第78話「崩れゆく赤眼、無能王子は“名前”を抱いて闇を駆け抜ける」
赤い光が、地下深層を満たしていく。
ゼルヴァの胸元。
赤眼の刻印。
そこから亀裂のような光が走り、血管のように全身へ広がっていた。
自爆術式。
監察官すら逃がさない処理機構。
失敗した者を、証拠ごと消すための王城の鎖。
「……行けると思うか」
ゼルヴァは血を吐きながら笑っていた。
笑っているのに、目だけは妙に静かだった。
「赤眼は、失敗を許さない」
「監察官も例外ではない」
レオンはルミアを抱えたまま、足を止めた。
周囲では天井が崩れ始めている。
巨石が落ち、石柱が折れ、赤い灯火がひとつずつ砕けていく。
地下深層そのものが終わろうとしていた。
『主!』
ヴァルガの声が鋭く響く。
『止まるな! この爆発、まともに食らったら地下ごと消し飛ぶぞ!』
「分かってる」
『なら走れ!』
ノワールの影が足元に広がる。
『主、今なら影路を繋げられる』
『でも急いで』
『爆発が来たら影ごと焼ける』
レオンはゼルヴァを見た。
血まみれの男。
壊れているのに、自分が壊れていることを知らなかった男。
人が壊れる瞬間を見てきた男。
名前を捨てたと言いながら、最後に“私の分も、いつか思い出せ”と言った男。
「……ゼルヴァ」
レオンが低く呼ぶ。
ゼルヴァの笑みが、わずかに止まった。
「何だ」
「お前の名前だ」
短い言葉。
その瞬間。
ゼルヴァの表情が、ほんの少しだけ歪んだ。
怒りではない。
笑いでもない。
何かを堪えるような顔だった。
「……やめろ」
「嫌だ」
「今さらだ」
「そうか」
レオンは一歩、ゼルヴァへ近づこうとした。
だが、抱えられたルミアが小さく声を上げる。
「……だめ」
掠れた声。
震えている。
それでも、必死だった。
「爆発……もう、すぐ……」
「分かってる」
「あなたも、死んじゃう……」
「死なない」
即答だった。
ルミアの瞳が揺れる。
レオンは彼女を抱え直し、ゼルヴァへ視線を戻す。
「助ける」
その言葉に、ゼルヴァは乾いた笑いを漏らした。
「無理だ」
「やってみる」
「やめろと言っている」
「聞かない」
「……本当に」
ゼルヴァは血に濡れた唇を歪めた。
「最悪だな、お前は」
赤い光がさらに強くなる。
自爆術式はもう止まらない。
ノワールが鋭く言う。
『主、刻印が命と直結してる』
「解除できるか」
『無理』
『今から触ったら主も巻き込まれる』
ヴァルガが唸る。
『壊せば爆発が早まる』
「なら」
レオンの目が細くなる。
「引き剥がす」
『だから無茶だって言ってんだよ!』
「今さらだ」
ゼルヴァが声を荒げた。
「来るな!」
その声は、初めて本気だった。
嘲笑でも挑発でもない。
拒絶。
恐怖。
いや。
巻き込みたくないという、壊れかけた人間の最後の感情だった。
「私を助ける必要などない!」
「私は赤眼だ!」
「人を壊し、見て、笑ってきた!」
「今さら救われる資格など――」
「うるさい」
レオンの声が低く落ちた。
ゼルヴァの言葉が止まる。
「資格なんて知らない」
一歩。
「助けるかどうかは」
もう一歩。
「俺が決める」
ゼルヴァの目が見開かれる。
レオンはルミアをノワールの影へ預けた。
「ノワール」
『分かってる』
『この子は守る』
黒い影がルミアを包む。
ルミアは震えながら、レオンの服を掴もうとした。
「ま、待って……」
「すぐ戻る」
「でも……!」
「待ってろ」
短い。
だけど、その声は揺れなかった。
ルミアの目に涙が浮かぶ。
彼女はゆっくり頷いた。
「……うん」
ヴァルガがレオンの横へ立つ。
黒雷が獣の姿を縁取っている。
『主』
「何だ」
『俺は反対だ』
「そうか」
『でも止めても行くんだろ』
「ああ」
『じゃあ十秒だ』
「十分だ」
『十分じゃねぇよ!』
ヴァルガが牙を剥く。
『十秒で戻らなかったら、尻尾掴んででも引きずる』
「好きにしろ」
『本気でやるからな』
レオンは答えず、ゼルヴァへ向かって走った。
地下が崩れる。
天井から岩塊が落ちる。
赤い光が膨れ上がる。
ゼルヴァの自爆術式は臨界に近づいていた。
「来るな!」
ゼルヴァが叫ぶ。
赤い術式刃を放つ。
だが、刃は不安定だった。
レオンは雷を纏い、最小限で避ける。
頬に傷。
肩に裂傷。
だが止まらない。
「何故だ!」
ゼルヴァの声が地下に響く。
「何故、私などに手を伸ばす!」
