第68話「反撃準備、無能王子は王城の闇に牙を向ける」
旧訓練路地には、まだ血の匂いが残っていた。
雨は降っていない。
けれど、空は重く曇っている。
灰色の雲が、学園の上に低く垂れ込めていた。
まるで、これから起きるものを知っているかのように。
石畳には戦闘の跡。
砕けた壁。
焼けた地面。
そして、黒装束たちが倒れていた場所には、白布がかけられている。
生徒たちはすでに避難させられた。
セルドも医務室へ運ばれた。
命に別状はない。
だが、心の傷は簡単には消えない。
レオンはその場に残っていた。
金属板を手にしたまま。
黒い紋章。
赤い目。
王城非公式粛清機関――赤眼。
それが、ついに学園の生徒へ手を伸ばした。
「……赤眼」
レオンは小さく呟く。
その声には温度がなかった。
怒りはある。
だが、燃え上がるような怒りではない。
冷えている。
深く、静かに。
エリシアは少し離れた場所で、金属板の写しを確認していた。
表情は硬い。
「本物ですわね」
彼女は低く言う。
「刻印の形、金属の加工、裏面の微細な認証術式……どれも噂に聞いていたものと一致します」
アルベルトが舌打ちした。
「噂に聞いていた、か」
「ええ」
エリシアは扇子を閉じる。
「実物を見る日が来るとは思いませんでしたわ」
「俺だってそうだ」
アルベルトは倒れた黒装束たちの方を見る。
顔には嫌悪が浮かんでいた。
「王城の裏側に、こういう連中がいるって話は聞いたことがあった。でも、ただの脅しだと思ってた」
「王族でも知らされないのですか」
リリアーナが不安げに尋ねる。
アルベルトは唇を噛んだ。
「知らねぇよ」
悔しそうだった。
「俺は……王子なのに、王城の汚いところを何も知らなかった」
その言葉は、誰かを責めるものではなかった。
自分自身へ向けられている。
王族として育った。
自分は選ばれた側だと思っていた。
平民を見下し、貴族であることを当然のように受け入れ、王城の判断を疑わなかった。
けれど今。
目の前にある現実は違う。
王城は、学園の生徒を脅した。
口封じのために自害させた。
噂を流し、内部対立を煽り、レオンを孤立させようとしている。
その全てが、アルベルトの知っていた“王城”を壊していく。
「……俺は」
アルベルトが小さく言う。
「何を見てたんだろうな」
リリアーナが何か言おうとした。
けれど、言葉が出なかった。
慰めていいのか分からない。
今のアルベルトには、簡単な言葉は逆に失礼な気がした。
その時、レオンが短く言った。
「見てなかっただけだ」
アルベルトが顔を上げる。
「……お前な」
「事実だ」
「もうちょい優しく言えねぇのかよ」
「必要か?」
「少しは必要だろ!」
アルベルトは怒鳴る。
だが、以前のような怒りではない。
少し救われたような怒りだった。
レオンは続ける。
「今見たなら、それでいい」
「……は?」
「知らなかったなら、これから知ればいい」
短い言葉。
それだけ。
だが、アルベルトは言い返せなかった。
厳しい。
不器用。
けれど、突き放してはいない。
そう分かるからこそ、余計に胸に残る。
「……ほんと、お前さ」
アルベルトは顔を逸らす。
「そういうところ、腹立つ」
「そうか」
「褒めてねぇぞ」
「分かっている」
エリシアが小さく笑った。
「今のは、殿下にしては良い反応でしたわ」
「お前はなんで上からなんだよ」
「事実ですもの」
「こいつら……」
少しだけ空気が緩んだ。
しかし、その空気はすぐに戻る。
ミーアが屋根の上から降りてきた。
黒い外套の裾に、わずかに雨粒がついている。
彼女は音もなく着地し、レオンの前で頭を下げた。
「レオン様」
「状況は」
「逃走した者たちの追跡は、途中で途切れました」
「回収されたか」
「はい」
ミーアの声は硬い。
「かなり手際が良いです。逃走経路も複数。痕跡消しの術式も高度です」
エリシアが眉を寄せる。
「王城直轄ですわね」
