第19話 紅葉の告白、裂かれた狭間
営業所に残されたのは、紅葉と桃花の二人だけだった。
扉が閉まる音の余韻が、まだ壁に薄く残っている。
外へ出ていった鬼たちの気配が、まだ完全には消えていない。
沈黙が床を這うように、じわじわと広がった。
桃花は構えを崩さない。
鋭い視線を紅葉に向けたまま、先に口を開く。
「……私と、一体何の話をするつもりですか? さっきも言いましたが、あなたと話すことなんてありませんよ」
桃花の言葉は硬く、拒絶の意思が込められていた。
紅葉は、ふっと軽く微笑む。
だがその笑みは、どこか遠く、寂しげだった。
「そんな怖い顔しないで……。情けで、あなたをここで見逃してあげてもいいわよ」
「……は?」
桃花の眉が、ぴくりと動く。
予想外の提案に、思考が一瞬停止した。
「……どういうつもり? さっきまで私を陥れようとしてたのに、今度は見逃す? 一体どんな風の吹き回しですか?」
その言葉には、僅かな警戒と戸惑いが混ざっていた。
紅葉は腕を組み、視線を落とす。
「本当は、挑んできたあなたを、徹底的に叩きのめすつもりだったけど……気が変わったの」
「気が変わった?」
桃花の声が低くなる。
「ええ。あんな風に告白されて、気になる人がいるなんて話をしてたら、ふと昔のことを思い出したの……。だから、見逃すのは私の気まぐれね」
その言葉に桃花は思わず目を細めた。
「昔のこと?」
紅葉は静かに頷いた。
「……あなたを逃がす理由があるとしたら二つ。一つは、私も同じ「女性」だから。そして、もう一つは——」
そこで言葉を切り、彼女の表情がわずかに陰を帯びる。
「私が……『人間と鬼のハーフ』で、人間の血が混ざっているからよ」
その告白は静かだった。
桃花の呼吸が一瞬遅れる。
「……人間と、鬼の?」
「そう。父が人間で、母が鬼。私の体の中には両方の血が入ってる。だから……あなたを見逃すのは、人間の血が流れている『もう一人の私』としての情けよ」
その事実は淡々と語られた。
だが……重い。
敵だと思っていた相手の中に、自分と同じ「人間の血」が流れている。
桃花の胸の奥で、何かが軋むような音がした。
困惑と、わずかな共感への拒絶が胸の内でせめぎ合う。
「……なぜ、鬼側にいるの?」
桃花の問いは鋭い。
だが、その鋭さは攻撃というより確認に近い。
紅葉は、そっと目を閉じ、遠い記憶を手繰り寄せるように語り出す。
「……私が幼い頃ね、鬼である母が、人間の父を殺したの」
「!」
一瞬で空気が沈んだ。
重力が増したように息が詰まる。
紅葉の声は変わらず静かだ。
けれどその奥には、押し殺した痛みが確かに滲んでいる。
「私の家庭は……普通じゃなかったから。鬼と人間のどちら側からも、『穢れた存在』として扱われて、差別されたの」
「……」
桃花は構えたまま、ただ黙って話を聞いている。
だがその瞳の奥で、警戒とは別の感情が芽生え始めていた。
「……だから、どこにも居場所なんてなかったわ。体を休める場所も、気の休まる場所もなくい。そしてお金もなく、食べるものもない。そんな生活が……何年も何年も、続いたのよ」
「……」
「……そしてある日、あまりにも貧しい生活に耐えられなくなった父は……。私と母を、他国のとある奴隷商に売ろうとしたの。金のために」
「売る……?」
桃花の声が擦れる。
「そう。金さえあれば助かると思ったんでしょうね。私たちを捨てて、自分だけ逃げようとしたのよ……。知ってた? 他国では、鬼って種族はとても高額で売れるのよ? でもその前に、母がそれを知って父を止めた——いや、もう殺すしかなかったと言うべきかしら」
「殺すしか、なかったって……」
受け入れがたい結末に、小さい声で桃花は問いかけた。
「それくらい……私たちは、追い込まれていたのよ。この辛さ、あなたには……想像もできないでしょうけどね」
「っ!」
悲しそうな表情を見せた紅葉の言葉に、何も返せなかった。
否定も肯定もできない。
「だから、母も必死だった……。私を守るためにね。そして生きるため、一緒に逃げたわ。逃げる相手はもちろん奴隷商。しかも欲深い卑劣な人間だったわ。どんな手を使ってでも、母と私を捉えるために、どこまでも追ってきた。でも、それでも私たちは逃げ続けたわ」
静寂が落ちる。
それは、先ほどの恋愛劇の沈黙とはまるで違う。
重く逃げ場のない沈黙。
「……でもね、すぐに限界が来たわ。幼い私を抱えては逃げきれない。そう考えた母はその後、鬼の総本山である『鬼ヶ島』へと行き、入れてもらえるよう必死に頼み込み。なんとか鬼の世界で生きる道を得られたの。でも、私は……迷ったわ」
