第49話「捕獲命令の代償、無能王子は学園で王の手を折る」
東校舎、二階中央廊下。
戦いは終わった。
割れた窓から入り込む風が、廊下に溜まった熱を少しずつ外へ逃がしていく。
床には黒衣の侵入者たちが倒れている。
壁には戦闘の痕跡。
砕けた石材。
焦げた床。
切り裂かれた柱。
そして、廊下の奥では、王城影部隊第二席を名乗った男――ヴァイスナーが、壁にもたれたまま座り込んでいた。
胸元の鎧は砕けている。
剣は手元にない。
呼吸は荒く、立ち上がる力も残っていない。
それでも、その目だけは死んでいなかった。
「……捕獲命令、失敗か」
ヴァイスナーが低く笑う。
乾いた声だった。
「王に報告したら、さぞ面白い顔をされるだろうな」
レオンは答えない。
ただ、静かに歩み寄った。
足音が、砕けた硝子の上で小さく鳴る。
リリアーナは、負傷した生徒たちを背に庇いながら、その背中を見つめていた。
エリシアは結界を維持したまま、視線だけを鋭くする。
アルベルトは剣を握りしめていた。
誰も油断していない。
ヴァイスナーは敗れた。
だが、王城の影部隊第二席。
最後の最後に何かを仕掛けてきてもおかしくない。
「レイさん……」
リリアーナの声が、小さく漏れた。
止めたいわけではない。
ただ、心配だった。
レオンは振り返らず言う。
「下がっていろ」
「……はい」
今度は、素直に頷いた。
自分が前に出る場面ではない。
それが分かるようになっていた。
悔しさはある。
けれど、今すべきことは別にある。
彼女は短杖を握り直し、結界内の生徒たちへ声をかける。
「動ける方は、壁際へ。怪我をしている方は無理をしないでください。大丈夫です。もう、終わりましたから」
声は震えている。
けれど、前よりずっと強い。
怯えている生徒たちは、その声に少しずつ落ち着きを取り戻していった。
エリシアが横目で見る。
「……随分、頼もしくなりましたわね」
「え?」
「何でもありません」
エリシアは扇子を開きかけて、今は必要ないと判断して閉じた。
「結界を維持します。貴女は負傷者の確認を」
「はい!」
その短いやり取りを、アルベルトが複雑な顔で見ていた。
「……お前ら、いつの間にそんな連携できるようになったんだ」
「殿下が怒鳴っている間にですわ」
「おい!」
「今は怒鳴る時間ではありません」
「ぐっ……それはそうだが!」
言い返しながらも、アルベルトは前を見る。
今は自分も守る側だ。
その役割を、もう放り出すつもりはなかった。
レオンはヴァイスナーの前で足を止めた。
「立てるか」
「立てと言われれば、努力はする」
「いらない」
「なら聞くな」
ヴァイスナーは苦笑する。
その表情には、敗北の悔しさと、どこか諦めにも似た納得が混ざっていた。
「強いな、君は」
「そうか」
「謙遜しないのか」
「事実を言っただけだろう」
「……なるほど。そういうところは、確かに王族らしい」
空気がわずかに変わる。
リリアーナの手が止まる。
エリシアの目が細くなる。
アルベルトは歯を食いしばった。
レオンの表情は変わらない。
だが、廊下の温度だけがほんの少し下がった。
「その名で呼ぶなと言った」
「今は呼んでいない」
「同じだ」
「厳しいな」
「忠告はした」
ヴァイスナーは軽く肩をすくめようとして、胸の痛みに顔をしかめた。
「……っ。まったく、加減がうまいのか下手なのか分からない」
「死なないようにはした」
「それは助かった。だが、しばらく剣は握れそうにない」
「握るな」
「命令か?」
「忠告だ」
短い応酬。
だが、その裏にある緊張は濃い。
ヴァイスナーは、レオンの目をじっと見た。
「君は、分かっているのか」
「何を」
「ここで私を倒した意味だ」
ヴァイスナーの声が低くなる。
「私は王城影部隊第二席。公には存在しない部隊だが、王の手足として動く者。その私を、学園内で、教師や生徒たちの前で倒した」
廊下の空気が重くなる。
「これはただの防衛では終わらない」
「知っている」
「王は黙っていない」
「だろうな」
「次はもっと強引に来るかもしれない」
「来ればいい」
即答。
ヴァイスナーは一瞬、言葉を失った。
「……本当に、怖くないのか」
「怖いかどうかで決めていない」
「では何で決める」
レオンはわずかに視線を動かした。
結界内の生徒たち。
負傷者を支えるリリアーナ。
周囲を警戒するエリシア。
剣を握って立つアルベルト。
「守る必要があるかどうかだ」
短い言葉。
けれど、それだけで十分だった。
ヴァイスナーは小さく息を吐く。