「少なくとも、それに準ずる訓練を受けています」
ミーアは続ける。
「ただし、ひとつだけ拾えました」
「何だ」
「逃走経路の途中に残されていた魔力残滓です」
ミーアは小さな透明容器を取り出した。
中には、黒紫色の微かな光が揺れている。
「これは?」
リリアーナが覗き込む。
ミーアは説明する。
「転移補助の痕跡です」
「転移……?」
「完全転移ではありません。短距離跳躍に近いものです」
エリシアが目を細めた。
「王都内で転移補助を使える場所は限られていますわ」
「ええ」
ミーアは頷く。
「暁の夜の地図と照合すれば、候補は絞れます」
レオンの目がわずかに鋭くなる。
「どこだ」
「王都東区画、旧貴族倉庫街」
一拍。
「現在は表向き廃棄区画ですが、裏では複数の隠し施設があります」
アルベルトが顔をしかめる。
「そこ、王城管理区域じゃなかったか?」
「昔はそうですわ」
エリシアが答える。
「現在は形式上、管理権が曖昧になっています。ですが、その“曖昧さ”を利用して裏組織が潜るには最適」
「つまり」
リリアーナが不安げに言う。
「赤眼の拠点が、そこにあるかもしれない……?」
「可能性は高いです」
ミーアが頷いた。
レオンは金属板を見つめる。
赤い目。
人を処理するための目。
王城の闇。
ここまで来た。
もう、放置はできない。
「……潰すか」
アルベルトが呟いた。
半分は怒り。
半分は不安。
だが、レオンはすぐには答えなかった。
「いや」
短く否定する。
「今はまだ潰さない」
「は?」
アルベルトが目を見開く。
「なんでだよ。相手は生徒を襲ったんだぞ」
「だからだ」
レオンは静かに言う。
「今すぐ潰せば、向こうは切り捨てる」
「……あ」
エリシアが理解する。
「証拠が消えますわね」
「ああ」
レオンは続ける。
「赤眼を潰すだけなら簡単だ」
「でも、それだと王城は関係を切る」
「現場の暴走で終わる」
ミーアが静かに頷く。
「王城本体へ届きません」
リリアーナは息を呑む。
レオンはそこまで考えている。
ただ怒っているだけではない。
ちゃんと、次を見ている。
「……じゃあ」
リリアーナが尋ねる。
「どうするんですか」
レオンは答えた。
「泳がせる」
短い一言。
だが重い。
「拠点を確認する」
「繋がりを探る」
「命令系統を掴む」
「その上で、王城が切れない形で潰す」
アルベルトが目を見開く。
「お前……」
「何だ」
「怖ぇな」
「そうか」
「褒めてる半分、引いてる半分だ」
「どうでもいい」
エリシアは満足そうに笑った。
「良い判断ですわ」
「ただし」
ミーアが少し声を硬くする。
「相手も、こちらが追うことは想定しているはずです」
「当然だ」
「罠の可能性が高いです」
「だろうな」
「それでも?」
レオンは即答する。
「行く」
リリアーナの表情が曇る。
「また、危ないことを……」
「危険なのは分かっている」
「だったら――」
「だから準備する」
レオンはリリアーナを見る。
「一人では行かない」
その一言で、リリアーナの目が大きく開いた。
「……え」
エリシアも少し驚いた顔をする。
アルベルトは口を開けたまま固まった。
ミーアだけが、静かに微笑む。
「レオン様」
「何だ」
「成長なさいましたね」
「子供扱いするな」
「いえ、大きな成長です」
「うるさい」
レオンは視線を逸らす。
リリアーナは胸が少し熱くなる。
少し前の彼なら、絶対に言わなかった。
一人で行く。
危ないから来るな。
それだけだった。
でも今は違う。
役割を作ろうとしている。
任せようとしている。
守られることを、少しずつ受け入れようとしている。
「……はい」
リリアーナは小さく頷く。
「わたし、行きます」
「まだ何も言っていない」
「でも、行くんですよね」
「……」
「じゃあ、わたしも準備します」
強い目だった。
震えてはいる。
怖いのも本当だ。
でも、逃げない。
エリシアも当然のように言う。
