第101話 大千鳥十文字槍
「わ、私と信繁おじちゃんが……勝負!?」
突然、信繁から「一本勝負」を挑まれた桃花は、状況を飲み込めずにいた。
彼女の思考は、一瞬で白く塗りつぶされる。
別れの挨拶をしていたはずの穏やかな時間は、信繁が羽織を脱ぎ捨てた瞬間に霧散した。
「おう! だが、その前に怪我だけしねぇように、体を軽く動かしときな」
信繁は事もなげに言うが、その立ち姿から放たれる圧倒的な存在感は、桃花の動揺を更に煽った。
目の前に立つのは、四十歳を目前に控え、前線を退いたはずの男。
しかし、その服の下から覗く筋骨隆々とした肉体は、現役の戦士すら凌駕しているだろう。
日々の鍛錬を一切怠っていない、何よりの証拠であった。
彼が着ている黒いTシャツはパツパツになり、悲鳴を上げているようだ。
それだけではない。
更に圧倒されるのは、その肉体から発せられる、目には見えない威圧感。
それが朝の空気をビリビリと震わせ、彼女の肌を焦がすように刺激してくる。
——六年ぶりの手合わせ。
突然の展開に、挑まれた桃花はもちろんのこと、周囲の面々もあからさまに動揺し、場には張り詰めた緊張感が漂い始めた。
「……ダンディと桃花ちゃんの勝負って……。まーたとんでもなく、すんごい展開になったわね……。でも、なんかちょっと面白そうよね♡ こんな機会なんて滅多にないわ♪ ここは、ギャラリーとして楽しませてもらうことにしようかしら〜♪」
一瞬だけケルベロスも驚いた反応を見せた。
だが次の瞬間には、彼女特有の切り替えの早さを発揮し、すぐさまこの事態を極上の「娯楽」へと変換した。
彼女の瞳はすでに、お祭り気分でキラキラと輝いており、あっという間に「最前列の特等席を確保した観客」へと変貌を遂げていた。
「え? え? ちょっ、ケルベロスさん、桃花さんを止めないんですか!?」
まさかの態度に、フィオンが信じられないといった様子で声を上げる。
常識的に考えれば、朝っぱらからやるようなことではない。
その横では、まだ子供である六郎もまた、信繁の行動を静観し、あろうことか勝負を促した佐助に心配の言葉を漏らしていた。
「佐助さんも、ノブさんのこと止めないんですか!? というか、ここで更にけしかけます!?」
まだ子供である六郎も、佐助の落ち着き払った態度に不安を隠せない。
幼い彼から見ても、この流れはかなり危なっかしく映ったのだろう。
しかし、そんな常識人たちの戸惑いをよそに、傍観を決め込んだ犬はノリノリであった。
「止める理由なんてないもの♪ だってこれは、悪意のある勝負じゃないでしょ〜? アッハ〜ン♡ な〜んか、とってもビールが欲しくなっちゃったかも〜♪ ほらほら! フィオンちゃんもこっちに来なさいな! 六郎ボーイも一緒に観戦よ〜!」
有無を言わさぬケルベロスのペースに巻き込まれ、止めに入ろうとしていたフィオンと六郎は、強制的に “観客席” へと連行されてしまう。
戸惑う二人を余所に、ケルベロスはその場に立ち尽くす桃花へ野次を飛ばす。
「ほら、桃花ちゃん! 早く準備しなさいな! ラジオ体操よ! はい! ワンツー! さんしー!」
「ええーケルちゃん、ここでラジオ体操って……。でも、勝負を挑まれた以上は、やるしかないのかなぁ。というか、そもそも断れる空気じゃない」
ケルベロスの号令に毒気を抜かれたのか、桃花もようやく腹を括った様子。
小さくため息を吐きながらも、気持ちを切り替え、入念なストレッチを開始する。
対する信繁も、関節の動きを確かめるように、ゆっくりと身体を動かしながら解していく。
「桃花ちゃんは若くていいよな! 俺は流石に若いとは言えないからよ。油断して無理しちまうと、すぐに体のあちこちを痛めちまんだよな。この歳になって思うが、やっぱ若いっていいな! 回復も早くてマジで羨ましいぜ!」
「んー? な〜に、信繁おじちゃん? もしかして、負けた時の言い訳してる? そんなこと言ってると私、あっという間に勝っちゃうかもな〜」
体を伸ばしながら、桃花は楽しそうに悪戯っぽく笑い、軽口を返した。
緊張感を孕みながらも、そこには六年という月日を埋めるような、昔馴染みの温かい空気が流れている。
彼女の挑発を聞いた信繁も、とても嬉しそうに声を上げる。
「おおっ! 桃花ちゃんも言うようになったなー! 自信満々かー? 昔なんて、いっつも俺に負けて、しょっちゅう泣いてたのによ! 随分と逞しくなったもんだね〜」
笑いながら放たれた言葉。
信繁は、当時の泣き虫だった桃花の話を引き合いに出し、試合前にサラッと心理的な揺さぶりをかけてきた。
「んななっ! それは昔の話だよぉ! 今の私は違うのっ!」
