第14話 怒髪天
腹を抱えて笑う鬼たちの輪の中で——
ただ紅葉だけが、静かに口を開いた。
「……ちょっと待って」
その一言は決して大きくはなかった。
けれど、不思議なほどよく通り、場の空気が一段沈んだ。
直前まで満ちていた嘲笑とざわめきが、まるで糸を断ち切られたように途切れる。
「所長である私が、『受付嬢の役』をやるのは聞いていたけれど……」
紅葉は言葉を選ぶかのように、一拍置いた。
その「間」は、場にいる全員にとって、異様に長く感じられた。
「その受付嬢が、『クレーム率九割で最悪』だなんて設定、聞いてないんだけど?」
紅葉の声のトーンが一気に落ちる。
怒鳴っていない。
感情を荒げてもいない。
それなのに——
背中に、ずしりとした圧がのしかかるような感覚が広がる。
その瞬間、発言した黄鬼の顔から血の気が引いた。
「え!? あ、いや、その……」
言葉が続かない。
声が喉の奥で絡まっている。
赤鬼と青鬼も、ビクッと肩を震わせ、笑っていた顔が凍りつく。
まるで見えない刃を突きつけられたかのように。
「……しかも『最悪』ね……ふ〜ん」
紅葉は、首をわずかに傾ける。
その仕草は柔らかい。
だが、その裏にある感情は鋭かった。
「あなた……。裏では私のことを、そう思ってるってこと?」
穏やかな口調。
それなのに、言葉は刃物のように研ぎ澄まされている。
「い、いや、ちがっ……! そ、そんなわけないじゃないですか! 全ては作戦ですよ! 作戦!」
黄鬼の必死の否定も虚しく、営業所内の空気は一気に氷点下まで冷え込んだ。
冗談も誤魔化しも通じない領域へと落ちていく。
(……ああ)
ここで桃花は遅れて理解する。
紅葉は「受付嬢の役」だけは了承していたが、「クレーム率九割の最悪受付嬢」という設定までは……知らなかったと。
——つまり、作戦の一部を、この三バカ鬼が勝手に脚色した。
ということらしい。
(……何にせよ。隠してたんだったら、せめて最後まで隠し通してよ。それを忘れて、ついうっかり本人の前で暴露するとか……。ただのおバカさんとしか言えないって……)
桃花の脳裏に呆れた感想が浮かぶ。
だが紅葉は止まらない。
「そういえば、あなた……」
黄鬼を捉えた視線が、絶対零度の冷たさを帯びる。
「さっき、"フラれた” ことも嘘みたいに言ってたけど……」
紅葉が一歩近づく。
「……昨日の夜、私を食事に誘ってきましたよね?」
(なんですと?)
桃花の中で、妙な予感が確信に変わっていく。
「……それも、あなたの言う『作戦』だったと?」
「いや……。ち、違うというか……なんというか」
黄鬼の声が掠れる。
紅葉は優雅な笑みを崩さないまま、静かに問いを重ねる。
「で?」
「はい?」
「その『作戦』は……成功しましたか?」
さらに一歩、紅葉が踏み出すたび、床を叩く靴音が処刑台へのカウントダウンのように響き渡る。
「そのあと、あなたは——どうなったのかしら?」
空気が重力を持つ。
逃げ場は……ない。
「えっと……。そ、それは……あのぅ」
黄鬼は目に見えて動揺していた。
凄まじい量の汗が顔を伝い、床に落ちるほど流れ出ている。
「ど う な っ た の か し ら ?」
紅葉は言葉を強める。
一語一語、踏みしめるように。
ほんの少し前まで、楽しそうに笑っていたとは思えない。
その雰囲気に周囲の鬼たちは、蛇に睨まれた蛙のように息を詰め、誰も助け舟を出そうとしない。
——いや、正確には出せなかった。
というのが正しいか。
そして……。
「……シッパイシテ,フラレマシタ……」
蚊の鳴くような、とんでもなく小さく惨めな声を出す黄鬼。
(……声ちっさ。さっきまでのチャラい勢いはどこへ?)
