、その色が静かに映っていた。