「知らない」
レオンは即答する。
「知らない!?」
「理由を探す時間がない」
その答えに、ゼルヴァは一瞬呆気に取られた。
そして。
笑った。
泣きそうな笑いだった。
「……本当に」
「お前は滅茶苦茶だ」
レオンはゼルヴァの前に到達する。
赤い刻印へ手を伸ばす。
その瞬間。
焼けるような痛みが腕を貫いた。
「っ……!」
赤眼の刻印が、レオンの手を侵食しようとする。
自爆術式が、触れた者まで巻き込もうとしている。
ヴァルガが咆哮する。
『主!!』
「問題ない」
『問題しかねぇ!』
レオンは黒雷を右腕へ集中させる。
赤い術式と黒雷がぶつかる。
ジュウ、と嫌な音。
皮膚が焼ける。
血が落ちる。
それでも手を離さない。
ゼルヴァは目を見開いたまま、動けない。
「やめろ……」
小さな声。
「もういい」
「私は、もう……」
「黙れ」
レオンは低く言った。
「名前を捨てた奴が」
一拍。
「最後に名前を残そうとするな」
ゼルヴァの表情が崩れた。
まるで胸の奥に、何かを突き刺されたような顔だった。
「……私は」
掠れた声。
「私は……」
その時。
赤い刻印の奥から、別の光が見えた。
小さい。
弱い。
けれど、確かにある。
青白い光。
レオンの目が細くなる。
「……ヴァルガ」
『見えてる』
ノワールの声も響く。
『主、それ本体じゃない』
『刻印の下』
『本当の名前の残滓』
ゼルヴァが震える。
「……やめろ」
「何を恐れている」
「黙れ」
「名前か」
「黙れ!」
ゼルヴァが叫ぶ。
その叫びには、怒りよりも恐怖が混じっていた。
忘れたはずのもの。
捨てたはずのもの。
壊されたはずのもの。
それを見られることが、怖い。
レオンは歯を食いしばりながら、赤い刻印へ黒雷を流し込む。
「思い出せ」
「嫌だ」
「思い出せ」
「やめろ!」
赤い刻印がさらに膨張する。
自爆が迫る。
ヴァルガが叫ぶ。
『主、あと三秒!』
レオンはゼルヴァの胸元を掴む。
黒雷が刻印の奥へ突き刺さる。
赤い光の中。
青白い残滓が震えた。
そして。
ゼルヴァの口から、小さな声が漏れた。
「……ル、カ」
名前。
それは、ほとんど呼吸みたいな音だった。
レオンは聞き逃さなかった。
「ルカ」
短く繰り返す。
その瞬間。
ゼルヴァの赤い刻印に、亀裂が走った。
自爆術式が一瞬乱れる。
ノワールが叫ぶ。
『今!』
ヴァルガが吠える。
『ぶっ飛べぇぇぇ!!』
黒雷が炸裂した。
破壊ではない。
赤眼の刻印だけを叩き割る雷。
ゼルヴァの胸元から赤い光が弾け飛ぶ。
同時に、爆発が起きた。
だが。
完全爆発ではない。
術式の核を砕かれ、力が散った爆発。
それでも地下深層を吹き飛ばすには十分だった。
「主!!」
ヴァルガの雷がレオンとゼルヴァを包む。
ノワールの影がルミアを抱え、影路へ飛び込む。
轟音。
赤い光。
崩壊。
全てが一瞬で白く染まった。
◇
リリアーナは、崩れかけた通路で結界を張っていた。
「っ……!」
腕が震える。
足元が崩れる。
頭上から石片が降る。
それでも結界を維持する。
隣ではエリシアが術式の流れを読み、崩落の方向をずらしていた。
「リリアーナ様、右上です!」
「はい!」
銀色の結界が広がる。
落ちてきた岩塊を受け止める。
だが重い。
リリアーナの膝が沈む。
「くっ……!」
「無理するな!」
アルベルトが炎剣で岩を砕く。
その顔にも疲労が濃い。
だが、誰も止まらない。
「レオンはまだかよ!」
アルベルトが叫ぶ。
焦りが滲んでいる。
エリシアは唇を噛んでいた。
「通信が途切れていますわ……」
「縁起でもねぇこと言うな!」
「言っていません!」
だが不安は同じだった。
リリアーナの胸が、冷たくなる。
レオンがいない。
声が聞こえない。
さっきまで繋がっていたのに。
「……大丈夫」
小さく呟く。
自分に言い聞かせる。
「レイさんは、戻ってくる」
でも声が震えている。
エリシアが横目で見た。
その気持ちは分かる。
彼女自身も怖い。
こんなに怖いと思うのは久しぶりだった。
「……戻りますわ」
エリシアが静かに言う。
「約束しましたもの」
アルベルトが炎剣を握る。
「当たり前だろ」
「あいつが死ぬわけねぇ」
「俺がまだ一回も殴ってねぇんだから」
「それは理由としてどうかと思いますわ」
「うるせぇ!」
その時。
通路の奥が黒く揺らいだ。
影。
ノワールの影路。
