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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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第98話「守った後の痛み、無能王子は“名前のある日常”に触れる」


 戦いが終わった後の学園は、奇妙な静けさに包まれていた。


 ほんの少し前まで、空は赤く染まっていた。


 封鎖結界が学園を覆い、赤眼の処理班が空を飛び、グラン=ゼグスという怪物が前庭へ落ちてきた。


 黒蒼雷が空を裂き。


 赤い術式が砕け。


 そして、最後に青空が戻った。


 だが、戻ったのは空だけだ。


 学園そのものには、戦いの爪痕が深く刻まれていた。


 正門前の石畳は抉れ、前庭の木々は半分ほど折れている。


 校舎の外壁には亀裂が入り、医務棟の窓もいくつか割れていた。


 結界に守られたとはいえ、被害がなかったわけではない。


 教師たちは慌ただしく走り回り、生徒たちは避難区域から少しずつ戻されていた。


 けれど、誰も大声で騒がない。


 皆、まだ理解しきれていなかった。


 自分たちが、何に巻き込まれていたのか。


 何に守られていたのか。


 そして。


 あの空で雷を振るった少年が、今どんな状態なのかを。


 ◇


 医務棟。


 特別処置室。


「……動かないでください」


「動いてない」


「今、指が動きました」


「指はいいだろ」


「駄目です」


 リリアーナの声は、かなり本気だった。


 レオンは処置台に座らされていた。


 右腕は肘から先まで白い包帯に覆われている。


 包帯の下には治癒術式布。


 さらに侵食除去用の封印陣。


 かなり大掛かりな処置だった。


 それでも、痛みは消えていない。


 黒蒼雷を無理に使い続けた反動。


 赤眼の自壊術式へ触れた痕。


 神霊侵食核を直接破壊した負荷。


 その全てが、右腕へ集中していた。


 医務教師は、顔を青くしながらこう言った。


 “普通なら、腕が残っているだけで奇跡です”。


 その一言で、リリアーナは半泣きになった。


 エリシアは静かに怒った。


 アルベルトは「お前ほんと馬鹿か」と叫んだ。


 ミーアは無言で一時間ほどレオンの横に立っていた。


 それが一番怖かった。


「レイさん」


「何だ」


「本当に分かってますか?」


「何を」


「自分がどれだけ危ないことをしたかです」


「分かってる」


「本当に?」


「たぶん」


「たぶんは禁止です」


 リリアーナはすぐに言う。


 レオンは少しだけ目を逸らした。


「……分かってる」


「なら、しばらく安静です」


「どれくらいだ」


「医務教師の先生は最低一週間と言ってました」


「長いな」


「短いです!」


 即答だった。


 リリアーナは椅子に座り、両手を膝の上で握っている。


 目元は少し赤い。


 たぶん、泣いたのだろう。


 レオンが意識を失っている間に。


「……泣いたのか」


 レオンが聞く。


 リリアーナは一瞬固まった。


 それから顔を赤くする。


「泣いてません」


「目が赤い」


「寝不足です」


「そうか」


「そうです」


 沈黙。


 レオンはしばらくリリアーナを見ていた。


 その視線に耐えきれなくなったのか、リリアーナが先に口を開く。


「……泣きました」


「そうか」


「だって」


 声が少し震える。


「落ちてきた時、レイさん、全然動かなかったんです」


「呼んでも返事しなくて」


「右腕も酷くて」


「また……」


 言葉が止まる。


 “またいなくなると思った”。


 たぶん、そう言いたかったのだろう。


 だが、リリアーナは最後まで言えなかった。


 レオンは少し黙る。


 どう返せばいいのか分からない。


 謝るべきなのは分かる。


 でも謝るだけでは足りない気がする。


「……悪かった」


 それでも、言った。


 リリアーナの目が少し見開かれる。


「最近、ちゃんと謝るようになりましたね」


「そうか」


「はい」


「変か」


「いい変化です」


 リリアーナは小さく笑った。


 泣きそうなのに、嬉しそうでもあった。


 その顔を見ると、レオンは少し落ち着かなくなる。


「……何だ」


「何も言ってません」


「顔がうるさい」


「顔がうるさいって何ですか」


 リリアーナが少し怒ったように言う。


 その瞬間。


 扉が開いた。


「お邪魔でしたかしら?」


 エリシアだった。


 口元にはいつもの微笑み。


 だが目が笑っていない。


 リリアーナが慌てて立ち上がる。


「お、お邪魔とかでは……!」


「そうですか」


