第71話「黒雷の咆哮、無能王子は仲間の前で“力の一端”を解き放つ」
旧貴族倉庫街。
夜の空気が、雷に裂かれた。
黒い雷光が石畳を走り、崩れかけた倉庫の壁を照らし出す。
湿った風。
錆びた鉄柵。
割れた窓。
朽ちた木箱。
そのすべてが、一瞬だけ白黒に反転したように浮かび上がった。
そして。
レオンの背後に、巨大な影が立っていた。
山羊の角――ではない。
黒雷を纏う、巨大な虎。
風と雷を纏った雄々しい神霊。
ヴァルガ。
普段のお調子者の空気はない。
獣のような鋭さ。
王のような威圧。
その巨体は、路地を塞ぐほど大きく、黒装束たちを見下ろしていた。
『――舐めるなよ、人間』
低い声。
それは咆哮ではなかった。
だが、旧貴族倉庫街全体が震えた。
空気が怯えた。
赤眼の黒装束たちでさえ、一瞬だけ動きを止める。
「……何だ、これは」
アルベルトが呆然と呟いた。
剣を握る手から力が抜けそうになる。
当然だった。
今までレオンが異常に強いことは分かっていた。
北棟でも見た。
地下でも聞いた。
けれど。
これは違う。
人間の強さではない。
魔法の強さでもない。
もっと根本的に、理から外れたもの。
神話や伝承に出てくるような、世界の外側から現れた力。
「……神霊」
エリシアが小さく呟いた。
その声には、驚きと恐怖と、理解が混ざっている。
彼女は優秀だ。
だからこそ、目の前の存在がどれほど異常か分かってしまう。
魔獣ではない。
召喚獣でもない。
精霊とも違う。
あれは、もっと深い。
もっと古い。
そして、レオンに従っている。
「レイさん……」
リリアーナは、胸の前で両手を握りしめていた。
怖い。
正直に言えば、怖かった。
黒雷を纏う巨大な神霊。
それを背負って立つレオン。
その姿は、普段の不器用で無口な少年とはまるで違う。
でも。
リリアーナが本当に怖かったのは、ヴァルガではなかった。
それほどの力を持っていながら、レオンが今まで黙っていたこと。
それほどの力を持っていても、彼がずっと一人で戦おうとしていたこと。
その方が、ずっと怖かった。
「……これが」
カティアが息を呑む。
教師として、学園の戦力をある程度把握している。
王国の魔法体系も理解している。
だが、目の前の現象はそのどれにも当てはまらない。
魔力反応が薄い。
なのに、圧倒的な力がある。
魔力ではなく、別の何か。
だから、王城が恐れたのか。
だから、王城が捕らえようとしたのか。
カティアは歯を食いしばる。
だが同時に思う。
それでも。
それでも、この力を“危険”の一言で閉じ込めるのは違う。
今、この力は自分たちを守るために出ているのだから。
レオンは黒鎖に絡まれたまま、静かに立っていた。
足元から伸びる魔封鎖術。
赤眼が用意した高位拘束術式。
普通の魔法使いなら、魔力を封じられ、動きを奪われ、即座に無力化される。
だが。
黒鎖は、震えていた。
レオンを縛っているはずの鎖が、逆に怯えるように軋んでいる。
「……鬱陶しいと言った」
レオンが低く言う。
次の瞬間。
ヴァルガの尾が一閃した。
雷が走る。
黒鎖が砕けた。
ガラスが割れるような音ではない。
鉄が引き千切られ、術式ごと焼き潰されるような音。
黒装束たちのうち数人が、反射的に後退る。
「魔封鎖、破断」
「対象、拘束不能」
「神霊反応、分類不能」
「警戒段階を引き上げる」
淡々とした声。
それでも、わずかに乱れが混じっていた。
赤眼は恐怖を訓練で殺している。
だが完全ではない。
