第47話「名を呼ぶな、無能王子は守る場所で怒りを隠さない」
東校舎、二階中央廊下。
砕けた窓から、冷たい風が入り込んでいた。
床には割れた硝子。
倒れた机。
怯えて動けない生徒たち。
壁際には、意識を失った黒衣の侵入者たちが転がっている。
だが、空気は緩まない。
むしろ、先ほどよりも重くなっていた。
廊下の奥。
黒衣の男が一人、静かに立っている。
今までの侵入者とは明らかに違った。
剣を抜いた姿に無駄がない。
呼吸が乱れていない。
目が冷えている。
命令を遂行するだけの兵ではない。
この男は、自分の意思でここにいる。
そして、確信を持ってその名を呼んだ。
「レオンハルト・フォン・アルディア」
その名が、廊下に残る。
空気が凍る。
リリアーナは息を呑んだ。
エリシアは扇子を握る手に力を込める。
アルベルトは剣を構えたまま、目を見開いている。
誰もが聞いた。
誰もが理解した。
その名は、この国の第一王子のものだ。
魔力ゼロと判定され、東の塔へ幽閉されたはずの。
王家から消されたはずの。
無能王子の名。
レオンだけが、動かなかった。
ただ目を細める。
冷たい金の光が、わずかに揺れた。
「……その名前で呼ぶな」
静かな声。
怒鳴ってはいない。
だが、その一言で廊下の空気が沈む。
黒衣の男は薄く笑った。
「嫌なのか」
「忠告だ」
「名を呼ぶなと?」
「そうだ」
「では、何と呼べばいい」
男は剣先をわずかに下げ、わざとらしく首を傾ける。
「レイ・ノクトか」
沈黙。
「それとも、東の塔の亡霊か」
リリアーナの肩が震えた。
その言葉には棘がある。
ただ正体を暴くための言葉ではない。
抉るための言葉。
傷を知っていて、その上から踏みつける言葉だ。
「……あなた」
リリアーナが一歩出ようとする。
だがレオンが手だけで制した。
「下がれ」
「でも……!」
「下がれ」
二度目。
短い。
だが拒絶ではない。
守るための声だと、リリアーナには分かった。
悔しそうに唇を噛み、半歩だけ下がる。
エリシアが静かに口を開いた。
「貴方、王城の者ですわね」
黒衣の男が目を向ける。
「公爵令嬢エリシア・フォン・ローゼンベルクか」
「答えなさい」
「その口調、父君によく似ている」
「余計なことですわ」
エリシアの声が鋭くなる。
普段の余裕はある。
だが、その奥に明確な怒りがあった。
「学園内で生徒を傷つけ、王城の名を盾に動く。これが陛下の命令だと言うのなら、随分と下品な手ですわね」
黒衣の男は笑わない。
「命令は捕獲だ」
「捕獲?」
「レイ・ノクトを生きたまま連れ帰る」
場の空気が変わる。
捕獲。
その言葉が、あまりにも人間扱いしていない。
リリアーナの顔色が変わる。
「人を……なんだと思ってるんですか」
震える声。
けれど、消えない。
黒衣の男は淡々と答えた。
「価値ある対象だ」
レオンの瞳がさらに冷える。
「価値」
「そうだ」
男は剣を構え直す。
「魔力ゼロでありながら異常な戦闘能力を持つ。学園では首席。黒牙団を制圧した可能性もある。東の塔に秘された力との関連も疑われる」
一つずつ並べる。
「王にとって、調べる価値がある」
「つまり道具か」
「王国のためなら、個人の意思など些末なものだ」
アルベルトが歯を食いしばった。
「……ふざけるな」
低い声だった。
黒衣の男が視線だけ向ける。
「アルベルト殿下」
「俺は、そんな命令を聞いていない」
「殿下へ伝える必要はありません」
「何?」
「これは陛下直属の判断です」
その言葉に、アルベルトの顔が歪む。
自分は王子だ。
だが知らされていない。
父は、自分を通さずに動かした。
いや――通す価値がないと思ったのかもしれない。
その屈辱が、胸に刺さる。
だが今、怒りの矛先は違った。
アルベルトは剣を握り直す。
「ここは学園だ」
「承知しています」
「なら、生徒を巻き込むな」
「必要な犠牲です」
「必要じゃない!」
怒号。
廊下が震える。
レオンが横目でアルベルトを見る。
以前なら、その言葉は出なかっただろう。
平民はどうでもいい。
弱い者は下がっていろ。
そう言っていたはずの弟が、今は生徒を守る側に立っている。
遅い。
だが、変わっている。
「……アルベルト」
「何だ!」
「邪魔するな」
「お前なぁ!」
「だが」
一拍。
「生徒を守れ」
アルベルトは言葉を止めた。
短い命令。
いや、役割。
信頼ではない。
まだそこまではいかない。
けれど、任された。
それが分かる。
「……言われなくてもやる」
「ならいい」
レオンは前へ出る。
エリシアが声をかけた。
「無茶はなさらないで」
「無茶ではない」
「貴方の“無茶ではない”は信用できませんわ」
「なら見るな」
「見るに決まっています」
即答だった。
その声に、わずかな震えが混じっていた。
エリシア自身、それに気づいて少しだけ目を伏せる。
「……わたくしは、まだ貴方に聞かなければならないことがありますもの」
レオンは答えない。
リリアーナも一歩前に出る。
「レイさん」
「何だ」
「わたしも、守ります」
