第50話「医務室の静寂、無能王子は守られる側を知らない」
学園医務室。
白いカーテンが、風に揺れていた。
窓の外では、いつも通りの学園が動いている。
中庭を歩く生徒たち。
遠くから聞こえる授業開始の鐘。
教師たちの声。
何も知らない者たちにとって、今日は少し騒がしい日でしかない。
だが医務室の中には、先ほどまでの戦場の匂いが残っていた。
消毒薬。
血。
焦げた布。
そして、張り詰めた沈黙。
「……問題ない」
ベッドに座らされたレオンは、開口一番そう言った。
医務室担当の女性教師が、眉間に皺を寄せる。
「まだ何も診ていません」
「診なくていい」
「診ます」
「不要だ」
「必要です」
会話は噛み合っていないようで、完全に噛み合っていた。
レオンは逃げたい。
医務教師は逃がす気がない。
その横でカティアが腕を組んでいた。
「代表」
「何だ」
「諦めなさい」
「教師が生徒に諦めを教えるのか」
「場合によります」
「今がその場合か」
「はい」
即答だった。
レオンは静かに息を吐く。
「面倒だ」
「その言葉を一日に何度聞けばいいのでしょうね」
「数えるな」
「数えたくなるほど言っています」
医務教師は手際よく傷の確認を進めていく。
制服の袖。
肩。
脇腹。
頬。
見た目に大きな怪我はない。
だが、細かな切り傷や打撲はある。
特に拳には赤みが残っていた。
ヴァイスナーの剣とぶつかった時の負荷。
常人なら骨が砕けていてもおかしくない。
「……本当に、何をしたらこうなるんですか」
医務教師が呆れたように言う。
「少し戦った」
「少し?」
カティアの声が低くなる。
「二階廊下が半壊していましたが」
「相手が悪かった」
「相手もそう思っているでしょうね」
その時、医務室の扉が勢いよく開いた。
「レイさん!」
リリアーナだった。
息を切らしている。
その後ろにエリシア。
さらに、少し遅れてアルベルトも入ってきた。
「走るな」
レオンが言う。
リリアーナは肩で息をしながら、即座に返した。
「今それを言うんですか!?」
「事実だ」
「レイさんの方が心配される側です!」
「怪我はない」
「嘘です!」
リリアーナは珍しく声を強くした。
医務室の空気が少しだけ止まる。
彼女自身も、自分の声に驚いたように唇を押さえた。
けれど、引かなかった。
「さっき、拳が赤くなってました。肩も少し動きが違います。あと、顔色も悪いです」
「……よく見ているな」
「見ます」
即答だった。
「心配だからです」
その言葉に、レオンは返せなかった。
エリシアが静かに入ってくる。
「同意ですわ」
「お前までか」
「当然です。貴方は、自分が倒れる寸前まで平然と“問題ない”と言う種類の人間ですもの」
「偏見だ」
「観察結果ですわ」
アルベルトが腕を組む。
「俺もそう思う」
「お前は黙れ」
「なんで俺だけ雑なんだ!」
「日頃の行いですわね」
エリシアが即答する。
「それ昨日も言われたぞ!」
「改善が見られませんもの」
リリアーナが少しだけ笑った。
張り詰めていた空気が、ほんの少し緩む。
だが、すぐに彼女は真剣な顔へ戻った。
「……本当に、大丈夫なんですか」
「大丈夫だ」
「じゃあ、ちゃんと診てもらってください」
「……」
「そこは黙らないでください」
レオンは面倒そうに目を逸らす。
リリアーナは一歩近づいた。
「レイさん」
「何だ」
「守ってくれたのは、分かっています」
声が少しだけ震える。
「でも、守られる側にも、怖さはあるんです」
レオンの視線が戻る。
「目の前で誰かが傷ついて、それでも何もできなくて、ただ見ているだけしかできない時」
リリアーナは両手を握りしめた。
「すごく、怖いです」
沈黙。
レオンはすぐに答えなかった。
その言葉は、思った以上に深く刺さった。
守る側。
自分はそう決めていた。
守られなかったから。
誰も来なかったから。
だから今度は自分が行くのだと。
だが、守られる側の怖さ。
それを、彼は考えたことがなかった。