「……王城には、向かない考え方だ」
「知っている」
「王は利用価値で人を見る」
「だろうな」
「君は違う」
「同じにするな」
レオンの声が低くなった。
初めて、わずかな怒りがにじむ。
「人を道具として数える考え方は嫌いだ」
「王家に生まれた者の言葉とは思えない」
「だから捨てた」
その一言に、全員が息を呑んだ。
捨てた。
王族であることを。
王家の名を。
過去を。
レオンは、はっきりそう言った。
リリアーナは胸が締めつけられるようだった。
その言葉に、どれだけの痛みがあるのか。
想像するだけで苦しい。
エリシアは唇を噛んでいた。
昔の自分は、彼が捨てるしかなかった場所の側にいた。
何も知らず。
何も言えず。
ただ、遠ざかった。
その事実が、今さら胸に刺さる。
アルベルトは俯きそうになった。
だが、踏みとどまった。
今は逃げない。
兄かもしれない男の言葉を、聞かなければならない。
「……捨てたって」
アルベルトが低く言う。
「簡単に言うなよ」
レオンが視線を向ける。
アルベルトは顔を上げた。
「王族であることが、全部嫌だったのかよ」
問いは荒い。
だが、いつものような見下しではない。
自分自身にも向いている問いだった。
レオンは少しだけ黙る。
そして答える。
「嫌いだ」
容赦のない答え。
アルベルトの肩が揺れる。
だがレオンは続けた。
「だが、王族として教わったもの全部が無意味だったとは言わない」
「……何?」
「民を守れ。弱い者へ手を伸ばせ。自分の力を誇るな。そう教えられた記憶はある」
それは幼い頃の記憶。
まだ父が、父だった頃。
「だから腹が立つ」
レオンの目が冷える。
「教えた本人たちが、それを捨てたことに」
静寂。
誰も言葉を出せない。
アルベルトは、拳を強く握った。
父が教えたはずのもの。
王家が掲げるはずのもの。
それがいつから歪んだのか。
いや、最初から歪んでいたのか。
今のアルベルトには分からない。
ただ、初めて考えていた。
王族とは何か。
守るとは何か。
自分は今まで何をしていたのか。
「……俺は」
アルベルトが言いかける。
だが、言葉が続かない。
レオンはそれを遮らなかった。
待ちもしなかった。
ただ前を向く。
「考えろ」
短く言う。
「答えは自分で出せ」
アルベルトは歯を食いしばる。
「……言われなくても」
その声は、以前よりずっと小さい。
けれど、確かに前へ向いていた。
その時、廊下の奥から複数の足音が響いた。
「全員その場を動くな!」
教師たちだった。
先頭にはカティア。
その後ろに数名の教員と、学園警備兵。
カティアは廊下の惨状を見るなり、眉間に深い皺を寄せた。
「……代表」
「何だ」
「説明を」
「襲撃だ」
「それは見れば分かります」
「なら説明不要だ」
「必要です」
「面倒だ」
「今それを言う場面ですか」
「いつも言っている」
「誇らないでください」
こんな状況でも、二人の会話はどこかいつも通りだった。
そのせいか、怯えていた生徒たちの表情が少しだけ和らぐ。
カティアは倒れている黒衣たちを確認し、ヴァイスナーの前で足を止めた。
「……王城の影ですか」
その一言で、周囲の教師たちがざわつく。
「影……?」
「王城直属の?」
「なぜ学園に……」
カティアは冷静だった。
だが、目は怒っている。
「ヴァイスナー卿」
「久しいな、カティア・エルンスト」
「このような再会は望んでいませんでした」
「私もだ」
「では、なぜ学園で剣を抜いたのです」
ヴァイスナーは沈黙する。
命令だった。
だが、それを口にすれば王城の責任になる。
言わなければ、自分の暴走になる。
どちらに転んでも厄介だ。
カティアはその沈黙だけで理解した。
「代表を捕らえに来ましたね」
「……」
「沈黙は肯定と取ります」
カティアの声は冷たい。
普段の減点だ何だと言う教師ではない。
学園を預かる者として、怒っていた。
「ここは王城の実験場ではありません」
強い声だった。
「生徒は物ではありません」
レオンが少しだけカティアを見る。
その言葉は、先ほど自分が感じていたものと同じだった。
カティアはヴァイスナーへ視線を戻す。
「この件は、学園長へ報告します。王城へも正式抗議を出します」
「……学園が王城へ抗議か」
ヴァイスナーが苦笑する。
「随分と強気だ」
「当然です」
カティアは即答する。
「私の生徒に手を出したのですから」
その言葉に、レオンは一瞬だけ目を伏せた。
私の生徒。
それだけの言葉。
だが、今の彼には少しだけ重かった。
