第5話「偽名レイ・ノクト、再会の街角」
朝だった。
東の塔に、朝日は差さない。
高い石壁に囲まれ、鉄格子の窓から細い光が落ちるだけの場所に、本来“朝”など存在しない。
だが、今日だけは違った。
冷たく澱んでいた空気が、どこか柔らかい。
石床に落ちる光も、昨夜までより明るく見える。
何より――レオン自身が、もう以前のレオンではなかった。
薄い毛布の上で目を開く。
体が軽い。
重く沈んでいた倦怠感は消え、胸の奥には四つの力が巡っている。
炎。
水氷。
風雷。
光闇。
神霊との契約によって得た神力が、血流のように全身を流れていた。
「起きたか」
イグニスの低い声。
「寝顔かわいかったです!」
ルミアが飛び込んでくる。
「近い」
「拒否します!」
「意味がわからない」
ノワールが影で回収した。
「朝から騒音」
「愛情です!」
「騒音」
ヴァルガが床を転がって笑う。
「外行こうぜ! 街! 飯! 自由!」
セレネがくすりと笑った。
「その前に鏡を見なさい」
ノワールが影から鏡を差し出す。
レオンは受け取り、覗き込み――止まった。
「……誰だ」
「またそれです!」
鏡の中の少年は、塔へ押し込められたやつれた王子ではなかった。
漆黒の髪は艶を取り戻し、毛先に淡い金銀の光。
右眼は深い蒼。
左眼は淡く輝く金。
頬の痩せは消え、顔立ちは整い、幼さの中に鋭さが宿る。
王族の気品と、どこにも属さぬ冷たさ。
その両方を持つ顔だった。
「……目立つな」
「感想そこですか!?」
ルミアが叫ぶ。
「格好いいわよ」
セレネが微笑む。
「見せたくない」
ノワールが即答した。
「誰に」
「全員」
「重いな」
レオンは鏡を置いた。
胸の奥に奇妙な感覚があった。
これが自分なのか。
魔力零と蔑まれ、価値なしと捨てられた王子。
その姿は、もう鏡の中にいない。
「……ちょうどいい」
「何がだ?」
ヴァルガが首を傾げる。
レオンは静かに言った。
「レオンハルト・フォン・アルディアは、東の塔で死んだ」
誰も茶化さなかった。
「これから外へ出るのは、別人でいい」
その言葉は、自分自身への決別だった。
レオンは部屋を見回した。
石壁。
鉄格子。
粗末な寝台。
食事を差し込まれる小窓。
泣いた夜も、怒った夜も、諦めた夜も、この部屋にあった。
憎むべき場所。
だが同時に、生き延びた場所でもある。
「……さよなら、か」
錆びた鉄扉を押し開ける。
軋んだ音が、牢の終わりを告げた。
階段を上る。
一段ずつ。
絶望を数えた階段を、今日は自由へ向かって上る。
最上階の扉を開けた。
風が吹き込む。
眩しい。
思わず目を細めた。
青空だった。
どこまでも続く、本物の空。
鉄格子越しではない。
切り取られた空ではない。
「……これが、外か」
「おう! 世界だ!」
ヴァルガが笑う。
「おかえりなさい」
セレネが柔らかく言った。
ルミアは泣いていた。
「感動ですぅ……!」
ノワールは静かに羽を畳む。
イグニスが告げる。
「進め、レオン」
屋上の古い転移陣へ手を置く。
神力を流し込む。
神霊たちの姿が淡く揺らいだ。
「私たちは隠れる」
ノワールの声。
右手甲に炎の紋章。
耳元に青い水晶。
腰には牙飾り。
胸元には白黒の羽ブローチ。
「秘匿される存在だからな」
イグニスが言う。
「便利だな」
「今さらかよ!」
ヴァルガが笑う。
光が弾け、景色が揺れた。
次の瞬間――王都の裏路地だった。
石畳。
人の声。
焼きたてのパンの香り。
生きた街の匂い。
レオンは空を見上げる。
「……うるさいな」
「街だからな!」
表通りへ出る。
商人が声を張り上げ、子どもが走り、旅人が笑う。