いや。
知っていたはずだ。
東の塔で。
助けを待っていた時。
誰も来ないことが、どれほど寒いか知っていたはずだ。
リリアーナは続ける。
「だから、お願いします」
深く頭を下げる。
「自分を大事にしてください」
医務室に、静けさが落ちた。
カティアも、エリシアも、アルベルトも、何も言わない。
レオンだけが、ゆっくりと息を吐く。
「……努力する」
短い言葉。
だが、彼にしてはかなり大きな譲歩だった。
リリアーナが顔を上げる。
「本当ですか?」
「たぶん」
「そこは絶対って言ってください!」
「無理だ」
「無理じゃないです!」
少しだけ、また空気が柔らかくなる。
エリシアが扇子を開く。
「では、わたくしたちで見張ればいいのでは?」
「何をだ」
「貴方が無茶をしないように」
「必要ない」
「必要ありますわ」
「却下だ」
「却下は却下です」
カティアが頷く。
「良い案です」
「教師まで乗るな」
「代表は監視対象として非常に優秀です」
「それは褒めているのか」
「いいえ」
「なら言うな」
アルベルトが腕を組んで鼻を鳴らす。
「俺も見張ってやる」
「一番不要だ」
「おい!」
「お前はまず自分を見張れ」
「ぐっ……それは……否定しづらい」
素直になったせいで反論が弱い。
エリシアが小さく笑った。
「成長しましたわね、殿下」
「子供扱いするな」
「では、大人らしく負傷者の運搬を手伝ってきてくださいませ」
「今やってきた!」
「なら偉いですわ」
「……急に褒めるな。調子が狂う」
医務教師がレオンの拳へ薬を塗る。
ひんやりとした感触に、レオンはわずかに眉を動かした。
「痛みますか?」
「別に」
「痛むんですね」
「痛まない」
「痛まない人は眉を動かしません」
今日は誰も彼を信用しない日らしい。
処置が終わるまでの間、医務室には不思議な空気が流れていた。
戦闘直後の緊張。
王城への不安。
それでも、確かに存在する日常の温度。
レオンはふと、窓の外を見た。
中庭。
日差し。
生徒たち。
守った場所。
守り切ったはずの場所。
だが、もう安全ではない。
王城が手を伸ばしてきた。
捕獲命令。
学園内部への侵入。
今後、同じようなことがまた起こる。
いや、もっと悪くなる。
そう考えた時。
医務室の扉が、今度は静かに開いた。
「失礼します」
入ってきたのは、学園長だった。
白髪混じりの老紳士。
穏やかな表情。
だが、その目は深く鋭い。
カティアがすぐに姿勢を正す。
「学園長」
「そのままで構いません」
学園長は倒れた生徒たちの処置状況を確認し、最後にレオンへ視線を向けた。
「レイ・ノクト君」
「何だ」
カティアが額を押さえる。
「代表、学園長です」
「知っている」
「なら言葉遣いを」
「今さらだ」
学園長は静かに笑った。
「構いません。噂通りですね」
「どの噂だ」
「面倒くさがりで、強くて、教師泣かせ」
「最後は違う」
カティアが即答した。
「合っています」
「先生」
「事実です」
学園長は笑みを収める。
空気が変わった。
「本題に入りましょう」
医務室が静かになる。
「本日、王城関係者が学園内で武装行動を行いました」
言葉は丁寧。
だが重い。
「これは、学園への明確な干渉です」
エリシアが扇子を閉じる。
「王城へ抗議なさるのですか」
「します」
即答だった。
「ただし、それだけでは足りません」
学園長はレオンを見る。
「レイ君。君は、狙われています」
「知っている」
「それでも学園に残りますか」
リリアーナが息を呑む。
エリシアも表情を硬くする。
アルベルトは拳を握った。
その問いは重い。
残れば、学園が危険になる。
離れれば、自分だけは危険を遠ざけられるかもしれない。
普通なら迷う。
だがレオンは、少しも迷わなかった。
「残る」
短い答え。
学園長は静かに問う。
「理由は」
「ここを狙われた」
「ええ」
「なら、ここで折る」
医務室の空気が震えた。
守るために逃げるのではない。
守るために、ここで迎え撃つ。
