第80話「地下第三隔離層、無能王子は泣き叫ぶ命を置き去りにしない」
地下第三隔離層。
そこは、牢獄ですらなかった。
牢獄なら、まだ“閉じ込めるための場所”と言える。
だが、ここは違う。
壁に刻まれた赤い術式。
床に染みついた黒い血痕。
割れた魔導具。
腐った鎖。
そして、天井から吊るされた無数の管。
命を繋ぐためではない。
命を測るため。
命を削るため。
命を“器”として扱うための場所だった。
その部屋の隅で、小さな少年が震えていた。
銀髪。
痩せた頬。
細い腕。
首には黒い術式具。
身体中に、赤い痣のような刻印。
目は怯えきっている。
逃げようとしているのに、足が動いていない。
逃げる力さえ、もう残っていないのだ。
「……ルミ、姉?」
少年の声が震えた。
それを聞いた瞬間、ルミアの顔が崩れた。
「ユノ……」
彼女は一歩、前へ出ようとした。
だが、すぐに膝が崩れかける。
レオンが支えた。
「無理するな」
「でも……!」
「分かってる」
短い声。
だが、その声は冷たくない。
ルミアはレオンの腕を掴みながら、必死に前を見た。
「ユノ……ユノ、ごめん……!」
「ごめんね……お姉ちゃん、助けられなくて……」
ユノの目から、ぽろぽろと涙が落ちた。
「ルミ姉……」
「ほんとに……?」
「ほんとに、ルミ姉なの……?」
ルミアは涙を流しながら頷く。
「うん……!」
「ごめんね、ユノ……ごめんね……!」
その言葉を聞いた瞬間。
ユノは、声にならない声を漏らした。
泣きたいのに、泣き方を忘れていたみたいだった。
笑いたいのに、顔がうまく動かないみたいだった。
その様子を見て、リリアーナは口元を押さえた。
胸が痛い。
苦しい。
こんな小さな子が、どれだけ長くここにいたのか。
どれだけ泣いて、どれだけ誰かを呼んで、それでも誰も来なかったのか。
想像しただけで、息が詰まる。
「……酷い」
小さく呟く。
エリシアも顔色を失っていた。
彼女は貴族社会の汚さを知っている。
王城の裏も、噂程度には知っていた。
だが、これは違う。
これは政治ではない。
権力争いでもない。
ただの悪意。
人間を人間として扱わない場所。
「王城は……ここまで……」
エリシアの声が震える。
怒りで。
恐怖で。
そして、自分がその王都貴族社会の中にいたという事実への嫌悪で。
アルベルトは何も言えなかった。
顔が青い。
剣を握る手が震えている。
彼は王子だ。
王城で育った。
王族として、王国の中心にいた。
なのに知らなかった。
いや、知らされていなかった。
その言い訳が、今はあまりにも惨めだった。
「……なんだよ、これ」
掠れた声。
「これが、王城のやってることなのかよ……」
ルカは黙っていた。
壁にもたれ、片手で胸元を押さえている。
砕かれた赤眼の刻印。
その跡がまだ痛むのだろう。
だが、それ以上に彼の顔を歪めているのは、別の痛みだった。
「……第三隔離層」
ルカが低く言う。
「適合前の被験者を保存する場所だ」
アルベルトが振り返る。
「保存?」
「そう呼んでいた」
「ふざけんな!」
アルベルトが叫んだ。
その声に、ユノの身体がびくっと震える。
リリアーナがすぐアルベルトを見る。
「殿下!」
「っ……悪い」
アルベルトは歯を食いしばる。
怒鳴る相手を間違えた。
それくらい分かっている。
だが、抑えられなかった。
「保存ってなんだよ……」
彼は低く続ける。
「人間だろ」
「子供だろ」
「なんでそんな言い方できるんだよ……!」
ルカは目を伏せる。
「できるようにされた」
その一言で、場が静まった。
「最初は、できなかった」
ルカの声は淡々としていた。
