第70話「旧地下道、無能王子は“王城の腐臭”へ足を踏み入れる」
夜。
王都東区画。
旧貴族倉庫街。
そこは、王都の中でも“死んだ場所”と呼ばれていた。
かつては物流と税管理の中心だった街区。
貴族専用馬車が行き交い、商人たちが頭を下げ、王城直属の役人たちが支配していた区域。
だが今は違う。
石造りの建物は崩れかけ。
窓は割れ。
鉄柵は錆びつき。
人気もほとんどない。
夜になれば灯りすら消える。
王都に存在しているのに、王都から切り離されたみたいな場所だった。
風が吹く。
冷たい。
細い路地を抜けるたび、どこかで鉄が軋む音が響く。
まるで街そのものが腐っているようだった。
「……思った以上に気味悪いですわね」
エリシアが小さく呟く。
いつもの余裕はある。
だが、さすがに警戒は強い。
今日は動きやすさ重視の軽装だった。
黒を基調とした戦闘用外套。
腰には細剣。
扇子ではなく術式札を複数携帯している。
完全に“潜入用”だ。
「王都なのに、人の気配が全然ない……」
リリアーナが周囲を見る。
彼女も今日は戦闘用装備だった。
軽結界用の銀糸手袋。
腰には補助結晶。
表情は緊張している。
だが、もう足は止まらない。
「そりゃ普通の人間は近づかねぇよ」
アルベルトが低く言う。
「裏側じゃ有名だからな、この辺」
「有名?」
リリアーナが聞き返す。
アルベルトは嫌そうに顔をしかめた。
「消えるんだよ」
空気が少し冷える。
「ここで」
「人が?」
「ああ」
アルベルトは壁の古い血痕を見る。
「昔から、“表に出せない奴”が処理される区域って噂があった」
「王都警備も、あんま踏み込みたがらねぇ」
リリアーナの顔色が少し変わる。
エリシアが静かに補足した。
「王都には、昔から“見て見ぬ振りをされる区域”がありますの」
「完全に消すと困る」
「ですが、表へ出るともっと困る」
「だから放置される」
レオンは黙ったまま前を歩いていた。
黒い外套。
低いフード。
静かな足音。
だが。
周囲の空気が、自然と彼を中心に張り詰めている。
ミーアが屋根上から静かに声を落とす。
「レオン様」
「何だ」
「前方、魔力反応」
全員の空気が変わる。
「数は」
「微弱が三」
「ただし」
一拍。
「監視系です」
エリシアが目を細める。
「見張り……」
「恐らく赤眼の外周警戒」
ミーアは続ける。
「かなり広範囲に配置されています」
「完全に拠点ですわね」
カティアが後方から言う。
彼女と警備教師二名は少し離れて同行していた。
今回は学園側正式調査。
だからこそ、教師側も本気だった。
「代表」
カティアが低く言う。
「ここから先は、完全に非合法区域です」
「分かってる」
「王城が“存在しないことにしている場所”でもあります」
レオンは小さく息を吐く。
「面倒だな」
「今さらです」
「それもそうか」
その時。
ミーアがふっと動いた。
黒い影みたいに屋根から消える。
次の瞬間。
路地裏から、短い悲鳴。
「――ッ!?」
そして沈黙。
数秒後。
ミーアが音もなく戻ってきた。
「監視一名、無力化しました」
アルベルトが引く。
「怖ぇなほんと」
「殺してません」
「そこじゃねぇ」
ミーアは淡々としていた。
「舌を噛まれる前に拘束済みです」
「流石ですわね」
エリシアが感心する。
ミーアは静かに頷いた。
「赤眼は自害訓練があります」
「躊躇すると情報が消えます」
リリアーナが小さく息を呑む。
当たり前みたいに言っている。
だが、それだけ裏側に慣れているということだ。
「尋問は後方班へ任せます」
カティアが教師へ合図する。
拘束された黒装束の男が引きずられていく。
その顔には恐怖が浮かんでいた。