 エリシアはにこりと笑う。


「では、わたくしも遠慮なく入りますわね」


 その後ろから、アルベルトも顔を出した。


「おー、生きてるか」


「さっきも聞かれた」


「何回でも聞くわ。お前すぐ死にかけるし」


「死んでない」


「死にかけてんだよ!」


 アルベルトは雑に椅子へ腰を下ろした。


 その手には果物籠がある。


「見舞いだ」


「お前が?」


「なんだその反応」


「意外だ」


「俺だって見舞いくらいするわ!」


 アルベルトは籠を机へ置く。


 中には林檎や葡萄、焼き菓子まで入っていた。


 リリアーナが少し驚く。


「殿下が選んだんですか?」


「おう」


 アルベルトは胸を張る。


「食堂の人に“病人にいいやつくれ”って言った」


 エリシアが微笑む。


「つまり丸投げですわね」


「頼ったと言え!」


「言い方を変えただけですわ」


「お前ほんと容赦ねぇな!」


 その掛け合いに、リリアーナが笑う。


 レオンは果物籠を見て、小さく言う。


「……ありがとな」


 アルベルトが固まった。


「は?」


「何だ」


「いや、お前が普通に礼言うと怖ぇんだけど」


「言ったら駄目なのか」


「駄目じゃねぇけど!」


 エリシアが口元を押さえる。


「本当に、少しずつ素直になっていますわね」


「そうか?」


「ええ」


 リリアーナも頷く。


「はい」


「……」


 レオンは何も言わなかった。


 否定しても、たぶん無駄だ。


 最近、それを覚え始めている。


 その時、エリシアの表情が少しだけ変わった。


 いつもの余裕が、ほんの僅かに揺れる。


 レオンはそれに気づいた。


「何かあったのか」


 エリシアは一瞬黙る。


 それから、静かに笑った。


「鋭いですわね」


「顔が違う」


「リリアーナ様の時もそう言っていましたわね」


「顔は情報が多い」


「その理屈は少し変ですわ」


 エリシアは椅子へ座る。


 しばらく指先を見つめてから、静かに言った。


「父へ、連絡を入れました」


 空気が少し重くなる。


 エリシア家。


 赤眼との関与を示唆された家。


 まだ真偽は不明だが、彼女にとっては大きな傷だ。


 アルベルトも黙った。


 リリアーナも心配そうに見る。


 エリシアは続ける。


「返事はまだありません」


「ですが、分かります」


 一拍。


「沈黙している時点で、何かあるのでしょう」


「……」


 レオンは黙って聞く。


 エリシアは目を伏せた。


「わたくし、自分の家を誇っていました」


「厳しい家でしたけれど、それでも王国を支える貴族としての矜持はあると思っていました」


「でも」


 声が少しだけ震える。


「もし本当に、赤眼と繋がっていたのなら」


「わたくしは……」


「お前は関係ない」


 レオンが即座に言った。


 エリシアが目を見開く。


「……まだ、最後まで言っていませんわ」


「分かる」


「分かるのですか?」


「俺も王家だ」


 その一言で、エリシアは黙った。


 王城が赤眼に関わっている。


 なら、レオンにも無関係ではない。


 王族として。


 捨てられた側として。


 そして、それでも王家の血を引く者として。


 彼もまた、背負うものがある。


「家が何をしたかと」


 レオンは静かに言う。


「お前が何をするかは別だ」


 一拍。


「地下で、お前は助ける側だった」


 エリシアの瞳が揺れる。


 その言葉は短い。


 けれど、真っ直ぐだった。


 飾りも慰めも少ない。


 でも、だからこそ届く。


「……本当に」


 エリシアは小さく笑った。


 少しだけ泣きそうな顔で。


「そういうところ、ずるいですわ」


「何がだ」


「分からなくて結構です」


 リリアーナが少しだけ複雑そうな顔をする。


 アルベルトはそれを見て、にやにやしそうになったが、エリシアに睨まれて黙った。


 その時。


 扉が小さくノックされた。


「……入っても、いい?」


 ルミアの声だった。


 リリアーナがすぐ立ち上がる。


「もちろんです」


 扉が開く。


 ルミア。


 ユノ。


 アレン。


 三人が入ってきた。


 まだ医務服のままだ。


 顔色も完全には戻っていない。


 だが、昨日よりは少し落ち着いている。


 特にアレンは、まだ立つのもつらそうだった。


 ユノが彼を支えている。


「無理するな」


 レオンが言う。


 アレンは苦笑する。


「それ、レオンが言うの……?」


 部屋の空気が一瞬止まった。


 アルベルトが吹き出す。


「ははっ!」


「いいぞアレン!」


「もっと言え!」


 レオンは黙る。


 リリアーナがこくこく頷いた。


「本当にそうです」


 エリシアまで笑う。


「満場一致ですわね」