「わたくしも同行しますわ」
「お前は政治面だ」
「ですから必要でしょう?」
「……」
「反論がないなら決まりですわね」
アルベルトも剣を肩に担ぐ。
「俺も行く」
「お前は目立つ」
「今さらだろ」
「王子だぞ」
「お前も元王子だろ」
レオンが黙る。
アルベルトはにやりと笑った。
「珍しく勝ったな」
「うるさい」
リリアーナが少しだけ笑う。
緊張の中に、ほんの少しだけ温度が戻った。
だが、その時。
カティアが近づいてきた。
「代表」
「何だ」
「勝手に学園外へ出るつもりなら、許可は出しません」
「……聞いていたのか」
「教師ですので」
「便利な耳だな」
「必要です」
カティアは真剣な顔だった。
「赤眼の拠点候補を調べること自体は必要でしょう」
「しかし、生徒だけで動くことは認めません」
アルベルトが眉を寄せる。
「じゃあどうすんだよ」
「学園側の公式調査として動きます」
エリシアが少し目を開く。
「それは……かなり強い手ですわね」
「ええ」
カティアは頷く。
「王城側が“学園外での事故”として処理しようとしているなら、こちらは“学園襲撃事件の延長調査”として動きます」
「なるほどな」
アルベルトが頷く。
「先生がいると、こういうとこ助かるな」
「ようやく気づきましたか」
「嫌味か!?」
「事実です」
エリシアが小さく笑う。
「先生、同行者は?」
「私」
カティアは即答する。
「それと警備教師二名」
「さらに学園長へ報告し、正式許可を取ります」
レオンは少しだけ目を細める。
「動きが大きくなる」
「隠密行動はミーアさんに任せればよろしいでしょう」
ミーアが静かに頭を下げる。
「承知しました」
「こちらは表から行く」
カティアの声は強い。
「あなたたちは、もう“個人の問題”ではありません」
その言葉に、レオンは黙った。
個人の問題ではない。
学園が巻き込まれている。
生徒が狙われている。
王城と学園の衝突になり始めている。
それを、レオンは理解している。
だからこそ、動く必要がある。
「……分かった」
短く答える。
カティアが少しだけ目を細めた。
「素直ですね」
「面倒だからな」
「素直ではありませんでした」
「どっちだ」
リリアーナが小さく笑った。
その笑いが、少しだけ場を和ませる。
けれど。
次の瞬間、ミーアが鋭く空を見上げた。
「……見られています」
全員の空気が変わる。
「どこだ」
レオンが問う。
ミーアは学園中央塔の方角を見る。
「上空」
「黒い鳥です」
エリシアの顔が険しくなる。
「またですの」
レオンも視線を向ける。
遠く。
塔の屋根の上空。
黒い鳥が一羽、旋回していた。
普通の鳥に見える。
だが違う。
目が、こちらを見ている。
『主』
ノワールの声が低くなる。
『あれ、魔導生物』
「ああ」
『壊す?』
「いや」
レオンは静かに言う。
「返す」
「返す?」
アルベルトが聞き返す。
次の瞬間。
レオンの足元から、影がすっと伸びた。
ノワールの影。
それは地面を這い、壁を登り、屋根へ、さらに空へ。
普通なら届くはずのない場所へ、闇の糸のように伸びていく。
黒い鳥が一瞬だけ羽ばたいた。
逃げようとした。
だが遅い。
影が鳥の足を掴む。
その瞬間。
レオンは低く呟いた。
「伝えろ」
黒い鳥の目が、不気味に光る。
「見ているだけなら見ていろ」
一拍。
「次に生徒へ手を出したら、こちらから行く」
影が鳥を離す。
黒い鳥は大きく羽ばたき、空へ消えていった。
誰も言葉を出せなかった。
アルベルトがぽつりと言う。
「……宣戦布告じゃねぇか」
「そうだ」
レオンは即答した。
空気が震える。
リリアーナが息を呑む。
エリシアが静かに扇子を閉じる。
ミーアは、少しだけ誇らしそうに目を伏せる。
レオンは曇った空を見上げた。
もう、奪われる側ではない。
王城が闇を差し向けるなら。
こちらも闇へ踏み込む。
無能王子は。
ついに、王城の影へ牙を向けた。




