第7話「東の塔、再び灯る場所」
夜の王都を、静かな風が抜けていく。
黒蛇の牙――いや、今やその名だけが残る組織の拠点酒場では、誰もが背筋を伸ばしていた。
昼間まで荒くれ者たちが酒を煽っていた場所とは思えない。
床は磨かれ、割れた机は片づけられ、男たちは整列している。
その最前列。
黒蛇の牙頭領ガルドンが、滝のような汗を流しながら跪いていた。
「お、お頭……ご命令を……」
彼の前に立つのは、黒衣の少年。
レイ・ノクト。
この場にいる全員が、その正体を知らない。
だが、知る必要もなかった。
昼間の一件で理解したのだ。
逆らってはいけない相手だと。
「まず名前だ」
レオンが淡々と言う。
「黒蛇の牙は終わりだ」
ガルドンが顔を上げる。
「へ、へい……では新しい名を……?」
レオンは数秒だけ黙った。
東の塔。
夜の闇。
それでも、そこに灯った小さな希望。
自分を捨てた世界へ返すための、最初の火。
「――暁の夜」
その言葉が落ちる。
部下たちはざわめいた。
「暁……なのに夜……?」
「矛盾してねぇか?」
「でもなんか格好いい……」
ヴァルガが頭の中で爆笑する。
『語感で押し切ったな!』
『静かに』
ノワールが即座に潰す。
ガルドンは感極まったように拳を握った。
「す、素晴らしい名です……!」
「意味は理解しているか」
「え?」
「していないな」
「すみません!」
レオンはため息をつく。
「夜の闇に生きる者たちが、朝焼けのように生まれ変わる。そういう意味だ」
その場の全員が、少しだけ目を見開いた。
荒くれ者たちの中に、妙な空気が流れる。
誰かが小さく呟いた。
「……お頭、案外いい人では?」
「黙れ」
「はい!」
即答だった。
「暁の夜は今日から、弱者を喰う組織ではない」
レオンの声が酒場に響く。
「人身売買禁止。薬物禁止。病人相手の高利貸し禁止。女と子どもに手を出すな」
「はい!」
「情報収集、護衛、運搬、裏の仲介で食え」
「はい!」
「破った者は?」
全員が震えながら叫ぶ。
「粛清です!!」
「よし」
満足げに頷いたのはヴァルガだった。
『お前じゃない』
イグニスが冷たく言う。
レオンは踵を返す。
「ガルドン」
「はっ!」
「明日までに王都裏社会の勢力図をまとめろ」
「す、勢力図……?」
「他の闇ギルドの拠点、人数、収入源、悪事の内容。全部だ」
ガルドンの顔色が青くなる。
「お、お頭……まさか」
「潰す」
短い一言だった。
だが熱量は凄まじい。
「王都の裏は、全部こちらで握る」
酒場が静まり返る。
誰もが思った。
この少年、本気だと。
そしてそれが、なぜか不可能に思えなかった。
「……了解しました、お頭!」
ガルドンが叫ぶ。
部下たちも続いた。
「了解です、お頭!!」
「王都制圧だぁぁ!!」
「うるさい」
レオンの一言で再び静寂になった。
そのまま、レオンはミーアを連れて酒場を出た。
夜風が心地よい。
ミーアは隣を歩きながら、何度も横顔を見てしまう。
「……見すぎだ」
「す、すみません」
「何だ」
「本当に、レオン様なんだなって……」
レオンは少しだけ黙った。
「今はレイ・ノクトだ」
「でも、困っている人を見ると放っておけないところは変わっていません」
「……違う」
「嘘が下手なのも変わってません」
レオンは顔を背けた。
その反応に、ミーアは少しだけ笑う。
懐かしい。
胸が熱くなる。
「お母様を治す」
突然、レオンが言った。
「え?」
「今夜だ」
ミーアの足が止まった。
「で、でも医者にも難しいと……」
「医者ではない」
レオンの胸元の白黒の羽ブローチが淡く光る。
ルミアの声が頭へ響いた。
『任せてください!』