「……」


 レオンは少しだけ不満そうだった。


 ルミアはそのやり取りを見て、少しだけ笑った。


 以前より、笑い方が自然になっている。


 まだ痛みはある。


 怖さもある。


 でも、笑えた。


「……あの」


 ルミアが両手を前で握る。


「レオンに、言いたくて」


「何だ」


「ありがとう」


 静かな声。


「アレンを助けてくれて」


「ユノも」


「わたしたちも」


「名前を呼んでくれて」


 ルミアの目に涙が滲む。


 けれど、今度は崩れない。


「地下では、名前を呼ぶと怒られた」


「番号で呼ばれた」


「名前なんて意味ないって言われた」


「でも、レオンが呼んでくれたから」


 一拍。


「わたし、まだルミアでいいんだって思えた」


 部屋の空気が静かになる。


 レオンは数秒黙った。


 こういう時、やっぱり何を返すべきか分からない。


 でも、今なら少しだけ分かる。


「……ルミアはルミアだ」


 短い言葉。


 ルミアの瞳が揺れる。


「ユノはユノ」


「アレンはアレン」


 一拍。


「それでいい」


 ルミアは泣いた。


 声を殺して。


 ユノが姉の服を掴む。


 アレンも目を伏せる。


 リリアーナは、そっとルミアの肩に手を置いた。


 エリシアも静かに目を伏せる。


 アルベルトは天井を見上げていた。


「……ほんと」


 小さく呟く。


「王城、何やってんだろうな」


 その言葉に、誰もすぐ答えなかった。


 王城。


 赤眼。


 宰相府。


 地下施設。


 終わったのは、学園襲撃だけ。


 本当の闇は、まだ残っている。


 その時。


 医務室の外が少し騒がしくなった。


 ミーアが扉を開ける。


「レオン様」


 表情が硬い。


「王城から使者が来ています」


 空気が一気に変わる。


 アルベルトが立ち上がる。


「またかよ……!」


「今度は騎士団ではありません」


 ミーアは静かに言う。


「正式文書を持った王宮使節団です」


 エリシアが目を細める。


「政治的圧力に切り替えてきましたわね」


 クラウスの声が廊下から聞こえた。


「俺が対応する」


 彼も来ていたのか。


 包帯を巻いた腕で、扉の外に立っている。


「だが、レオン」


 クラウスは中へ目を向けた。


「お前にも関係がある」


「何だ」


「王城側は、今回の件について」


 一拍。


「“第一王子レオンハルトによる危険暴走事件”として処理するつもりだ」


 リリアーナの顔色が変わる。


「そんな……!」


 アルベルトが拳を握る。


「ふざけんな!!」


 エリシアも冷たい表情になる。


「想定通りですわね」


 レオンは静かだった。


 驚いていない。


 むしろ、予想していたような顔。


「……そうか」


 短く言う。


 クラウスが続ける。


「そして」


「王城は、お前の身柄を正式に要求している」


 空気が凍る。


 レオンは黙る。


 リリアーナが一歩前に出た。


「渡しません」


 即答だった。


 彼女自身も驚くほど、強い声だった。


「絶対に」


 エリシアも静かに立つ。


「同意ですわ」


 アルベルトが炎剣の柄に手をかける。


「俺もだ」


 ルミアが震えながらも顔を上げる。


「……わたしも」


 ユノも頷く。


「レオンは、行っちゃ駄目」


 アレンが掠れた声で言う。


「助けてくれた人を、また取られたくない」


 レオンは、その全員を見る。


 少し前なら。


 こんな風に言われることなどなかった。


 自分を渡さないと言う人間など、誰もいなかった。


 でも今は。


 こんなにもいる。


 守ったはずなのに。


 今、自分が守られている。


 その事実が、胸に重く、温かく落ちた。


「……分かった」


 レオンは静かに言う。


「行かない」


 リリアーナの目が見開かれる。


「本当ですか?」


「ああ」


「勝手に一人で行ったりしませんか?」


「しない」


「本当に?」


「本当だ」


 リリアーナは、少しだけ泣きそうに笑った。


「よかった……」


 レオンは窓の外を見る。


 青空。


 戦いは終わった。


 でも。


 王城は止まらない。


 なら。


 今度は、こちらが選ぶ番だ。


 逃げるのではなく。


 隠れるのでもなく。


 名前を奪わせないために。


 居場所を守るために。


 レオンは静かに呟いた。


「……次は」


 一拍。


「こっちから行く」


 その声に、部屋の空気が変わった。


 戦後の余韻は、まだ終わらない。


 だが。


 物語はもう、次の王城政治戦へ動き始めていた。

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