王城では道具として見られた。
捕獲対象として見られた。
けれど、この教師は違う。
レイ・ノクトを、生徒として見ている。
それが、少しだけ胸の奥を温かくした。
「代表」
「何だ」
「怪我は」
「ない」
「本当に?」
「ない」
「嘘なら医務室で検査します」
「ない」
「即答が速いですね」
「面倒だからな」
「では後で検査です」
「なぜだ」
「信用できないからです」
リリアーナが小さく笑った。
緊張がほどけた笑いだった。
エリシアも少しだけ肩の力を抜く。
「先生、わたくしも同意しますわ。レイ様は自分の怪我を隠しますもの」
「隠していない」
「隠します」
「なぜ断言する」
「顔です」
「またそれか」
リリアーナも頷く。
「わたしも分かります」
「お前もか」
「はい」
アルベルトが腕を組んで言う。
「俺も分かるぞ」
「お前は黙れ」
「なんで俺だけ扱いが雑なんだ!」
「日頃の行いですわね」
エリシアが即座に言った。
「おい!」
廊下に、ほんの少しだけ笑いが戻った。
戦場だった場所に、日常の欠片が戻る。
それを見て、ヴァイスナーは壁にもたれたまま静かに呟いた。
「……なるほどな」
レオンが視線を向ける。
「何だ」
「君が守る理由が、少し分かった気がする」
「そうか」
「羨ましいな」
意外な言葉だった。
ヴァイスナーは視線を天井へ向ける。
「王城には、こういう空気はない」
その言葉に、誰もすぐには返せなかった。
カティアが警備兵へ指示する。
「侵入者を拘束。負傷者は医務室へ。生徒たちを安全な教室へ移動させなさい」
「はっ!」
教師たちが動き出す。
リリアーナも負傷者を支えようとするが、ふらついた。
魔力を使いすぎている。
レオンが手を伸ばし、肩を支える。
「無理をするな」
「……レイさんにだけは言われたくないです」
「なぜだ」
「さっきまで一番無理してました」
「していない」
「してました」
「していない」
「してました」
少しだけ睨む。
だが、その目には涙が浮かんでいた。
「本当に……無事でよかったです」
小さな声。
レオンは言葉を返せなかった。
ただ、手を離さずに支える。
エリシアがそれを見て、ほんの少しだけ目を細める。
胸の奥に、ちくりとしたものが走る。
嫉妬。
そう認めるには、まだ少し早い。
だが否定するには、あまりにも明確だった。
「……わたくしも、少し疲れましたわ」
ぽつりと呟く。
レオンが見る。
「お前も休め」
「命令ですの?」
「提案だ」
「なら、受け取っておきますわ」
エリシアは微笑む。
少しだけ弱い笑みだった。
アルベルトは剣を鞘に戻した。
「……俺は残る」
全員が見る。
「何だ」
レオンが問う。
「こいつらを運ぶ。教師たちだけじゃ手が足りない」
珍しい申し出だった。
エリシアが少し驚いた顔をする。
「殿下が?」
「悪いか」
「いえ」
彼女は少しだけ笑う。
「良いと思いますわ」
「……そうかよ」
アルベルトは照れくさそうに視線を逸らす。
レオンは少しだけ見て、短く言った。
「頼む」
アルベルトが固まった。
「……は?」
「頼むと言った」
「聞こえた! 聞こえたが……お前が俺に頼むのか」
「嫌ならいい」
「嫌じゃない!」
声が大きい。
周囲の生徒がびくっとする。
アルベルトは咳払いした。
「……任せろ」
その言葉は、以前のような空威張りではなかった。
少しぎこちない。
けれど、確かに自分の役割を引き受ける声だった。
カティアがその様子を見て、小さく頷いた。
「では、代表。貴方は医務室へ」
「不要だ」
「却下です」
「……便利に使うな」
「便利なので」
完全に逃げ道はなかった。
レオンはため息をつく。
「面倒だ」
「生きている証拠です」
「そういうものか」
「そういうものです」
事件は終わった。
だが、終わっていない。
王城の手は学園へ伸びた。
その手は折られた。
代償として、学園は王城と正面から向き合うことになる。
レオンは医務室へ向かいながら、廊下の窓から外を見る。
学園の中庭。
青い空。
生徒たちの声。
守ると決めた場所。
王はそこへ手を伸ばした。
なら、もう遠慮はいらない。
『主』
イグニスの声が響く。
『次はどうする』
レオンは目を細める。
「決まっている」
短く。
静かに。
「王の手を、二度とここへ届かせない」
その言葉は、誰にも聞こえないほど小さかった。
だが神霊たちは聞いていた。
そして理解した。
無能王子は、守るために動き出す。
受け身ではなく。
今度は、自分から。
王城へ。