人間である以上、目の前の圧倒的な異常を見れば、揺らぐ。
レオンはその揺らぎを見逃さなかった。
「遅い」
短い一言。
次の瞬間、レオンが踏み込んだ。
同時に、ヴァルガが咆哮する。
『行くぞ、主!』
「騒ぐな」
『この場面でそれ言うか!?』
普段通りのやり取り。
だが、放たれる圧は桁違いだった。
レオンの身体が黒雷を纏う。
風が足元に集まる。
一歩。
それだけで、視界から消えた。
黒装束の一人が反応する。
短剣を構える。
だが遅い。
レオンはすでに懐にいる。
拳。
腹。
鈍い音。
鎧の内側まで衝撃が通る。
黒装束の身体がくの字に折れ、そのまま後方へ吹き飛ぶ。
壁に叩きつけられた瞬間、石壁が砕けた。
「一」
レオンが短く数える。
次。
屋根上から二人が同時に降る。
黒い鎖。
短刃。
毒針。
三重の攻撃。
だがヴァルガが口を開いた。
『邪魔だ』
黒雷が上空へ弾ける。
落雷ではない。
空間を走る雷撃。
二人の武器だけが砕かれる。
身体は焼かない。
命は取らない。
それでも、神経を撃たれたように二人は空中で硬直し、石畳へ落ちた。
「二、三」
アルベルトが目を見開く。
「……おいおい」
強い。
それは分かっていた。
でも、これはもう“戦い”というより“処理”だ。
赤眼の上位部隊が、まるで紙のように崩れていく。
けれど。
アルベルトは同時に気づいた。
レオンは、殺していない。
あれほど怒っているのに。
あれほど力を見せているのに。
全部、寸前で止めている。
それがどれほど難しいことか。
力任せに潰す方が簡単だ。
でもレオンは、それをしていない。
「……化け物じゃねぇよ」
アルベルトは小さく呟いた。
誰にも聞こえない声で。
「ちゃんと、止めてんじゃねぇか」
その時、黒装束の一人がアルベルトへ迫った。
「っ!」
考えている場合ではない。
アルベルトは炎剣を構え直す。
「来いよ!」
黒装束は無言で踏み込む。
短剣が走る。
速い。
アルベルトは剣で受ける。
ギィンッ!
火花。
重い。
王族として鍛えてきた剣術がなければ、今の一撃で崩されていた。
「くっ……!」
黒装束は二撃目を放つ。
首。
脇腹。
膝。
殺すのではなく、動きを止める狙い。
アルベルトは歯を食いしばる。
受けるだけでは駄目だ。
前へ出る。
そう決めた瞬間、頭の中にレオンの言葉が蘇る。
――負けた事実だけで切り捨てるなら、測っているのは人ではなく結果だけだ。
「……だったら」
アルベルトは踏み込んだ。
相手の短剣が肩を掠める。
痛み。
だが止まらない。
「今立てばいいんだろうが!」
炎剣が弧を描く。
黒装束が防御する。
だがアルベルトは、さらに魔力を込めた。
「燃えろ!」
炎が爆ぜる。
短剣ごと押し切る。
黒装束の身体が後方へ吹き飛んだ。
完全制圧ではない。
まだ甘い。
だが、確かに押し返した。
「……見たか」
アルベルトが息を切らしながら呟く。
レオンが横目で見る。
「悪くない」
短い一言。
アルベルトの顔が一瞬で歪む。
「おまっ……!」
「何だ」
「今言うなよ!」
「褒めただけだ」
「分かってるから余計に腹立つんだよ!」
エリシアが風刃を放ちながら、呆れたように言う。
「戦闘中に照れないでくださいませ、殿下」
「照れてねぇ!」
「耳が赤いですわ」
「うるせぇ!」
リリアーナが結界を張り直しながら、少しだけ笑いそうになる。
だがその余裕は一瞬だけだった。
新たな赤眼が、彼女の結界へ黒い杭を打ち込んだ。
ガァンッ!!