だが、その奥に沈んだものがあった。
「泣く子供を見れば吐いた」
「助けを求められれば眠れなくなった」
「名前を呼ばれれば、耳に残った」
一拍。
「だから、名前を奪われた」
リリアーナが息を呑む。
「自分の名も、他人の名も、必要ないと教えられた」
「番号で呼べ」
「器と呼べ」
「実験体と呼べ」
「そうすれば、人間に見えなくなる」
ルカは自嘲するように笑った。
「実際、楽になった」
その笑いが、あまりにも痛々しかった。
「楽になったんじゃない」
レオンが短く言う。
全員が見る。
レオンはユノを見ていた。
だが、言葉はルカへ向いていた。
「壊れただけだ」
ルカは黙った。
反論しなかった。
できなかった。
「……そうだな」
小さく呟く。
「壊れていた」
ユノが震える声で言う。
「……ルカ?」
その名を聞いた瞬間、ルカの肩が揺れた。
ユノは怯えながらも、彼を見ている。
「あなた……名前、あったの……?」
ルカは目を伏せる。
「……ああ」
「じゃあ、呼んでもいいの……?」
ルカはすぐには答えられなかった。
胸元の砕けた刻印へ触れる。
名前を呼ばれる。
そんな当たり前のことが、今の彼には重すぎる。
「……好きにしろ」
ようやく、それだけ言った。
ユノは小さく頷く。
「ルカ……」
その声に、ルカは目を閉じた。
まるで痛みに耐えるように。
けれど、不思議と逃げなかった。
その時、地下全体が大きく揺れた。
ゴゴゴゴゴゴッ――!!
天井から砂が落ちる。
壁の術式が明滅する。
崩落が近い。
ミーアの声が通信具から飛び込んできた。
『レオン様! 第三隔離層の上層構造が崩れ始めています! 猶予は長くありません!』
「分かった」
『脱出経路は確保しています。ただし、人数が増えると影道が不安定になります』
「何人までだ」
『安全圏は八名です』
全員が一瞬、沈黙する。
現在ここにいるのは、レオン、リリアーナ、エリシア、アルベルト、ルミア、ユノ、ルカ。
それにノワールとヴァルガ。
人数だけなら足りる。
だが。
ユノの背後。
隔離房の奥。
そこには、さらに小さな影があった。
ひとつではない。
二つ。
三つ。
壊れた寝台の下。
鉄箱の影。
崩れた壁際。
まだ子供たちがいた。
リリアーナの顔が青ざめる。
「まだ……!」
ユノが震えながら言った。
「みんな、隠れてる……」
「怖くて、出てこない……」
その言葉に、全員の空気が変わった。
エリシアがすぐ前へ出る。
「何人ですの?」
ユノは怯えながら指を折る。
「……ミナ」
「テオ」
「サーシャ」
「あと、ニル……」
「四人」
アルベルトが低く唸る。
「合計、十一か……」
ミーアの声が硬くなる。
『影道一回では無理です』
「二回に分ける」
レオンが即答する。
『崩落が持ちません』
「持たせる」
『レオン様』
「持たせる」
同じ言葉。
だが今度は、命令に近かった。
ミーアは一瞬沈黙する。
そして、短く答えた。
『……承知しました』
リリアーナが前へ出る。
「わたしが結界を張ります」
「駄目だ」
レオンが即座に言う。
リリアーナはきっと睨み返した。
「駄目じゃありません」
「限界だろ」
「レイさんも限界です」
「俺は――」
「問題ない、は禁止です!」
強い声だった。
レオンが止まる。
リリアーナは震えながらも、一歩も引かない。
「わたしも、ちゃんとやります」
「守られるだけじゃ嫌です」
「置いていかれるのも嫌です」
「誰かを置いていくのは、もっと嫌です」
その言葉に、ユノが小さく顔を上げる。
隠れている子供たちも、息を呑んだように見えた。
エリシアが静かに笑う。
