第109話 氷解心
朝っぱらからの大騒ぎと喧騒がようやく過ぎ去り、辺りには穏やかで心地よい空気が流れていた。
張り詰めていた緊張が解け、爽やかな風が吹き抜けていく。
先程まで衝撃波や轟音で騒がしかった空間も、今では嘘のように落ち着きを取り戻していた。
一同がそれぞれに息をつく中、ケルベロスが手元のスマートフォンをいじりながら、親しげに信繁へと話しかけた。
「ねぇ、ダンディ。さっきみんなで撮った写真なんだけど、アタシに転送してもらえるかしら? 今日の思い出として取っておきたいの♡」
「おおっ? いいぜ! ちょっと待ってな!」
信繁は快活に笑い、自身のスマホを取り出し、屈託のない笑顔で快諾する。
そして、ふと思いついたように顔を上げ、ケルベロスと桃花を見つめた。
「ならついでによ、ケルちゃんと桃花ちゃんの連絡先とIDも教えてくれや。たまには連絡しようぜ」
その提案に、ケルベロスは弾んだ声を上げて、嬉しそうに目を輝かせる。
「あら♡ 交換してくれるの〜? 是非是非〜♪ SNSでも繋がりましょ♡」
桃花も少し照れくさそうに、まだ真新しい自分のスマホを両手で握りしめた。
「そういえば私、信繁おじちゃんの連絡先って知らなかったよ。私、最近スマホ持ったばかりだったから」
「お、そうだったのか。ならイイタイミングじゃんか! よし交換しようぜ!」
信繁の屈託のない笑顔に釣られ、場の空気はさらに和んでいく。
スマホを近づけ合い、小気味よい電子音を響かせる。
そうして三人は、互いの連絡先とIDの交換を無事に完了させた。
「登録っと……」
桃花は、画面に表示された新しい友人の名前を見つめる。
胸の奥から湧き上がる温かい余韻に浸り、嬉しそうに微笑んだ。
「……連絡先……。友達が増えていくのって、やっぱり嬉しいね」
その呟きには、素直な実感が込められていた。
画面の中に増えた名前。
それだけのことなのに、誰かとの繋がりが形になるのが嬉しい。
しみじみと呟いた彼女の言葉に、ケルベロスも深く同意するように、優しい眼差しを向け、共感するように微笑む。
「そうよね♪ 直接こんな風に増えていくって、イイわよね♡」
するとケルベロスは、少し離れた場所に控えていた佐助の方へと視線を向け、「ねぇ」と小さく声を上げる。
「レディもスマホ、持ってるわよね? 良かったら一緒にどうかしら?」
「拙者も……ですか?」
不意に声がかかったことに、佐助は目を瞬かせた。
まさか、自分にまで連絡先交換の誘いが来るとは思っていなかったのだろう。
その整った顔に、少々戸惑いと驚きが入り混じった表情が浮かぶ。
桃花もまた、期待を込めた眼差しで自分の希望を真っ直ぐに伝える。
「あ、私も猿飛さんと交換したいです。ダメですか?」
「ですが……」
二人から真っ直ぐな視線を向けられ、佐助は言葉を濁らせたまま、困ったように視線を落とした。
「忍び」という特殊な立場からか、自分の不必要な情報が表に出ること、あるいはそこから何かが漏洩することを、必要以上に気にしているようにも見えた。
そんな生き方が染み付いているのだろう。
この瞬間、場の空気が、ほんの少しだけぎこちなく停滞する。
その様子を見ていた信繁は、勘を働かせて動く。
会話の流れが不自然にならない絶妙なタイミング、そして声をかけた二人が「拒絶された」と不快にならない一瞬の「間」を見計らい、佐助の背中を後押しする。
「心配すんな! 交換しろよ! 交友関係を持つことも、今の時代には必要だぜ!」
「ノブ。しかし拙者は……」
なおも視線を険しくし、立場に殉じようとする佐助。
そのただならぬ違和感を察したケルベロスは、ここで思い出した。
「……ああ……そっか、なるほどね」
佐助が「忍び」であること。
そして、それが容易には許されない立場なのだという本質に気づいた。