「っ……!」
結界が大きく揺れる。
黒い杭は、ただの攻撃ではない。
結界の術式へ食い込み、内側から崩そうとしてくる。
「結界侵食……!」
リリアーナの顔が青ざめる。
北棟の時より厄介だ。
力で押すのではなく、構造を崩してくる。
「リリアーナ様!」
エリシアが風で援護しようとする。
だが、別の黒装束が彼女へ斬りかかる。
「邪魔ですわ!」
エリシアは細剣を抜く。
風を纏わせた一閃。
黒装束と打ち合う。
その目は真剣だった。
彼女もまた、守られるだけの令嬢ではない。
「リリアーナ様、焦らないで!」
「は、はい!」
「結界を外から支えるのではなく、内側の流れを変えなさい!」
「内側……!」
リリアーナは必死に結界へ意識を向ける。
怖い。
黒い杭がじわじわと結界を侵してくる。
このままでは割れる。
割れれば、後ろの教師たちにも攻撃が届く。
自分が崩れれば、皆が危ない。
手が震える。
息が乱れる。
その時。
「リリアーナ」
レオンの声がした。
戦闘中なのに、はっきり聞こえた。
「見ろ」
「え……?」
「杭じゃない」
レオンは黒装束を一人蹴り飛ばしながら言う。
「流れを見ろ」
短い。
でも、それだけで何かが変わった。
リリアーナは目を閉じる。
杭を見るのではなく。
結界全体の流れを見る。
黒い杭が、どこに食い込んでいるのか。
どう術式を崩そうとしているのか。
どうすれば、流れをずらせるのか。
怖い。
でも、逃げない。
「……できます」
小さく呟く。
リリアーナの手が光る。
結界の内側に、薄い水色の線が走った。
それは壁ではない。
流れ。
循環。
黒い杭が食い込もうとするたび、その流れが力を逃がす。
押し返すのではなく、受け流す。
ガギッ――。
黒杭が弾けた。
「……できた」
リリアーナが目を見開く。
自分でも驚いていた。
エリシアが笑う。
「お見事ですわ」
アルベルトが叫ぶ。
「やるじゃねぇか!」
レオンは短く言う。
「悪くない」
リリアーナの顔が赤くなる。
「……っ、今は戦闘中です!」
「そうだな」
「レイさんのせいで集中切れそうです!」
「なぜだ」
「なぜでもです!」
ヴァルガが笑う。
『主、ほんと無自覚だな!』
「黙れ」
だが、その一瞬のやり取りが、皆の呼吸を合わせた。
恐怖だけではない。
信頼。
連携。
それが生まれ始めている。
赤眼の黒装束たちは、それを理解したのか、すぐに動きを変えた。
「対象群、連携上昇」
「分断優先」
「補助対象、リリアーナ・ヴァイス」
「貴族対象、エリシア・ローゼンベルク」
「王族対象、アルベルト・フォン・アルディア」
「同時処理へ移行」
空気が変わる。
黒装束たちが一斉に散った。
今度はレオンを避けるように。
狙いは周囲。
仲間を崩すことで、レオンを揺らす。
それが赤眼の判断だった。
「……やはりそう来るか」
ミーアが屋根上で呟く。
彼女はすでに二人を無力化していた。
だが敵はまだ残っている。
加えて、さらに奥から増援の気配もある。
ミーアは通信具へ声を落とす。
「カティア先生」
『聞こえています』
「増援が来ます」
『数は』
「不明。ですが、足音が軽い」
一拍。
「暗殺者です」
『了解しました。後方を固めます』
カティアの声は冷静だった。
だが、彼女もまた前線に立っている。
教師二名と共に後方を守り、撤退路を確保している。
この戦いは、レオンだけの戦いではなくなっていた。
それが、赤眼にとっては最も厄介だった。
「レオン様」
ミーアが声を落とす。
「敵は、レオン様を直接倒す気ではありません」
「知っている」
レオンが答える。
「周りを狙う」
「はい」
「なら」
レオンの目が冷える。
「それも潰す」
ヴァルガが牙を見せて笑う。
『いいねぇ、主』
「調子に乗るな」
『でも怒ってるだろ?』
「……」
『怒ってるな』
「黙れ」
レオンが踏み込む。
黒雷が走る。
だが、今度は敵へ向かわなかった。
リリアーナたちの周囲へ雷が散る。
雷の檻。
攻撃ではなく、防御。