「わたくしも支えますわ」
「この状況で格好つける余裕はありませんけれど」
「それでも、貴族令嬢として」
一拍。
「このような場所で子供を見捨てる趣味はありません」
アルベルトが乱暴に頭をかく。
「あーもう!」
「分かったよ、やるよ!」
「王子だろうがなんだろうが、こんなん見せられて逃げられるか!」
ルカが呆れたように言う。
「お前たちは揃いも揃って馬鹿なのか」
アルベルトが睨む。
「お前にだけは言われたくねぇ!」
「馬鹿は否定しないんだな」
「うるせぇ!」
だが、そのやり取りにユノがほんの少しだけ笑った。
本当に小さな笑い。
すぐに消えてしまうくらい弱い笑い。
でも確かに、笑った。
ルミアが涙を浮かべながらユノを見る。
「……ユノ」
「ルミ姉……」
「もう、大丈夫」
ルミアの声はまだ弱い。
でも、そこには姉としての温かさがあった。
「この人たち、変だけど……助けてくれるから」
「変だけど」は余計だった。
アルベルトが即座に反応する。
「おい、今変って言ったか!?」
ルミアがびくっとする。
だが、リリアーナが小さく笑う。
「たぶん、みんな少し変です」
「リリアーナまで!?」
エリシアが扇子を持っていない手で口元を隠す。
「否定しきれませんわね」
レオンだけが、真顔で言った。
「時間がない」
「空気読めよ!」
「今読む空気か?」
「そうだけど!」
その瞬間、再び地下が揺れた。
冗談を言っている場合ではない。
カティアの通信が入る。
『代表、聞こえていますか!』
「聞こえてる」
『上層側からも崩落が始まっています。こちらで一部を支えていますが、長くは無理です』
「子供が増えた」
『……何人ですか』
「四人追加」
通信の向こうで、カティアが息を呑む音がした。
『……分かりました』
「驚かないのか」
『驚いています』
「そうか」
『ですが、代表が置いていかないことも分かっています』
レオンは少し黙った。
カティアは続ける。
『こちらで外側の受け入れを整えます。ミーアさん、影道出口を私たちの位置へ』
『承知しました』
ミーアの声。
『ただし、一回目で子供たちを出します。二回目で戦闘班が脱出してください』
「俺が最後だ」
レオンが即答する。
リリアーナが即座に叫ぶ。
「駄目です!」
「駄目ではない」
「駄目です!」
「理由は」
「レイさんが最後に残ると絶対無茶するからです!」
全員が黙った。
アルベルトが頷く。
「それはそう」
エリシアも頷く。
「否定不能ですわ」
ミーアまで通信越しに言った。
『同意します』
「お前ら」
レオンが少し不満そうな顔をする。
ルカが小さく笑った。
「信用がないな」
「お前は黙れ」
「助けられた身で悪いが、実際ない」
「……」
レオンは完全に黙った。
リリアーナはそれでも真剣だった。
「お願いします」
「勝手に一人で残らないでください」
「戻るって言いましたよね」
レオンは彼女を見る。
真っ直ぐな目。
泣きそうなのに、逃げていない。
この目に弱い。
最近、そう思うことが増えた。
「……分かった」
短く答える。
リリアーナの肩から、少しだけ力が抜けた。
「本当ですか?」
「嘘は言わない」
「じゃあ信じます」
エリシアが小さく笑う。
「リリアーナ様、随分強くなりましたわね」
「え、あ……そうでしょうか」
「ええ」
エリシアは優しく言う。
「とても」
その言葉に、リリアーナは少し照れた。
だが、すぐに表情を引き締める。
目の前にはまだ子供たちがいる。
助けなければならない。
レオンは隔離房の奥を見る。
「出てこい」
声は短い。
だが強すぎたのか、子供たちは逆にびくっと震えた。
