第72話「地下深層、無能王子は“孤独”を踏み潰して前へ進む」
地下深層。
空気が重い。
湿っている。
腐臭。
血の匂い。
焼けた鉄みたいな臭気。
それら全部が混ざり合い、肺へまとわりつく。
赤い灯火が、石造りの空間を不気味に照らしていた。
壁には古い術式刻印。
床には巨大な魔法陣。
そして。
無数の黒装束。
赤眼。
その中心で、銀髪の男が静かに笑っている。
「……喋るな」
レオンの低い声が響く。
「お前から潰す」
黒雷が足元を走った。
石床が軋む。
空気が震える。
普通の人間なら、それだけで息が詰まるほどの圧。
だが。
銀髪の男は笑みを崩さなかった。
「怖いな」
わざとらしく肩をすくめる。
「そんな顔をするなよ、レオンハルト」
その名前。
その呼び方。
レオンの目が少し細くなる。
「……知っているのか」
「もちろん」
男は笑う。
「東の塔の無能王子」
「魔力ゼロ」
「追放」
「幽閉」
「存在を忘れられた王子」
「なのに、突然“神霊”を連れて戻ってきた化け物」
一拍。
「王城が恐れるには十分だ」
黒装束たちが一斉に武器を構える。
槍。
短剣。
黒鎖。
毒針。
全てがレオンへ向いている。
だが。
レオンは動じない。
静かだった。
むしろ。
静かすぎた。
『主』
ヴァルガの声が低い。
『こいつ、嫌なタイプだ』
「ああ」
『人を壊すのが上手い奴だ』
レオンは答えない。
代わりに、銀髪の男を見る。
その目。
その立ち方。
笑い方。
全部が気に入らなかった。
人を試す目だ。
値踏みする目。
昔、王城で何度も向けられた目と同じだった。
「名前を聞いても?」
男が優雅に一礼する。
「失礼した」
「私はゼルヴァ・クローディア」
「赤眼、第五監察官」
監察官。
つまり、戦闘員ではない。
もっと上。
もっと裏。
人を管理し、処理し、監視する側。
「……監察官」
レオンが小さく呟く。
「随分と大層だな」
「肩書きは嫌いか?」
「興味ない」
「そうか」
ゼルヴァは笑う。
「だが私は好きだ」
「肩書きは便利だ」
「人を縛れる」
「人を潰せる」
「人を壊せる」
空気が冷える。
黒装束たちですら、少しだけ顔を伏せる。
ゼルヴァは続けた。
「知っているか、レオンハルト」
「人間はな」
一拍。
「孤独になると壊れる」
その瞬間。
レオンの黒雷が揺れた。
ほんの僅か。
だが、ゼルヴァは見逃さない。
「お前もそうだった」
「東の塔」
「誰も来ない」
「誰も期待しない」
「毎日、毎日、毎日」
ゼルヴァがゆっくり歩く。
「自分が不要だと思い込まされる」
「そうして人は壊れる」
「だが、お前は壊れきらなかった」
「だから王城は恐れた」
「壊れたままなら楽だったのにな」
その言葉。
その瞬間。
レオンの周囲で、黒雷が爆ぜた。
轟音。
石床が砕ける。
空気が裂ける。
黒装束たちが一歩下がる。
『主』
ヴァルガが低く唸る。
『殺るか?』
「まだだ」
レオンの声は低い。
だが。
怒っている。
かなり。
ゼルヴァはそれを見て、むしろ嬉しそうに笑った。
「良い顔だ」
「怒れ」
「憎め」
「その方が人は壊れやすい」
「……お前」
レオンが一歩前へ出る。
「よく喋るな」
「仕事だからな」
「人を壊すのがか?」
「違う」
ゼルヴァが目を細める。
「人を観察するのが、だ」
嫌な男だった。
戦いを楽しんでいない。
殺しも楽しんでいない。
ただ。
“人が壊れる瞬間”を見ている。
それだけを愉しんでいる。
「お前の仲間たちも、今頃面白いことになっているぞ」
レオンの目が変わる。
「何をした」
「何も?」
ゼルヴァは笑う。
「ただ分断しただけだ」
「恐怖の中へ落とした」
「それだけで人は簡単に壊れる」
「特に、守られてきた人間ほどな」
レオンの拳が鳴る。
ギシ、と音がした。
ゼルヴァは気づく。
そして笑う。
「良い」
「実に良い」
「その顔だ」
「仲間が心配か?」
「失うのが怖いか?」
「ようやく手に入れた居場所だもんなぁ?」
その瞬間。
レオンが消えた。
轟音。
黒雷。
ゼルヴァの顔面へ拳が迫る。
だが。
ゼルヴァは避けなかった。
代わりに。
前へ出た。
ギィィィィン!!
