第15話 悪知恵
紅葉が黄鬼を叱責している、そのわずかな隙に、桃花は声を潜めるように周囲を見渡した。
張り詰めた空気。
縮こまる鬼たち。
——今なら、この流れを変えられる。
そう確信した桃花は、紅葉に対して、混沌を招く一言を放つ。
「……あ、そういえば、その鬼たち、さっき私が叩きのめした時なんですけど……」
紅葉の視線が、わずかに揺れ、横目で桃花をゆっくりと捉える。
桃花は、その迫力に一瞬たじろぐが、それでも懸命に耐えながら話を始めていく。
「……その時、こんなこと言ったましたよ。“時給が低くてやってられんわ〜”とか、“もうバックレてやるんだわ〜”とか……」
それを聞いた瞬間、赤鬼と青鬼の肩がビクッと跳ねる。
桃花は話を続けていく。
「それと、仕舞いには——」
ここでわざとらしく、言葉を一拍置く。
営業所内のすべての視線が、自分に集まるのを確認し、彼女はトドメの一撃を口にする。
「……“うちの紅葉所長は、鬼なのに悪魔みたいな女だから、結婚なんて一生できないぜ! ぎゃっはは!” みたいなことも言ってましたー」
どさくさに紛れ、鮮やかに行われた「暴露の上書き」。
その瞬間、場の空気が目に見えて歪んだ。
最初の二つは事実。
だが最後の一つだけは、桃花の捏造した即席の嘘だ。
(……真実の中に、嘘をひとさじ混ぜ込んでみたが、どうだろう……? 鬼に対して「悪魔みたい」っていう表現は、少し変だったかな?)
だが、目的のためとはいえ、嘘は嘘だ。
桃花の胸の奥が、ちくりと痛む。
いくら相手が悪逆非道の鬼であろうと、自分までその「卑劣さ」に身を落としているという感覚。
だとしても、この状況を乗り切るためには「噓も方便」と自分に言い聞かせるが、喉の奥には、どうしても嫌な後味が残る。
すると紅葉は、キッと鋭い表情で桃花を更に睨みつけた。
その眼光の鋭さに、桃花は思わず肩をビクッと震わせる。
(……き、綺麗な顔してるのに、ものすごい迫力だ)
息が、詰まりそうになる。
だが、それ以上に動揺していたのは——
赤鬼と青鬼だった。
「はぁ!? な、何言ってやがんだ、テメェコラ……! 」
「ちょっ、やめてくれよ!」
流石にこれは予想外だったのだろう。
明らかに動揺している。
(……思った通り、かなりの焦りっぷりだ! 効いてる効いてる! ふっふっふ)
そして紅葉は、赤鬼と青鬼がいる方向へ、ゆっくりと顔を向けていった。
「……今の話は、本当ですか……?」
低く、感情を極限まで押し殺した声。
怒鳴っていないのに、空気が震える。
「い、いや! そんなわけ、ないじゃないですか!」
「そうですよ! お、俺たちとその小娘、どっちを信用するんですか!」
ものすごい反応だ。
必死という言葉では足りないくらい、なりふり構わぬ否定。
それだけ、紅葉が恐ろしい存在ということの現れなのだろう。
だが、その過剰な反応こそが、彼女の不信を確信へと変えていく。
「……ではなぜ、そんなに動揺しているのですか? 膝が震えていますよ?」
紅葉の瞳が細くなる。
獲物を仕留める直前の蛇のように。
「ど、どど動揺なんて、してませんよ! ちょっと寒いだけですって!」
「そうですよ! あ、ありえませんから! そんな、不敬なこと……!」
否定の言葉が重なるほど、疑念は深まる。
逃げ道が、少しずつ塞がれていく。
「そうですか……。では、そのように見えている私の目が、おかしいということですね」
紅葉は淡々と続けた。
「い、いえ! そんなことないですよ! 全然おかしくなんかありませんって!」
(……まぁ、この状況ならそう言うしかないよね)
引き続き桃花は、この状況を観察する
そして紅葉は、ほんの一瞬だけ黙り込み——
再び、同じ問いを投げかけた。
「ではなぜ……あなたたちは、そんなに動揺しているのですか?」
「「!!」」
(振り出しに戻って堂々巡りだ! いいぞ! もっと仲間割れしちゃえ!)
桃花は心の中で、快哉を叫ぼうとした。
だが、紅葉が次に漏らした言葉が、その高揚感を一気に凍りつかせた。
「……“給料が低い”、“バックレる” この程度なら、まだ聞き流せます」
紅葉の声が静かに響き、空気が更に冷えていく。
「ですが……」
一拍。
「……私が、“悪魔みたいな女で、一生結婚は無理” と言うのは……。いくら何でも……言い過ぎでは……?」
その言葉に、微かな震えが混じる。
——怒りではない、桃花が発した「あの言葉」が刺さっている。
紅葉の目元が、ほんのわずかに潤んで見えた。
艶やかだった唇は微かに震え、自信に満ちて堂々としていた肩が、ほんの少しだけ内側に閉じている。
鬼の営業所の「所長」としてではなく、一人の「女性」としてのプライドを粉々に砕かれたような、痛々しいまでの動揺。
(あ、あれ? ちょっと様子がおかしいような……)
その瞬間、桃花は気づいた。
自分の投げた一言が、思っていた以上に彼女の心の柔らかい部分を、深く突き刺さってしまったことを。
「悪知恵」が成功した高揚感は、瞬く間に「取り返しのつかないことをしてしまったかも……」という、罪悪感へと塗り替えられていった。




