第76話「暴走する器、無能王子は“壊れた少女”を抱いて前へ進む」
赤黒い翼が広がった。
地下深層の空気が、悲鳴みたいに軋む。
轟音。
魔力暴走。
崩れかけた石壁へ亀裂が走る。
赤い灯火が激しく明滅し、地下空間全体が不安定に震えていた。
レオンは少女を抱えたまま立っている。
銀髪。
細い身体。
異常な熱。
そして。
少女の背中から伸びる、赤黒い翼。
それは羽ではなかった。
術式。
呪い。
無理やり神霊へ近づけようとして失敗した、歪な力の塊。
「……ぁ……」
少女が苦しそうに息を漏らす。
紫だった瞳は、半分ほど赤へ侵食されていた。
涙を流している。
なのに。
暴走は止まらない。
『主!』
ヴァルガが叫ぶ。
『そのまま抱えてると巻き込まれるぞ!』
「分かってる」
『なら離せ!』
「嫌だ」
『っ……!』
ヴァルガが言葉を詰まらせる。
レオンは少女を離さない。
腕の中で暴走している。
危険なのは理解している。
それでも離さない。
ゼルヴァが笑った。
「愚かだな」
血を拭いながら立ち上がる。
「器は暴走する」
「神霊を押し込まれた時点で、普通には戻れない」
「なのに抱えるのか?」
「死ぬぞ?」
レオンは答えない。
代わりに、少女の背中へ黒雷を流した。
バチ、と小さな音。
少女の身体がびくりと震える。
「ひぁっ……!」
悲鳴。
だが。
赤黒い翼の膨張が、ほんの少しだけ止まった。
ノワールが目を細める。
『……なるほど』
「何だ」
『主の雷で、侵食を止めてる』
ヴァルガが低く唸る。
『無茶苦茶だな』
「知ってる」
『普通は焼け死ぬぞ』
「死んでない」
『今はな!』
少女は苦しそうに息をしている。
だが、暴走は確かに少し弱まった。
レオンの黒雷。
それは破壊だけじゃない。
侵食された術式を無理やり焼き切り、制御を取り戻そうとしている。
かなり危険なやり方だった。
少しでもズレれば、少女の命ごと焼く。
だが。
レオンは迷わない。
「……大丈夫だ」
小さく言う。
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
少女か。
神霊か。
それとも、自分自身か。
少女の瞳が揺れる。
「ぁ……」
「喋るな」
レオンが短く言う。
「今は耐えろ」
「……なん、で」
「何だ」
「わたし、なんか……」
少女の涙が零れる。
「助ける、の……」
その問い。
レオンは少しだけ黙った。
理由。
意味。
価値。
昔の自分なら考えていた。
王子として価値があるか。
役に立つか。
期待されるか。
でも。
今は違う。
「目の前にいるからだ」
短い言葉。
「それで十分だ」
少女の目が見開かれる。
信じられないものを見る顔だった。
ゼルヴァが低く笑う。
「くだらない」
「本当にくだらない理屈だ」
「だが」
一拍。
「だからお前は気持ち悪い」
次の瞬間。
ゼルヴァの術式が展開された。
赤い刃。
空間切断型。
地下深層を斜めに裂きながら飛ぶ。
レオンは少女を抱えたまま避ける。
轟音。
石壁が切断される。
地下がさらに崩れ始めた。
「術式停止後の余波か」
ゼルヴァが笑う。
「地下はもう限界だ」
「あと数分で完全崩落する」
レオンの目が細くなる。
時間がない。
少女。
仲間。
地下脱出。
全部同時にやる必要がある。
だが。
ゼルヴァはまだ立っている。
そして。
地下の奥では、暴走体も生きている。
ヴァルガが舌打ちした。
『めんどくせぇなほんと!』
「今さらだ」
『主、お前それ口癖になってるぞ』
「うるさい」
その時。
通信具からノイズ混じりの声が響いた。
『レイさん!!』
リリアーナ。
『今、すごい魔力が……!』
「問題ない」
『絶対問題ありますよね!?』
「少し暴れてるだけだ」
『地下ごと崩れそうなんですけど!?』
レオンが少し黙る。