「ほほー。それは楽しみだ!」
桃花の反論を受け、信繁は更にやる気をみなぎらせて張り切る。
その表情は、面白いオモチャを見つけた子供のように、弾けるような楽しさに満ちていた。
するとここで、その光景を眺めていたケルベロスは、ニヤリと悪戯好きな子供のような笑みを桃花に向けた。
「あ〜らら〜ん? 桃花ちゃんってば〜♪ 泣き虫なのは今もでしょ〜? 昨日だって、フィオンちゃんと一緒に抱き合って、仲良く泣いてた、く・せ・に♡」
観客からの容赦ない野次が飛ぶ。
「ちょぉぉーーいっ! ケルちゃぁぁーーんっ! ここは空気読んでぇぇ! なぜ今それを言うかなっ!?」
まさか一番の身内であるケルベロスから、昨夜のもらい泣き事件を即バラされるとは思ってもみなかった桃花。
彼女は顔を真っ赤にしながら、全力でツッコミを入れる。
信繁以上の鋭い揺さぶりを、予想外の方向からまともに食らってしまった。
だが、この被弾は桃花だけにとどまらない。
すぐ横で、このやり取りを聞いていたフィオンは目をまん丸にし、驚いた表情でケルベロスを凝視する。
「……え? え? ケルベロスさん。私、昨日……桃花さんに抱きついて、泣いてたんですか!? それは聞いてないんですけどぉ!? 全然覚えてないんですけどぉ!?」
まさかの方向から、自分まで巻き込まれる。
フィオンは、記憶にない昨夜の醜態を知ってしまった。
この勝負に全く関係がない、そして意味のない強烈な揺さぶりを受けてしまっている。
その隣では、六郎が苦笑いを浮かべていた。
「ぼ、僕は、先に仕事を終えていたので知りませんでしたが……。フィオンさん、そこまで飲んでいたんですか……? 一体、どんなやらかしを……?」
真面目な六郎までが、流れ弾に当たって無駄に揺さぶられる始末。
観客席の混沌とした様子に、ケルベロスだけはどこ吹く風でコロコロと笑う。
「ウフフ♪ いいじゃな〜い♡ これで、いい感じに肩の力が抜けたんじゃな〜い?」
この一言に、桃花はハッとする。
言われてみれば、先程まで強張っていた体が、程よく解れていることに気づく。
「うぐっ……た、確かに、ちょっと緊張がほぐれている……。認めたくはないけど……」
悔しいが、その配慮(?)には、少しだけ感謝してしまった。
そして信繁は、そんな桃花の仕上がった状態を見計らったように声を上げる。
「よっしゃ! そろそろいけるか? そんじゃ佐助、判定人を頼むぜ!」
「承知した……。ですが、この表通りでは他の住民の方たちにご迷惑がかかります。試合は宿の裏にて執り行いましょう」
「おっとと! 確かにそうだな。ここじゃダメだよな、また怒られちまうとこだったぜ」
「え? またって……?」
信繁の言葉に、桃花は小さく呟く。
だがこれに対し、特に誰も言及してなかったため、彼女はそのまま流すことにした。
佐助の静かな声に導かれ、全員で宿の裏手へと移動する。
そこには、宿で使用した大量の洗濯物が干されていた。
思ったよりも広い場所。
ここならば、ある程度は暴れても問題なさそうな感じである。
空気が再びピンと張り詰め、真剣勝負のものへと引き戻されていく。
ここで信繁が「一応……」と、確認するように桃花へと言葉をかける。
「この試合は、ただの手合わせだ。武器の使用は無しにしようぜ。お互いに怪我したら大変だからな」
「あ、うん。わかってるよ……って。あ、ごめんね! 私、刀と武具を装備したままだったね!」
うっかり武装したままだった桃花は、慌てて腰の刀と籠手具足を外し、観客席のケルベロスへと差し出す。
「ケルちゃん。お願いね」
「オッケーイ♪」
身軽になった桃花は、改めて信繁と正面から向き合った。
互いの呼吸。
視線。
立ち姿。
その全てを探り合うような静寂が流れる。
するとそこで、ふと彼女の脳裏にある疑問がよぎる。
「あ、武器と言えば、信繁おじちゃんが持ってた、あの『十文字槍』ってまだあるの?」
かつての信繁の代名詞であり、象徴とも言える真っ赤な名槍。
今はどこにあるのだろうという、純粋な問いだった。
「ん? ああ、あれか。おう、持ってるぜ! ほれ、見てみな! あそこにあるぞ!」
信繁は親指をクイッと横に向け、「あっちだ」と示すように、その槍のある方向を指さした。
桃花は何気なくその視線の先を追う。
「あ、ホントだ、あるね……って嘘でしょ!? なんであんなところにあるのっ!?」
指さされた先を見た瞬間、桃花は信じられないものを見たかのように、素っ頓狂な驚きの声を上げてしまった。
それは、武将の得物の保管場所(?)としては、あまりにも常軌を逸した「意外すぎる場所(?)」であった……。