ノワールも続く。
『死病でなければ問題ない』
ミーアの瞳に涙が滲んだ。
「……本当に?」
「疑うなら帰る」
「信じます!」
「即答だな」
「あなた様ですから」
その言葉に、レオンは何も返さなかった。
王都外れの借家。
扉を開けると、母親が咳き込んでいた。
ミーアが駆け寄る。
「お母さん!」
「ミーア……その子は?」
「恩人です」
レオンは短く頷き、寝台の前に立つ。
痩せ細った身体。
荒い呼吸。
長く苦しんできたのが一目でわかった。
「セレネ」
青い水晶が光る。
透明な水が母親の体を包み込んだ。
苦しげだった呼吸が少しずつ整っていく。
「ルミア」
白い光が胸元へ降り注ぐ。
濁っていた顔色が、ゆっくりと赤みを取り戻した。
母親の瞳が見開かれる。
「……息が、吸える……」
ミーアが口元を押さえた。
「ノワール」
黒い影が体内へ入り込み、病巣だけを絡め取るように消していく。
最後にイグニスの小さな炎が全身を温めた。
数秒後。
女性は自力で上体を起こしていた。
「……うそ……」
「お母さん……!」
ミーアが泣きながら抱きつく。
母親も涙を流しながら娘の背を撫でた。
「ミーア……ごめんね……」
「違う、違うよ……生きてくれてありがとう……!」
レオンは静かに背を向ける。
見てはいけない気がした。
だが、その横顔をミーアは見逃さなかった。
ほんの少しだけ。
本当に少しだけ。
優しい昔のレオン様の顔に戻っていた。
「レオン様」
ミーアが跪く。
「何だ」
「私はもう王城の侍女ではありません」
「知っている」
「それでも」
涙を拭い、真っ直ぐ見上げる。
「どうか、再び貴方様に仕えさせてください」
沈黙。
母親も息を呑んで見守っている。
レオンは数秒だけ考えた。
「……断れば?」
「ついていきます」
「断っている」
「では離れた場所から仕えます」
「面倒だな」
「はい」
「認める前提で返事をするな」
「昔からです」
ヴァルガが爆笑した。
『強ぇぇ!』
セレネも笑っている。
イグニスだけが静かだった。
『悪くない』
レオンは深く息を吐いた。
「条件がある」
「はい!」
「塔の存在は秘密だ」
「命に代えて守ります」
「軽々しく命を懸けるな」
「では人生で」
「もっと重い」
ミーアは泣き笑いのまま頷いた。
「それと、母親の面倒も見る」
「……はい」
「お前は塔と家を転移で往復しろ」
「え?」
「働くだろう」
「どこで?」
「俺の侍女としてだ」
ミーアの涙がまた零れた。
「……はい!」
東の塔。
転移陣が光る。
ミーアは息を呑んだ。
「ここが……」
「俺の家だ」
石壁の冷たさは変わらない。
だが今は灯りがあり、寝具があり、神霊たちの気配がある。
孤独の塔ではない。
秘密の城だった。
「ミーア!」
ルミアが飛びつく。
「今日から仲間です!」
「わ、妖精!?」
ノワールが静かに会釈する。
「騒がしい方が姉」
「姉じゃありません!」
ヴァルガは虎姿で胸を張る。
「俺は格好いい担当だ!」
「誰が決めた」
イグニスは短く言った。
「歓迎する」
セレネは微笑む。
「これで生活面が助かるわね」
「そこですか!?」
賑やかな声が塔へ響く。
ミーアは笑いながら泣いた。
この場所はもう、捨てられた塔ではない。
誰かが帰る場所になっていた。
その夜。
黒蛇の牙改め“暁の夜”から使者が来る。
「お頭」
ガルドンが地図を差し出した。
「王都裏社会の勢力図です」
赤い印がいくつも打たれている。
レオンはそれを見下ろした。
「次の標的は」
金の瞳が静かに光る。
「どこだ」
王家に捨てられた少年は今。
東の塔を拠点に、王都の闇を喰らい始める。