桃花は心の声でツッコむ。
気鬼の自信のない言葉を聞いた紅葉の眉が、ピクリと動く。
「……何ですって? 聞こえませんけどっ!!」
「「「!!!」」」
その怒声に、他の鬼たちまでもが一斉に震え上がった。
紅葉の顔は、文字通り「鬼」のような形相へと変貌している。
もっとも、彼女は本物の鬼なのだから、その形容は的外れかもしれないが。
だが、それにしても、あのブチキレっぷりは只事ではない。
自分の知らないところで、「笑い者にされる不名誉な役」へ仕立て上げられていたことが、彼女の地雷という逆鱗を踏み抜いたのだろう。
そして追い詰められた黄鬼は、観念したように息を吸い——
「し、失敗してぇぇっ!!! フラれましたぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーー!!!」
もはや、自分の命が刈り取られる直前の断末魔のような返答。
とんでもなく凄まじい大音量の声だ。
その声は営業所内に留まらず、建物の外まで突き抜けていくような咆哮。
どこかにマイクでも仕込んでいるのではないかと、疑ってしまう程だった。
どうやら、この黄鬼がフラれた話は本当のことらしい。
(まったく……中途半端にしょうもない嘘ついて……嘘の中に、サラッと真実を混ぜ込まないでよ)
このあまりの出来事に呆れ果ててしまう桃花。
そして、この黄鬼の返答を聞いた瞬間、紅葉は——
「うるさい!! 声が大きい!! 黙れ!!」
反応は更に苛烈だった。
容赦のない一喝。
(いや、“もっと小さい声で言いなさい!” とかならまだしも、“黙れ!”って……。自分で言わせておいてこの仕打ち……。理不尽にもほどがあるよ。他の鬼も見てるというのに何という鬼畜ぶり! とんでもない恐怖政治だ……)
激しく怒られた黄鬼に、ほんの少しだけ同情してしまう桃花。
この公開処刑を目の当たりにした、他の鬼全員が萎縮していた。
ここにいる誰もが「次は自分かもしれない……」と、悟っているような表情をしている。
そして——
シン……と音が消えた。
あれほど騒がしかった営業所内が、今では嘘のように静まり返っている。
(……あ、あれ? なにこの空気……。なんか私、忘れられてませんか?)
状況に取り残された桃花が、戸惑いを感じていたその時、紅葉が、低くぽつりと呟いた。
「……それで?」
「はい?」
紅葉の言葉に、黄鬼は意表を突かれたように間抜けな返事をした。
「いや、“はい?” じゃないでしょ。私に対して、何か言うべき事があると思うんだけど?」
(ええ……。このやり取りまだ続くの? もう勘弁して)
桃花は、内心でため息をつく。
それを察した黄鬼は瞬時に床へ滑り込み、完璧な角度で見事な土下座を決め込んだ。
「……こ、この度はっ!!! 紅葉様に無礼を働いてしまい!!! 大変!!! 申し訳!!! ごっざぁぁいっまっせぇぇんっでぇぇぇっしたぁぁぁぁーーーー!!!」
またも、自分の魂を削り出すような大絶叫謝罪。
(……うるさっ。さっきも思ったけど、確かにうるさい。馬鹿の一つ覚えにデカい声出しときゃいいってもんじゃないよ……)
もはや、心の中でツッコミが止まらない桃花。
そしてこの瞬間、紅葉のボルテージが一気に跳ね上がる。
「だから!! うるさいって言ってるでしょうが!! あなたバカなの!? そのやかましい脳みそ吹っ飛ばしてやろうか!!」
(ほーら、また怒られた……)
桃花の予想は的中。
紅葉の怒りは全く収まる気配がない。
収まるどころか、むしろヒートアップしているようにすら見える。
(……まさか、これも作戦じゃないよね? また私、騙されてないよね?)
桃花はこの状況を、一瞬疑ってしまう。
だが、目の前の光景を見る限り、とても作戦とは思えなかった。
(もし、これが作戦だったら役者だよ。超一流俳優の名演技だよ)
狂気じみた内輪揉めを眺めていた桃花の脳裏に、ある一つの鋭い閃きが走った。
(……ん? ちょっと待てよ? この状況……もしかしたら使えるかも)
紅葉の意識は、完全に黄鬼へ向いている。
他の鬼たちも、恐怖で思考停止状態。
この場は、完全に混乱の渦中だ。
——今なら。
この混乱の火種をさらに煽り、この「鬼商会」そのものを、内側から崩壊へ追い込めるかもしれない。
桃花は、その考えを胸に秘め、ゆっくりと口角を上げた。
誰にも気づかれないように。
良からぬ企みを宿した笑みで。
その瞬間——
桃花は、ただ「観察者」ではなくなっていた。