一瞬だけ、悲しそうな表情を見せる。
「けれど、最終的には『力のある鬼』を選んだ。『弱い人間』として搾取され、苦しむくらいなら『強い鬼』として生きる道をね」
桃花は拳を握りしめ、言葉を探すように口を開いた。
「……その話、嘘じゃないという、証拠はあるんですか?」
それは、微かな抵抗。
信じてしまえば、戦えなくなる予感があった。
「証拠なんてないわ。この話を信じるかどうかは、あなたが決めることよ」
その一言が不思議なほど静かに響いた。
押しつけではない。
同情を乞うわけでもない。
ただ、事実として置かれた告白。
桃花の中で、何かが胸の奥に突き刺さり、崩れる音がした。
戦う理由が一瞬で揺らいでしまう。
紅葉の言葉の裏に、どこか「嘘」ではない何かを感じた。
頭の中がぐるぐると回り、息が詰まりそうになる。
「どうして……そんな話を、私にしたの……?」
「……なぜかしらね。昔を思い出したから……。ただ……それだけよ」
紅葉は、そんな桃花をまっすぐ見据えた。
「逃げるなら裏口から出なさい。だけど、もし挑む気なら、正面入り口から出て来なさい……。それを決めるのは、あなたよ」
「!?」
そして鋭く続ける。
「……多勢に無勢。私たち鬼を相手に、真っ向から挑んでも勝てない。あなたは今、そう感じているのではないの?」
「!!」
図星だった。
反論の言葉が、喉で凍りついた。
「……十分だけ待ちましょう。その間に考えなさい」
「十分……?」
「ええ。十分経ったら、私たちは営業所の中に戻る。あなたがいなければ、そのまま仕事に戻るわ……。けれど、もしあなたが、まだここにいたら——」
ここで言葉が途切れ、そして言い放つ。
「容赦しない」
冷たい宣告。
その声には揺らぎがなかった。
だが、紅葉の瞳は冷たくも、どこか哀しみを含んでいるように見える。
「私は人間と鬼のハーフだけど、人間を殺すことに躊躇はしない。それが、鬼として生きるってことだから」
そう言い残し、踵を返して扉を開けた。
外気が流れ込み、彼女の長く赤い髪を揺らしながら、静かに出ていった。
そして、室内には桃花一人だけが残される。
再びの静寂。
時計の針が、やけに大きな音で進んでいく。
桃花はその場から一歩も動けなかった。
「……私、どうすれば、いいの……?」
心臓が痛いほどに鳴る。
「逃げる」か、「戦う」か。
どちらを選んでも、もう戻れない。
頭ではわかっている。
ここで逃げたら、もう二度と鬼に立ち向かえなくなる。
でも、こんな精神状態で挑んで戦えば……負ける。
確実に殺される。
桃花の目から、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。
紅葉の話が頭から離れない。
もしあの話が本当なら、紅葉は被害者だ。
鬼としても人間としても、その両方の痛みを、彼女は誰よりも知っている。
同じ「人間」の血を引きながら、「鬼」として生きることを選んだ彼女。
その苦しみと覚悟を、少しだけ理解してしまった。
「……そんな過去、聞いちゃったら……。もう戦えないよ……」
実戦経験なんて、ほとんどないに等しい。
まだ心も体も追いついていない。
鬼を「殺す覚悟」など、今の桃花にはない。
そもそも、自分が死ぬ覚悟すら——
視界が滲み、涙が止まらなくなった。
「……もう、どうしたらいいか……わかんないよぉ……」
床に落ちた雫が、ぽたぽたと音を立てた。
時間だけが残酷に進む。
焦りと恐怖が絡まり合い、呼吸が苦しくなる。
孤独と絶望が桃花を押し潰そうとした。
——その時。
「……あ〜らら〜ん。泣き虫なお嬢さんだこと〜♪」
ビクリと肩を震わせ、桃花は声のした方へと振り向く。
するとそこには、生き物らしき黒い影が見えた。
低く、どこか艶のある声が響いた。
「……ケルベロス……!」
三つの頭を持つ「地獄の番犬ケルベロス」が、じっと桃花を見つめている。
いつの間に入り込んだのか、全く気配すら感じさせなかった。
そして、ケルベロスは微かに口元を緩める。
「ウフフ♪ 今度はアタシと、少〜しだけ、お話、し・ま・しょ♡」
ケルベロスは三つの頭をゆっくりと傾けて、ニヤリと笑う。
その金色の瞳の奥には、何か底知れぬ光が灯っていた。
涙で濡れた頬のまま、桃花は戸惑いの表情を浮かべる。
理解が追いつかないまま、時計の針だけが静かに進んでいた。