その意思が、言葉になっていた。
学園長はしばらくレオンを見つめた。
「……カティア先生」
「はい」
「この生徒は、非常に扱いづらいですね」
「はい」
「即答か」
レオンが言う。
カティアは澄ました顔で返す。
「事実です」
学園長は穏やかに笑った。
「ですが、悪くない」
そして表情を引き締める。
「学園は、君を王城へ引き渡しません」
その一言で、全員の空気が変わった。
リリアーナの目が大きく開く。
エリシアが静かに息を吐く。
アルベルトが驚いたように学園長を見る。
「学園長、それは王城に逆らうということですか」
アルベルトが問う。
学園長は穏やかに答えた。
「殿下。学園は王国の機関であると同時に、学び舎です」
声は静か。
だが芯がある。
「生徒を守れない学園に、存在価値はありません」
レオンの胸の奥が、わずかに揺れた。
存在価値。
守れるかどうか。
自分が王へ投げつけた言葉と同じ根にあるものだった。
「ですので、方針を決めます」
学園長は告げる。
「王城へ正式抗議」
「学園内の全警備強化」
「教師陣による監視者洗い出し」
「そして――」
一拍。
「レイ・ノクト君を中心とした、特別防衛班を設置します」
沈黙。
レオンが眉を寄せる。
「面倒だ」
「でしょうね」
学園長は笑う。
「ですが、君が一番状況を理解している」
「断る」
「却下です」
カティアが即座に言った。
レオンがそちらを見る。
「お前が言うのか」
「はい」
「教師の権限か」
「担任の権限です」
リリアーナが一歩前へ出る。
「あの……」
少し緊張している。
だが、目は逃げていない。
「わたしも、入れてください」
レオンが即座に言う。
「駄目だ」
「嫌です」
「危険だ」
「知っています」
「なら――」
「それでもです」
声が震える。
だが、はっきりしている。
「守られるだけは、もう嫌です」
沈黙。
その言葉に、レオンはすぐに返せなかった。
エリシアも扇子を閉じたまま前へ出る。
「わたくしも参加しますわ」
「お前まで」
「当然です」
「理由は」
「面白そうだから」
「却下だ」
「というのは半分冗談です」
「半分か」
「残り半分は、わたくし自身の意思です」
エリシアの瞳が真剣になる。
「王城のやり方は気に入りません。公爵家の娘としても、学園の生徒としても、見過ごせませんわ」
アルベルトも前へ出る。
「俺も入る」
全員が見る。
「何だよ」
「いや」
レオンが言う。
「意外だな」
「俺は王子だ」
アルベルトは胸を張る。
だが、以前とは違う。
「王城のやり方が間違っているなら、王族が見て見ぬふりをするわけにはいかない」
その言葉に、エリシアが少しだけ目を細めた。
「……少し見直しましたわ」
「少しかよ」
「かなり、に訂正しても構いませんわ」
「ならそうしろ!」
リリアーナが小さく笑う。
レオンは三人を見る。
リリアーナ。
エリシア。
アルベルト。
それぞれが、それぞれの意思で立っている。
守られるだけではない。
共に立つと言っている。
それは、少し怖いことだった。
自分の戦いに巻き込むということだから。
だが、同時に。
少しだけ、心強いことでもあった。
「……好きにしろ」
レオンは短く言った。
リリアーナの顔が明るくなる。
「はい!」
エリシアは満足そうに微笑む。
「賢明ですわ」
アルベルトは鼻を鳴らす。
「最初からそう言え」
「うるさい」
学園長が静かに頷く。
「では、決まりですね」
カティアが書類を取り出す。
「代表、防衛班設立にあたり、まずは現状把握からです」
「今からか」
「当然です」
「医務室でか」
「貴方が逃げない場所ですので」
「……」
完全に包囲されている。
レオンは深く息を吐いた。
「面倒だ」
だが、その声は以前ほど拒絶ではなかった。
医務室の白いカーテンが、また風に揺れる。
王城は動いた。
学園も動く。
そして、無能王子は。
今度は一人ではなく、仲間と共に。
守るための戦いへ踏み出そうとしていた。