リリアーナが顔を上げる。
「レイさん!?」
最初に現れたのは、ノワールだった。
その影に包まれたルミアが、床へそっと降ろされる。
「……女の子?」
リリアーナが駆け寄る。
ルミアは意識を失いかけていた。
だが、息はある。
エリシアがすぐ状況を見抜く。
「この子が、器……?」
ノワールは頷く。
『主が助けた』
リリアーナの顔が青ざめる。
「レイさんは!?」
次の瞬間。
影路が激しく揺れた。
黒雷が弾ける。
そこから、レオンが飛び出した。
腕にゼルヴァを抱えて。
全身が血だらけだった。
「レイさん!!」
リリアーナが叫ぶ。
レオンは着地と同時に膝をつく。
ゼルヴァを床へ下ろす。
彼自身の右腕は、赤く焼け爛れていた。
包帯どころではない。
ひどい火傷。
血。
黒雷の残滓。
リリアーナの顔から血の気が引く。
「腕……!」
「問題ない」
「あります!!」
即答だった。
涙声だった。
レオンは少しだけ眉を寄せる。
「うるさいな」
「うるさくもなります!」
リリアーナは震える手で回復術式を展開しようとする。
だが、自分も限界に近い。
手がうまく動かない。
エリシアがすぐ横へ来る。
「わたくしも補助します」
「はい……!」
アルベルトはゼルヴァを見て固まった。
「おい」
「そいつ……敵だろ」
「ああ」
「なんで連れてきた」
レオンは短く答える。
「名前を思い出した」
「は?」
「だから連れてきた」
「意味分かんねぇよ!」
「後で話す」
その時、ゼルヴァが薄く目を開けた。
いや。
もうゼルヴァではないのかもしれない。
赤眼の刻印は砕けている。
胸元には、割れた赤い痕。
その下に、青白い光がわずかに残っている。
「……生きてる、のか」
掠れた声。
レオンが見る。
「ああ」
「……余計なことを」
「悪かったな」
「謝る気ないだろう」
「ない」
ゼルヴァはかすかに笑った。
それは、今までの歪んだ笑みではなかった。
少しだけ、人間らしい笑み。
「……ルカ」
小さく呟く。
誰に聞かせるでもなく。
「そう、だったな」
涙はなかった。
だが、その声には確かに何かが戻っていた。
リリアーナは息を呑む。
エリシアも目を細める。
アルベルトは複雑な顔をした。
敵だった男。
人を壊してきた男。
でも、今は壊されていた人間にも見える。
簡単に許せるわけではない。
でも、見捨てることもできなかった。
レオンは立ち上がる。
ふらついた。
「レイさん!」
リリアーナが支える。
その手が、レオンの服を掴む。
「無理しないでください!」
「してない」
「してます!」
「……してるかもしれない」
リリアーナが目を見開く。
エリシアも驚いた顔をする。
アルベルトが口を開けた。
「お前が認めた……」
「うるさい」
「いや今のは歴史的瞬間だろ」
「黙れ」
ほんの少しだけ、空気が緩む。
だがその直後。
地下全体が大きく揺れた。
ゴゴゴゴゴゴッ!!
天井が裂ける。
通路の奥から、崩壊の波が迫ってくる。
カティアの通信が入る。
『全員、脱出路へ! 地下構造が完全崩壊します!』
ミーアの声も重なる。
『こちらで上層への影道を確保しました! 急いでください!』
レオンはルミアを見る。
ゼルヴァ――いや、ルカを見る。
「全員連れていく」
アルベルトが顔をしかめる。
「敵もか」
「ああ」
「理由は?」
「後で聞く」
「……ったく」
アルベルトはゼルヴァを担ぎ上げた。
「重っ……!」
ゼルヴァが掠れた声で言う。
「……丁重に扱え、王子」
「敵に言われたくねぇ!」
「私はもう、敵かどうかも分からない」
「余計面倒だわ!」
エリシアがルミアを支え、リリアーナがレオンの横に立つ。
「行きましょう」
「ああ」
レオンは短く頷く。
崩壊が迫る。
赤眼の地下施設が、ついに終わろうとしていた。
だが。
ただ破壊して終わりではない。
名前を失った少女を救った。
名前を捨てた男を引き戻した。
そして。
王城の闇の証拠を、今まさに抱えている。
レオンは崩れる地下を見た。
かつての自分なら、この闇に呑まれていたかもしれない。
でも今は違う。
横には仲間がいる。
腕の中には救った命がある。
背後には、呼び戻した名前がある。
「……行くぞ」
短い一言。
全員が走り出した。
赤眼の地下は、轟音と共に崩れ落ちていく。
だがその闇の中から。
無能王子は、確かに命を連れて帰ろうとしていた。