誰も自分を見ない。
誰も無能王子とは呼ばない。
その事実が、妙に胸へ沁みた。
パンを買う。
熱い。
うまい。
串焼きを買う。
香辛料が効いている。
果物を買う。
甘い。
「全部うまいな……」
「世界って最高だろ!」
「お前の手柄ではない」
古着屋で黒い外套と平民服を買う。
店主の老婆が目を細めた。
「あんた、いいとこの坊ちゃんだろ」
「違う」
「その顔で?」
「……違う」
外套を羽織る。
王子の姿は消えた。
旅人の少年だけが残る。
「名が必要ね」
セレネが言う。
少し考え、レオンは口を開いた。
「……レイ・ノクト」
「かっこいいです!」
「似合う」
神霊たちがそれぞれ反応する。
その頃――
王都の裏通り、古びた借家。
「……ごほ、ごほっ……」
寝台の上で、女性が苦しそうに咳き込んでいた。
ミーアは慌てて背をさする。
「お母さん、大丈夫?」
「平気よ……少し息が……」
平気なはずがない。
日に日に痩せていく背中。
浅くなる呼吸。
薬が切れれば夜も眠れない。
「今日、必ず薬を買ってくるから」
「無理しないで……」
「するよ」
即答だった。
母を助けるためなら、いくらでも無理をする。
塔専属侍女だった頃の生活など、遠い昔だ。
東の塔へ送られた少年の世話役。
周囲は罰だと笑った。
終わった王子の相手だと蔑んだ。
でもミーアは知っている。
あの少年は、誰より優しかった。
「ミーア、これ半分食べるか」
「レオン様の分でしょう?」
「一人で食べるとおいしくない」
菓子を半分こにする王子など、他にいなかった。
侍女にも丁寧に礼を言う王子など、他にいなかった。
だから十歳のあの日。
魔力零と告げられ、塔へ閉じ込められる姿を見た時。
何もできなかった自分を、今でも許せない。
食事に手紙を忍ばせようとして解雇された。
その後、母が倒れた。
仕事もなく、金もなく、借りた金は膨れ上がり――今に至る。
「……レオン様」
窓の外を見る。
今日も空は青い。
あの人も見ているのだろうか。
まだ、生きているのだろうか。
胸が痛んだ。
ミーアは仕事へ出た。
荷運び。
皿洗い。
掃除。
何でもやった。
昼になっても金は足りない。
それでも、黒蛇の牙との約束の時間は来る。
裏路地へ向かった。
三人の男が待っていた。
「おせぇな」
「す、すみません……これが今日の分です」
袋を差し出す。
男が中身を見て鼻で笑った。
「足りねぇ」
「でも……」
「身体で払えば帳消しにしてやるよ」
「やめてください!」
腕を掴まれる。
恐怖で体が震える。
叫んでも無駄だと知っている。
誰も助けてくれない。
男の手が振り上げられる。
目を閉じた、その瞬間。
風が吹いた。
鋭く、澄んだ風。
次の瞬間、男の体が壁へ叩きつけられていた。
「……え?」
路地の入口に、一人の少年が立っていた。
黒い外套。
左右色違いの瞳。
立っているだけで空気が変わる。
「三人で一人にか」
静かな声。
「随分と立派だな」
その声に、ミーアの心臓が止まりそうになる。
懐かしい。
ありえない。
でも。
少年がこちらを見る。
昔の顔ではない。
昔の瞳でもない。
なのに。
人を見る時の優しさだけは、変わっていなかった。
ミーアの瞳に涙が溢れる。
「……レオン様」
少年の肩が、わずかに止まった。
レオンはゆっくりと振り返る。
数秒の沈黙。
そして、少しだけ困ったように眉を寄せた。
「……人違いだ」
その不器用な誤魔化し方まで、昔のままだった。
ミーアは泣き笑いになる。
「嘘が下手です」
レオンは何も答えない。
ただ、昔と同じように。
困っている人を守るため、そこに立っていた。