敵の侵入経路を塞ぎ、足を止める。
黒装束の一人が雷へ触れ、即座に後退った。
「防壁形成」
「接触不可」
「迂回――」
「遅い」
レオンがそこへ現れる。
拳。
沈む。
エリシアが笑う。
「随分と過保護ですわね」
「必要だ」
「否定しないんですの?」
「面倒だ」
「ふふ」
エリシアは嬉しそうに笑った。
ほんの少し。
けれど、その笑みには確かな温度があった。
リリアーナはそれを見て、胸の奥が少しだけざわつく。
でも今は、それどころではない。
彼女は結界を張り直す。
さっきより滑らかに。
内側を流れる水のように。
「……守れます」
リリアーナが呟く。
「今度は、わたしも」
その声は、もう怯えていなかった。
アルベルトも炎剣を構え直す。
「俺も負けてられねぇな」
黒装束が三人、同時に迫る。
アルベルトは息を吸う。
父の期待。
王族の誇り。
今まで自分を縛っていたもの。
その全部が、まだ胸にある。
でも今は、それとは別に戦う理由がある。
守るため。
背中を見せられない相手がいるから。
「来い!」
炎が剣へ集まる。
アルベルトが踏み込む。
赤眼三人と正面からぶつかった。
エリシアは風で道を作る。
リリアーナは結界で守る。
ミーアは影のように背後から敵を削る。
カティアは後方を固める。
そしてレオンは中心で雷を走らせる。
戦況が変わり始めた。
赤眼が押される。
上位部隊であっても、連携が崩れれば隙が生まれる。
その隙を、レオンたちは逃さない。
だが。
次の瞬間。
旧貴族倉庫街の地下から、重い音が響いた。
ゴォォォォォ……。
空気が震える。
石畳の隙間から、赤い光が漏れ始めた。
エリシアの顔色が変わる。
「地下術式……!?」
ミーアが叫ぶ。
「全員、下がってください!」
遅かった。
地面に巨大な赤い紋様が浮かび上がる。
レオンたちの足元。
倉庫街一帯。
広範囲術式。
赤眼は、最初からここを戦場にするつもりだった。
「転落式結界……!」
カティアの声が鋭くなる。
「地面ごと落とす気です!」
リリアーナの顔が青ざめる。
「え……!?」
次の瞬間。
石畳が崩れた。
足場が消える。
全員の身体が宙に浮く。
「きゃあっ!」
「リリアーナ!」
レオンが手を伸ばす。
だが、赤い光が間に割り込む。
分断術式。
レオンと仲間たちの間を裂くように、光の壁が立ち上がった。
「っ……!」
レオンの目が変わる。
リリアーナが落ちる。
エリシアも。
アルベルトも。
ミーアも。
カティアも。
全員が、別々の穴へ落とされていく。
『主!』
ヴァルガが叫ぶ。
レオンは咄嗟に雷を伸ばす。
だが光壁が弾いた。
赤眼の罠。
狙いは最初からこれ。
レオンを一人にすること。
仲間を分断すること。
そして。
守る対象を見えない場所へ落とすこと。
レオンは落下しながら、上を見た。
崩れる空。
赤い術式。
散っていく仲間たち。
胸の奥が、冷たくなる。
失うかもしれない。
その感覚が、東の塔の闇よりも深く突き刺さる。
そして。
地下深く。
闇の中から、低い声が響いた。
「ようこそ」
銀髪の男。
片目に赤い刻印。
赤眼の幹部が、暗闇の中で静かに笑っていた。
「東の塔の壊れた王子」
レオンの周囲に、黒い床が現れる。
落下が止まる。
そこは、地下深層の広間だった。
石壁。
赤い灯火。
血のような紋様。
そして、無数の黒装束。
完全に準備された舞台。
レオンは静かに着地する。
黒雷が足元を走る。
銀髪の男は笑う。
「仲間と引き離された気分はどうだ?」
レオンは答えない。
ただ。
静かに男を見る。
「恐怖か?」
「怒りか?」
「それとも、また一人に戻った絶望か?」
男の笑みが深くなる。
「見せてくれ」
「お前がどこまで壊れずにいられるかを」
沈黙。
地下深層に、黒雷が走る。
レオンの目が、冷たく細まった。
「……喋るな」
低い声。
それだけで、赤い灯火が揺れた。
「お前から潰す」
無能王子は。
再び一人にされた。
だがもう。
孤独に膝を折る少年ではなかった。