その沈黙だけで、リリアーナは察した。
『……本当に危ないんですね』
「……ああ」
『レイさん』
「何だ」
『死なないでください』
短い言葉。
でも。
その声は震えていた。
地下で分断されて。
敵に囲まれて。
崩落寸前で。
それでも一番怖いのは、レオンがいなくなること。
その感情が、声に全部出ていた。
レオンは静かに目を閉じる。
ほんの一瞬だけ。
そして。
「分かってる」
短く答えた。
リリアーナが息を呑む。
今までのレオンなら。
「死なない」とは言わなかった。
約束できないから。
期待させたくないから。
でも今は違う。
ちゃんと、“戻る側”へ立とうとしている。
『……待ってます』
「ああ」
通信が切れる。
ゼルヴァはそれを黙って見ていた。
その目に、妙な感情が浮かぶ。
羨望。
違う。
嫉妬。
それとも。
「……面白いな」
小さく呟く。
「そこまで繋がれるものなのか」
レオンが少女を抱え直す。
「お前には分からないだろ」
「そうだな」
ゼルヴァは笑う。
「私は繋がったことがない」
その言葉。
一瞬だけ。
地下深層の空気が静まった。
レオンの目が少し細くなる。
ゼルヴァは続けた。
「赤眼に入った時点で、人間関係なんて消える」
「家族も」
「友も」
「名前も」
「全部、処理される」
「必要なのは役割だけだ」
一拍。
「だから私は、人が壊れる瞬間を見るのが好きなんだろうな」
笑う。
だが、その笑みは少し歪んでいた。
レオンは静かに言う。
「……哀れだな」
ゼルヴァの笑みが止まる。
「何?」
「お前」
「壊れてるのに気づいてない」
地下深層が静まる。
ヴァルガが「おぉ……」みたいな顔をした。
ノワールは影からくすくす笑う。
『主、たまにめちゃくちゃ刺すよね』
「事実だ」
ゼルヴァの目が細くなる。
笑っていない。
空気が変わった。
「……そうか」
低い声。
「なら」
赤い術式が膨れ上がる。
「お前も同じ場所まで落としてやる」
轟音。
地下深層の壁が開いた。
そこから、さらに複数の暴走体が現れる。
人型。
獣型。
半分崩れた肉体。
全部に赤い杭が刺さっている。
失敗作。
神霊適合実験の残骸。
アルベルトが見たら吐きそうな光景だった。
少女が震える。
「や……」
小さな声。
「いや……」
レオンは少女を見る。
彼女の瞳には、恐怖が焼き付いていた。
ここで何を見てきたのか。
何をされたのか。
想像するだけで、胸の奥が冷える。
「……主」
ノワールの声が静かになる。
『あの子、多分ずっとここにいた』
レオンの目が細くなる。
『暴走体見て怯えてるんじゃない』
『“知ってる”顔してる』
少女の指が、レオンの服をぎゅっと掴む。
「……こわい」
掠れた声。
「また、つくられる」
レオンは短く息を吐いた。
「もうない」
「……え」
「終わらせる」
その声には迷いがなかった。
ゼルヴァが笑う。
「できると思うか?」
「思わない」
「ならなぜ動く?」
「決めたからだ」
レオンは少女をゆっくり下ろす。
ノワールの影が少女を包み込む。
『任せて』
「頼む」
『ん』
ヴァルガが前へ出る。
黒雷が地下深層を照らす。
『主』
「何だ」
『暴れるぞ』
「加減しろ」
『無茶言うなぁ!』
次の瞬間。
ヴァルガが咆哮した。
黒雷が地下深層を埋め尽くす。
暴走体たちが一斉に突撃。
ゼルヴァも術式を展開。
レオンはその中心へ踏み込む。
轟音。
衝突。
崩壊。
地下空間そのものが揺れる。
だが。
レオンの目は、もう迷っていなかった。
孤独だった王子は。
誰も救えないと思っていた少年は。
今。
壊れた少女を守るために、地下の闇へ拳を振るっている。
その時だった。
少女の身体から、淡い銀色の光が漏れ始める。
ノワールが目を細めた。
『……主』
「何だ」
『この子』
一拍。
『まだ“何か”隠してる』