学園側がここまで踏み込んでくるとは思っていなかったのだろう。
レオンはそれを横目で見る。
「……まだ浅いな」
「何がです?」
リリアーナが問う。
「末端だ」
レオンは短く答える。
「本命はもっと奥」
その時だった。
ゴォォォ……。
地面の下から、低い振動音が響いた。
全員が止まる。
「今の……」
アルベルトが眉を寄せる。
ミーアがすぐ地面へ触れた。
「地下水流ではありません」
「術式駆動音です」
「術式?」
エリシアの顔が変わる。
「地下施設が動いていますわ」
「恐らく侵入検知」
ミーアが立ち上がる。
「向こうも気づき始めています」
その瞬間。
レオンの目が細くなった。
「……来るぞ」
空気が変わる。
次の瞬間。
建物の影。
路地裏。
屋根上。
複数の黒影が同時に現れた。
赤眼。
全員、黒装束。
だが。
今までの連中とは違う。
圧が重い。
魔力が濃い。
「侵入者確認」
「対象――レオンハルト・フォン・アルディア」
低い声。
感情がない。
だが。
その中に明確な殺意だけがある。
「排除を開始する」
次の瞬間。
黒影たちが一斉に動いた。
速い。
前回より明らかに速い。
「散開!」
カティアが叫ぶ。
同時に戦闘開始。
エリシアが風を展開。
「穿ちなさい!」
暴風刃。
だが。
黒装束の一人が正面から踏み込む。
ギィィィィン!!
風刃を、黒剣で切り裂いた。
「なっ……!?」
「術式切断!?」
エリシアの顔が変わる。
アルベルトが炎剣を叩き込む。
「おらぁぁぁ!!」
轟炎。
だが。
相手は真正面から受けた。
黒い障壁。
炎が弾かれる。
「殿下、下がれ!」
カティアが結界を展開。
直後。
黒装束の短刃が、アルベルトの首元を掠めた。
「っ!?」
速い。
異常。
しかも全員連携済み。
以前の連中より一段上だ。
リリアーナが即座に結界を重ねる。
「皆さん!」
銀光。
防御結界。
直後。
無数の黒針が結界へ突き刺さった。
ガガガガガガッ!!
「きゃっ……!」
重い。
リリアーナの顔が歪む。
以前より強い。
殺意も。
魔力量も。
「リリアーナ!」
レオンが踏み込む。
雷。
一閃。
黒装束二人が吹き飛ぶ。
だが。
空中。
屋根上。
さらに五人。
「――囲め」
完全包囲。
しかも狙いはレオンだけじゃない。
教師。
リリアーナ。
エリシア。
全員を同時に削りに来ている。
「ちっ……!」
アルベルトが押される。
強い。
赤眼。
明らかに王国正規騎士以上。
しかも感情がない。
恐怖も迷いもない。
ただ処理だけを行う兵器みたいだった。
『主』
ヴァルガが低く唸る。
『こいつら、かなり殺してる』
「ああ」
『嫌な匂いだ』
レオンの空気が冷える。
その時。
黒装束の一人が、リリアーナへ向けて短刃を投げた。
死角。
速い。
「っ――!」
リリアーナが反応しきれない。
だが。
次の瞬間。
雷光。
レオンが割り込む。
ギィィィン!!
短刃が弾かれる。
だが。
黒装束はそれを待っていた。
「捕捉完了」
地面。
術式起動。
黒い鎖が、レオンの足元から噴き上がった。
「レイさん!!」
リリアーナが叫ぶ。
黒鎖がレオンへ絡みつく。
魔封鎖術。
しかも高位。
空気が変わる。
黒装束たちが、一斉にレオンへ殺到した。
その瞬間。
レオンの目が、静かに冷えた。
「……鬱陶しい」
低い声。
次の瞬間。
黒雷が、地下街区を埋め尽くした。
轟音。
空気が震える。
建物が軋む。
石畳が砕ける。
そして。
レオンの背後で、巨大な黒い影がゆっくりと立ち上がった。
山羊の角。
雷を纏う漆黒の巨影。
神霊。
ヴァルガ。
『――舐めるなよ、人間』
その咆哮が。
旧貴族倉庫街全体を震わせた。




