第10話 ケルベロス戦
一歩、前に出た瞬間だった。
地面が——
ドンと、腹の底を打つように揺れた。
ケルベロスの前脚が叩きつけられた地面から、蜘蛛の巣状に亀裂が走る。
黒い炎が地を舐め、焦げた土の匂いが一気に広がった。
重い。
ただ重いだけではない。
その一撃には逃げ場を奪う圧があった。
——まるで、
物語が次の章へ強制的に進められる合図のように。
「……でも、ここで退くわけには!」
桃花は歯を食いしばり、身構えた。
全身の神経が研ぎ澄まされ、次の一撃を待ち受ける。
——のだが。
「……実はねぇ〜」
不意にケルベロスの右の首が、妙に気の抜けた声を出した。
「ここの勤務も、結構大変なのよ〜」
「え、え?」
何の前触れもなく、いきなり会社の内部事情を暴露し始めてきたのだ。
この状況に、桃花は思考が追いつかない。
攻撃が来ると身構えていた神経が、空振りしたまま宙に浮く。
「ねぇアンタ、最近の鬼商会、福利厚生がヤバいって話、ご存知?」
「は? いや、知りませんよ!」
反射的にツッコミを入れてしまう自分に、桃花は内心で舌打ちした。
今度は、ケルベロスの真ん中の首が当然のように話し始める。
「この会社ね、組合費って名目でね? 毎月3万も給料からボッタくるのよ。しかも何の為に取るのか、どう使うのかの説明が一切ない。これ超ウザったいでしょ?」
さらに左の首。
「社食はマッズイご飯しかないし〜。ボーナスも段ボール一杯に詰め込まれたみかんだし〜」
(……何だこれ。いきなり会社の愚痴を言ってきた!? なんで!?)
桃花は心の中で、更にツッコミを入れた。
空気が妙にズレている。
「あ、いやいや! 鬼商会の闇事情とか聞かされても!」
桃花は一瞬、気が緩んだ。
「……ふふっ」
三つの首が、同時に笑う。
「本当に素直で騙しやすい子ね。はい、隙アリ〜♪」
三つ首が一斉に咆哮した。
音が殴ってくる。
空気が震え、木々が悲鳴を上げて折れ、鼓膜が限界まで引き伸ばされる。
「ひぃぃ……! 耳が壊れるよぉ!」
桃花は両耳を押さえつつ、必死に踏ん張って耐える。
会社の愚痴は気を引いて隙を作る為の餌だ。
営業所に入る前も、このように気を引いてその隙を突いてきた。
この短時間に、まんまと二度も引っかかってしまう。
桃花とケルベロスの実戦経験の差が現れた瞬間だった。
桃花の動きが鈍ったところを、ケルベロスの爪が風を切って鋭く振り下ろされる。
「ぐぁっ、危ないっ!」
咄嗟に跳んで、ギリギリでかわす。
爪が地面を抉り、その横で爆ぜる音がした。
「へぇ〜。アンタ、案外しぶといのね。面白いわ!」
(……これは、強い! さっきの三バカ鬼の比じゃない! だけど、ここで怯むわけには!)
次の瞬間、桃花は地を蹴り、一足飛びでケルベロスとの間合いを詰める。
そして、そのままの速さで右の首筋へ狙いを定めた。
勢いよく空中回転し、全体重を乗せた左脚の鋭い蹴りが閃く。
おばあさん直伝の蹴り技「閃嵐」。
ガキィィン!
金属のような音が響き、蹴りが弾かれた。
「痛っ! なんて硬さ! 攻撃が全然通らない!」
まるで鋼鉄。毛皮の下の皮膚が異常に硬い。
「ウフッ♡ アタシ硬いでしょ! これは、避けられるかしら!」
更に三つの首が連携して襲いかかってくる。
右の首から炎。
左の首から牙。
中央の首から衝撃波が放たれる。
逃げ場を防ぐような、三方向から同時攻撃。
「ぐっ!!」
転がりながら必死に回避する。
足元の地面がえぐれ、熱風で髪が焦げそうになる。
「熱っ! このままじゃ、押し潰される……!」
息が詰まる。
「いいわアンタ! 楽しくなってきたかも〜!」
ケルベロスの声が弾む。
体が温まってきたのか、攻撃がより一層激しさを増していく。
(どう攻める? 何かないか……!)
焦りの中、ふと頭の中でおじいさんとおばあさんの声が蘇った。
——「桃花、力押しに頼ってはいかんぞ。相手をよく観察して敵の『癖』を見抜け」
——「そうそう☆ 簡単ではないけど、相手の『癖』を見つけると、戦況が変わるわよ♪」
(……相手の動き、癖……そういえば! 三つの首、同時に動く際、上手く連携が取れていない!)
よく見ると、噛みつきと炎と爪のタイミングが、微妙にズレていることに気付く。
真ん中の首の炎が収まる瞬間、桃花は姿勢を低くし、ケルベロスの下へと素早く滑り込む。
「ここ!」
左足の腱を狙った拳が、確かな手応えを伴って突き刺さる。
「あらっ!?」
その攻撃で巨体がよろめき、体勢が崩れた。
その隙に飛び上がり、左の首の鼻先に狙いを定め——
重力と体重を乗せた右拳を真下に振り落とし、思い切り殴った。
「おりゃぁぁっ!」
おばあさん直伝の打撃技「落陽」が完璧に決まる。
殴られた衝撃を受けて、左の首のケルベロスが堪らず、くしゃみをした。
「ぶべちっ!」
そのくしゃみの勢いで出てきた炎が、ブワッと自分の体毛へと燃え移る。
よく燃える毛と、炎の威力も相まって、瞬く間に自分の体へと燃え広がっていく。
この相性は最悪だ。
「いやあぁぁーーん!! アタシ、燃えてるわぁぁ!!」
「消防よ!! 誰か早くイケメン消防隊呼んできてぇぇん!!」
「あっはぁぁーーん!! 香ばしく焼けちゃうぅぅ!!」
三つの首がバラバラにやかましく叫び散らす。
地面に転げ回り、身体を叩きつけたり擦り付けたりして、なんとか炎を打ち消した。
そしてケルベロスは、ゼーハーと息を切らしながら、やがて動きを止めた。
「お、お見事よ。恐れ入ったわ……」
「アンタ、見た目によらず、結構やるじゃない」
「降参ですわ〜」
三つの首が一斉にぺこりと土下座。
「……」
桃花は、しばし呆然と立ち尽くす。
「……いや、私の一撃がきっかけとはいえ、これって自爆では?……まぁ、いいか、私が勝ったという事は変わりはない……よね」
少々呆れつつも、結果的に勝利したことにホッと胸をなで下ろした。
この勝利は、相手の「癖」を見抜いた観察力が決め手となった。
勝てたのは、おじいさんとおばあさんの教えがあったおかげだ。
その教えがなかったら、それを思い出せなかったら……おそらくここで負けていただろう。
桃花は心の中で「ありがとう」と二人に深く感謝した。
そして、その教えの通りに動けている自分に、小さな自信が芽生えたのを感じていた。
「……よし、これでようやく中に入れる」
鬼の営業所のドアノブに手をかけて回し、カチャッとドアを開ける桃花。
だがその背後で、ケルベロスの真ん中の首が小さく呟いた。
「……次のお相手は、こうは、いかないわよ〜♪」
その言葉に背筋を震わせながら、鬼の営業所の中へと足を踏み入れていく。