先程までの華やかな笑顔をすっと引き締める。
「……アタシ、ちょっと無神経なこと言ったわね。職業柄、他には言えないような立場よね。そんなに深い意味はなかったのよ。そこまで気を配れなくてごめんなさいね」
ケルベロスは自身の軽率さを恥じ、心からの謝罪を口にした。
この急な態度の変化に、一瞬だけ桃花は状況を理解できていなかった。
だが、佐助の張り詰めた表情を見てすぐに事の次第を理解した。
「あ、ごめんなさい……。そういうこと、だったんですね」
「……」
佐助は沈黙した。
言いようのない、申し訳なさと気まずさの入り混じった空気が、さざ波のように周りへと伝わっていく。
せっかくの和やかな席を壊してしまったという自責から、佐助へと連絡先の交換をしようと声をかけたケルベロスと桃花は、居た堪れなさそうに視線を落としている。
そして、それは交換を求められた側の佐助も同様だった。
決して二人の好意を無下にしたいわけではない。
忍びという立場と、万が一の情報漏洩を警戒している。
危険性を天秤にかけ、葛藤しているだけなのだ。
重く沈みかけた空気。
するとここで再度、信繁がその重苦しい空気を一刀両断するかのように、力強い一言を発した。
「佐助。大丈夫だって! 今はそんな敵対している勢力なんていないんだし、それは昔の話じゃねぇか。それに佐助なら情報が漏れることなんて、まずないだろ?」
「細心の注意を払っているが、な……」
「万が一、情報が漏れたとしても、誰かが死ぬような大袈裟なものじゃねぇよ。そもそも、ケルちゃんと桃花ちゃんに、ここの大事な情報を教えてないだろ」
「それはそうだが……」
核心を突かれ、佐助の反論のトーンがわずかに落ちる。
信繁は更に畳みかけるように、その大きな掌を佐助の肩にぽんと置いた。
「仮にそうなったとしてもだ。その責任は俺にある。俺自らが交換しろよって勧めてんだからな。最小限でも、こういう交友関係は広げとけ。昔からお前は頭堅すぎんだよ!」
あまりにも豪快。
それでいて深い信頼の裏返しである信繁の言葉に、佐助の緊張の糸がふっと緩んだ。
呆れたように、しかし嬉しそうに口元を綻ばせる。
「ふふっ、ノブ……そこまで言うかね」
「なんなら、ここで命令でもしてもいいんだぜ?」
悪戯っぽく笑う信繁に、佐助は降参したように小さく溜め息をつき、微笑んだ。
「……わかった。そこまで言うのであれば、快く連絡先の交換をさせてもらおう」
「人生、何がキッカケで変わるか分からんからな。これは良い出会いだと思うぜ」
信繁はそう言いながら、バシバシと佐助の背中を叩き、強く後押しした。
彼の言葉を聞き、佐助の瞳からは完全に迷いが消え、安心した表情が浮かんでいた。
そして佐助は、改めて二人に向き直り、丁寧に深く頭を下げる。
「ケルベロスさん。桃花さん。先程は不快な思いをさせてしまい、大変申し訳ございませんでした。誠に勝手ではございますが、お二人のご連絡先を頂戴したく存じます。宜しいでしょうか……?」
その誠実な態度に、張り詰めていた二人の表情が一気に明るくなっていく。
「ウフフ♡ もちろんよ〜♪ でも安心したわ〜。アタシ、ヤバいこと言っちゃったと思ったから、ずっとドキドキしっぱなしだったわよ〜♪」
「私も、やっちゃったなって思ってたから、すごくホッとしました……。はぁ、膝ガクブル」
桃花も、心の底から安堵したように胸を撫で下ろした。
「申し訳ございません。そういう性分でして……。何卒、ご容赦ください」
「いいわよん♪ 職業病みたいなものでしょ? ささっ! 早速交換しましょ〜♡」
痛切に恐縮する佐助に、ケルベロスは尻尾を振りながらウィンクをしてみせた。
こうして三人は、互いの連絡先とIDの交換をするため、少し照れくさそうにスマホを差し出し合って、和気あいあいと交換を完了した。