金属音。
ゼルヴァの腕に、黒い術式鎧が展開されている。
レオンの拳を受け止めた。
空気が爆ぜる。
床が陥没。
周囲の赤眼たちが吹き飛ぶ。
だが。
ゼルヴァは笑ったままだ。
「良い速度だ」
「だが荒い」
「感情が混ざると、お前は真っ直ぐになる」
レオンの目が細くなる。
次の瞬間。
ゼルヴァの膝蹴り。
速い。
監察官。
だが戦えないわけではない。
むしろ異常に強い。
レオンは腕で受ける。
衝撃。
黒雷が散る。
その隙に、周囲の赤眼たちが動いた。
「拘束開始」
「術式展開」
黒鎖。
赤い杭。
複数の封印術式。
完全にレオンへ集中している。
「面倒だな」
レオンが低く呟く。
次の瞬間。
ヴァルガが咆哮した。
『邪魔だァァァ!!』
黒雷が周囲へ炸裂する。
赤眼数名が吹き飛ぶ。
だが。
ゼルヴァは楽しそうだった。
「そうだ」
「もっと見せろ」
「神霊の力を」
「壊れた王子の中身を」
「お前がどこまで人間でいられるのかを」
「……黙れ」
レオンの声が低くなる。
その時だった。
地下深層全体に、低い振動音が響いた。
ゴォォォォォ……。
レオンが目を細める。
「何だ」
ゼルヴァが笑う。
「ようやく始まった」
「始まった?」
「処理がだ」
次の瞬間。
地下の壁が、ゆっくり赤く光り始めた。
術式。
巨大。
しかも広範囲。
ヴァルガが低く唸る。
『主』
「ああ」
『これ、ヤバいぞ』
レオンも理解していた。
この術式。
ただの封印ではない。
地下全体を巻き込む類。
「何をする気だ」
レオンが問う。
ゼルヴァは楽しそうに答える。
「実験だよ」
空気が止まる。
「王城は知りたいんだ」
「お前がどこまで耐えられるかを」
「神霊持ちは本当に死ぬのか」
「壊れるのか」
「狂うのか」
「人のままでいられるのか」
レオンの目が、静かに冷えた。
ゼルヴァは続ける。
「だから」
「地下ごと潰す」
その瞬間。
地下深層の天井から、巨大な赤い杭が出現した。
無数。
数十。
数百。
地下全体を埋め尽くすように。
「対象固定」
「術式起動まで残り九十秒」
機械音声みたいな声が響く。
レオンの周囲を、赤い光が囲む。
『主』
ヴァルガが低く言う。
『かなりヤバい』
「分かってる」
『どうする?』
レオンは一瞬だけ黙った。
仲間が分断されている。
地下は崩壊寸前。
赤眼は最初から、自爆込みでここを潰すつもりだった。
つまり。
ここで止めなければ。
リリアーナたちも危ない。
レオンは小さく息を吐く。
「……面倒だ」
低い声。
でも。
もう逃げる気はなかった。
ゼルヴァが笑う。
「さぁ見せろ」
「お前の絶望を」
その瞬間。
レオンの背後で、黒い影が揺らいだ。
ヴァルガだけじゃない。
別の気配。
冷たい闇。
双子みたいな声が響く。
『……主』
『呼ぶ?』
ノワール。
もう一柱の神霊。
地下深層の空気が、さらに重くなった。
ゼルヴァの笑みが、初めて少しだけ止まる。
レオンは静かに目を閉じる。
そして。
ゆっくり開いた。
金の瞳が、闇の中で光る。
「……後悔するぞ」
その一言で。
地下深層全体の灯火が、揺らいだ。