リリアーナが慌てて前へ出る。
「レイさん、怖いです」
「そうか」
「そうです」
彼女は子供たちへ膝をつく。
「大丈夫です」
優しい声。
「わたしたちは、助けに来ました」
子供たちはまだ動かない。
当然だ。
ずっと恐怖の中にいた。
大人の言葉なんて信じられない。
助けに来たという言葉も、何度も裏切られたのかもしれない。
リリアーナは焦らない。
「怖いですよね」
「信じられないですよね」
「でも」
彼女は自分の胸に手を当てる。
「ここにいるルミアさんも、ユノ君も、一緒に外へ行きます」
「だから、皆さんも一緒に行きましょう」
しばらく沈黙。
やがて、壊れた寝台の下から小さな少女が顔を出した。
「……ほんと?」
「本当です」
「外……あるの?」
その問いに、リリアーナは胸が痛くなる。
外があるのか。
この子は、それすら疑うほど閉じ込められていた。
「あります」
リリアーナは涙を堪えて笑った。
「空があります」
「風があります」
「温かいご飯もあります」
アルベルトが横から言う。
「学園の食堂はわりとうまいぞ」
エリシアがすぐ補足する。
「殿下の言い方は雑ですが、本当に美味しいですわ」
「雑って言うな」
ユノが小さく言う。
「……ごはん」
その声があまりにも小さくて、全員の胸を抉った。
レオンは目を伏せる。
そして短く言う。
「食わせる」
ユノが見る。
「……ほんと?」
「ああ」
「いっぱい?」
「好きなだけ」
アルベルトが慌てる。
「おい、食堂の予算!」
「俺が払う」
「お前金あんのか!?」
レオンが黙る。
エリシアが微笑んだ。
「その場合は、わたくしが手配しますわ」
「いや、俺も出す!」
アルベルトが言う。
「王子だからな!」
「急に王子らしくなりましたわね」
「うるせぇ!」
そのやり取りに、子供たちの警戒が少し緩んだ。
ひとり。
またひとり。
奥から出てくる。
痩せた子。
足を引きずる子。
目に包帯を巻いた子。
ユノを含め、全部で五人。
ルミアがそれぞれの名前を呼ぶ。
「ミナ」
「テオ」
「サーシャ」
「ニル」
「ユノ」
そのたびに、子供たちの目が揺れる。
名前を呼ばれる。
たったそれだけで、泣き出す子もいた。
レオンはその光景を黙って見ていた。
名前。
存在。
人として扱われること。
王城が奪ったものを、今ここで少しずつ取り戻している。
その時、ノワールが静かに言った。
『主』
「何だ」
『影道、開く』
「頼む」
『でも一回目は子供たちだけ』
「分かってる」
ノワールの影が床へ広がる。
黒い水面のような影路。
その向こうに、微かに外の光が見える。
ミーアの声が響く。
『出口確保。こちらに医療班、カティア先生、警備教師が待機しています』
「行け」
レオンが子供たちへ言う。
だが、子供たちは戸惑っている。
ユノはルミアの服を掴む。
「ルミ姉は……?」
ルミアは困ったように笑う。
「すぐ行くから」
「いや……」
ユノが首を振る。
「また離れるの、いや……」
ルミアの顔が歪む。
その気持ちは分かる。
痛いほど分かる。
レオンは短く言った。
「一緒に行け」
ルミアが驚いて見る。
「でも……」
「子供を安心させろ」
ルミアは目を見開いた。
そして、ゆっくり頷く。
「……うん」
彼女はユノの手を握る。
「一緒に行こう」
ユノが涙を浮かべて頷く。
リリアーナも子供たちを誘導する。
「大丈夫です」
「一人ずつ、ゆっくり」
エリシアが術式札で影道の縁を補強する。
「ノワール様、入口が少し揺れていますわ」
『ん、ありがと』
「神霊にお礼を言われるのは不思議ですわね」
『人間に助けられるのも不思議』
エリシアが少し笑う。
「お互い様ですわね」
アルベルトは最後尾で崩れてくる瓦礫を炎剣で砕く。
「早くしろよ!」
「この通路、あと何分持つか分かんねぇぞ!」
ルカも片手で壁を支えながら、苦しそうに声を出す。
「急げ……ここは、隔離層だ」
「崩落すると閉じ込められる」
子供たちが影道へ入っていく。
ひとり。
またひとり。
ミナ。
テオ。
サーシャ。
ニル。
ユノ。
ルミア。
最後にリリアーナが行こうとしたところで、レオンが言う。
「お前も先に行け」
リリアーナは振り返った。
「嫌です」
「またか」
「またです」
「危険だ」
「だからです」
まっすぐな目。
レオンは少しだけ眉を寄せる。
言い返そうとした。
だが、その前に地下が大きく揺れた。
天井が崩れる。
巨大な岩塊。
リリアーナの真上。
「っ――!」
レオンが踏み込もうとする。
だが、リリアーナの方が先だった。
「結界!」
銀色の結界が展開される。
岩塊を受け止める。
重い。
腕が震える。
足が沈む。
「リリアーナ!」
エリシアが叫ぶ。
「大、丈夫……!」
彼女は歯を食いしばる。
今までなら、ただ守られるだけだった。
でも今は違う。
自分も守る。
レオンが助ける命を、自分も支える。
「レイさん!」
リリアーナが叫ぶ。
「今のうちに、次の影道を!」
レオンの目が一瞬だけ揺れる。
彼女に支えられている。
守られている。
その事実が、胸を打つ。
「……分かった」
短く答える。
ノワールが影を再形成する。
『二回目、行ける』
ミーアの声。
『出口、維持しています! 急いでください!』
エリシアがリリアーナの結界へ術式補強を重ねる。
「よく踏ん張りましたわ」
「ま、まだです……!」
「ええ、まだです」
エリシアは優しく、でも力強く言う。
「だから、一緒に帰りますわよ」
リリアーナが頷く。
「はい!」
アルベルトがルカを肩へ担ぎ直す。
「行くぞ、元監察官!」
「……扱いが雑だな」
「命あるだけありがたく思え!」
「それはそうだ」
「素直に言われると困るな!」
レオンは最後に隔離房を見回した。
誰も残っていない。
空の寝台。
割れた器具。
赤い術式。
名前を奪われた場所。
「……終わりだ」
低く呟く。
ヴァルガが横で唸る。
『主』
「何だ」
『壊すか?』
レオンは少しだけ黙る。
そして。
「いや」
短く言う。
「証拠にする」
エリシアが少し目を見開く。
「……冷静ですわね」
「腹は立ってる」
「でしょうね」
「だから壊さない」
レオンは赤い術式壁を見る。
「王城に突きつける」
その声は静かだった。
だが、はっきりと怒りを含んでいた。
アルベルトも顔を上げる。
「……ああ」
王子として。
いや。
一人の人間として。
「これは、絶対に表へ出す」
ルカが苦笑した。
「王城が黙っていると思うか」
アルベルトは睨む。
「黙らせねぇよ」
ルカは数秒彼を見る。
そして、小さく笑った。
「少しは王子らしいな」
「うるせぇ!」
地下がさらに崩れる。
もう猶予はない。
全員が影道へ飛び込む。
最後にレオンが入ろうとした、その瞬間。
隔離房の奥。
赤い術式装置が、突然光った。
『緊急記録転送、開始』
機械音声。
エリシアの顔色が変わる。
「証拠を外へ送る気ですの!?」
ルカが叫ぶ。
「違う!」
「消去だ!」
「施設の記録を王城側で焼く!」
レオンの目が変わる。
「ノワール」
『影、届く』
「取れ」
『了解』
ノワールの影が伸びる。
赤い装置へ絡みつく。
だが装置は自壊を始めていた。
火花。
赤い光。
ノワールが舌打ちする。
『主、全部は無理』
「取れるだけ取れ」
『ん』
影が装置の中から、黒い記録結晶を引き抜いた。
同時に装置が爆発する。
轟音。
レオンが影道へ飛び込む。
背後で隔離房が崩れ落ちた。
◇
次の瞬間。
冷たい夜風が頬を打った。
王都東区画。
旧貴族倉庫街の外れ。
崩れた倉庫の裏手に作られた影道出口。
そこには、ミーアとカティア、医療班、警備教師たちが待っていた。
「出ました!」
医療班が叫ぶ。
子供たちはすでに毛布に包まれている。
ルミアはユノを抱きしめていた。
ユノは泣いていた。
声を上げて。
やっと泣けたみたいに。
リリアーナが影道から出た瞬間、膝をついた。
「リリアーナさん!」
カティアが駆け寄る。
「大丈夫です……!」
「大丈夫に見えません」
「でも……全員……」
彼女は子供たちを見た。
全員いる。
生きている。
それを確認した瞬間、リリアーナの目から涙が溢れた。
「よかった……」
エリシアもふらつきながら出てくる。
アルベルトはルカを担いだまま転がるように出てきた。
「重い!!」
「私は怪我人だぞ」
「怪我人が文句言うな!」
「言う権利はある」
「ねぇよ!」
最後にレオンが出てくる。
右腕は焼け、服は裂け、顔には血。
だが、手には黒い記録結晶を握っていた。
ミーアが駆け寄る。
「レオン様!」
「取った」
それだけ言って、記録結晶を差し出す。
ミーアは一瞬言葉を失う。
こんな状態で、まず証拠を渡す。
この人らしい。
でも、それ以上に。
「……まず治療です」
「後でいい」
「今です」
「記録が――」
「今です」
静かな声。
だが、絶対に譲らない声だった。
レオンは少しだけ黙る。
「……分かった」
リリアーナが顔を上げる。
エリシアも安堵の息を吐く。
アルベルトが呟く。
「今日、素直だな」
「うるさい」
「はいはい」
その時。
旧貴族倉庫街の地下から、巨大な崩落音が響いた。
地面が揺れる。
遠くの建物が沈む。
赤眼の地下施設が、完全に崩れ落ちた。
だが。
全員、生きている。
子供たちも。
ルミアも。
ルカも。
そして、証拠も。
カティアは黒い記録結晶を見つめ、静かに言った。
「これは……王城を揺らします」
エリシアが頷く。
「ええ」
「これが本物なら、もはや隠し切れませんわ」
アルベルトが拳を握る。
「隠させねぇ」
リリアーナはレオンを見た。
レオンは空を見上げていた。
夜。
曇った空。
だが、雲の隙間から少しだけ月が見えていた。
彼は小さく呟く。
「……帰るぞ」
その言葉に、リリアーナが優しく笑う。
「はい」
エリシアも微笑む。
「帰りましょう」
アルベルトが肩を回す。
「飯食って寝たい」
ルミアはユノを抱きしめたまま、震える声で聞いた。
「……帰る場所、あるの?」
レオンは彼女を見る。
そして短く言った。
「作る」
ルミアの瞳が揺れる。
「……作れるの?」
「ああ」
「どうやって?」
レオンは少しだけ考えた。
そして。
「知らない」
全員が一瞬黙った。
アルベルトが吹き出す。
「そこは格好つけろよ!」
「でも」
レオンは続ける。
「一人じゃない」
その言葉に、皆が静かになった。
ルミアの目から、涙が落ちる。
ユノが彼女の服を掴む。
リリアーナが微笑む。
エリシアが静かに目を細める。
ミーアが小さく頭を下げる。
アルベルトが照れくさそうに顔を逸らす。
カティアが深く息を吐く。
赤眼の地下は崩れた。
王城の闇は、まだ終わらない。
けれど。
今日。
無能王子は、また一つ命を連れて帰った。
名前を奪われた子供たちと。
壊れかけた少女と。
名前を取り戻した男と。
そして。
王城を揺るがす証拠を抱えて。
学園へ。
帰る場所へ。
戻っていく。