「下がれと言った」
「下がります。でも、逃げません」
言葉の違い。
それが彼女の成長だった。
レオンは少しだけ目を細める。
「好きにしろ」
「はい」
リリアーナは短杖を握り、負傷した生徒たちの前に立つ。
エリシアがその横へ並ぶ。
「わたくしが結界を張ります。リリアーナ様、負傷者の移動を」
「はい!」
「殿下は前方警戒を」
「俺に命令するな!」
「ではお願いですわ」
「……最初からそう言え」
アルベルトが前へ出る。
妙な連携。
だが悪くない。
黒衣の男はその様子を見て、わずかに眉を上げた。
「仲間か」
「違う」
レオンは即答する。
「守る対象だ」
「同じことだ」
「違う」
「では何が違う」
男が問いながら、剣を構える。
レオンもまた、ゆっくりと手を下ろした。
「守る対象は、俺の意思で決める」
静かな声。
「王に決めさせるものじゃない」
その瞬間。
黒衣の男が踏み込んだ。
速い。
先ほどの兵たちとは比べものにならない。
床を蹴る音より先に、剣が届く。
首を狙う一閃。
捕獲命令とは矛盾するほど鋭い。
だがレオンは半身を引くだけでかわした。
剣先が制服の襟を掠める。
「ほう」
男の目が光る。
「反応したか」
「遅い」
レオンの拳が腹へ向かう。
男は剣の柄で受ける。
衝撃。
受けたはずの男の腕が痺れ、身体が後ろへ滑った。
「……重いな」
「軽く打った」
「その言い方は腹が立つ」
「事実だ」
男が姿勢を低くする。
「私は王城影部隊、第二席、ヴァイスナー」
「聞いていない」
「名乗りは礼儀だ」
「捕獲に来た相手へ礼儀か」
「それもそうだ」
ヴァイスナーが笑う。
その笑みは冷たいが、どこか戦いを楽しんでいるようでもあった。
「では、礼儀は捨てよう」
次の瞬間、彼の姿が揺れた。
一人ではない。
三人に見える。
幻影。
いや、魔力で生み出した残像。
廊下の左右へ広がり、同時に斬りかかってくる。
リリアーナが叫ぶ。
「レイさん!」
レオンは動かない。
『ノワール』
『右が本体』
「分かっている」
右から来た剣へ、手を伸ばす。
素手で掴んだ。
金属音。
剣が止まる。
ヴァイスナーの目が見開かれる。
「素手で……!」
「見せ技だな」
レオンの声は冷たい。
「本物の殺気が薄い」
「……なるほど」
ヴァイスナーが剣を引こうとする。
抜けない。
レオンの握力が、刃を完全に押さえている。
「放せ」
「命令か」
「要請だ」
「却下だ」
次の瞬間、レオンの膝がヴァイスナーの腹へ入った。
鈍い音。
ヴァイスナーが床を転がる。
だがすぐ立つ。
強い。
ただの兵ではない。
受け身も完璧。
呼吸もすぐ戻す。
「……噂以上だ」
「お前は噂以下だ」
「辛辣だな」
「事実だ」
ヴァイスナーが懐から小さな魔導具を取り出した。
黒い輪。
拘束具。
魔力を封じるためのものだ。
「魔力封じか」
レオンが言う。
「そうだ」
「俺に効くと思うのか」
「試す価値はある」
ヴァイスナーが魔導具を投げる。
輪が空中で増え、四方からレオンへ迫る。
同時に、廊下の奥でまだ動ける黒衣の兵が二人、リリアーナたちへ向かった。
「そちらか」
レオンの瞳が冷える。
自分を捕まえるだけではない。
周囲を人質に取るつもりだ。
リリアーナが土壁を展開する。
「行かせません!」
だが相手は速い。
土壁を蹴って上を越える。
エリシアが風刃で軌道を変える。
「甘く見ないでくださいまし!」
アルベルトが炎剣で一人を押し返す。
「俺を無視するな!」
それでも、もう一人が負傷した生徒へ手を伸ばす。
その瞬間。
廊下の空気が凍った。
「触るな」
レオンの声。
低い。
今までより、明確に怒っていた。
空中の拘束具が、全て停止する。
ノワールの影が絡みつき、砕く。
ルミアの光が弾け、兵の視界を奪う。
レオンが踏み込む。
瞬間、兵の懐へ。
掌底。
胸。
吹き飛ぶ。
壁へ激突し、意識を失う。
もう一人はアルベルトが剣で押さえ込んでいた。
「こいつは俺がやった!」
「見れば分かる」
「少しは褒めろ!」
「後でな」
「後で絶対だぞ!」
妙なやり取りに、リリアーナが一瞬だけ笑いそうになる。
だがすぐに表情を引き締め、負傷者を結界内へ入れる。
エリシアが小さく息を吐く。
「本当に、忙しい方ですわね」
「お前もな」
「今、褒めました?」
「事実だ」
「それで十分ですわ」
ヴァイスナーが立ち上がる。
表情が変わっていた。
余裕が薄い。
「レイ・ノクト」
「何だ」
「貴方は、なぜそこまで他人を守る」
問い。
戦闘中にもかかわらず、声には本気があった。
「逃げればいい」
ヴァイスナーは続ける。
「力があるなら、身を隠せばいい。王城も学園も捨てればいい。東の塔に戻り、誰にも関わらなければ生き延びられる」
沈黙。
「なのに、なぜ守る」
レオンは少しだけ目を伏せた。
東の塔。
一人だった日々。
誰も来なかった。
誰も守らなかった。
誰も手を伸ばさなかった。
だからこそ――
「知っているからだ」
静かに言う。
「誰も来ない場所の寒さを」
リリアーナの胸が締めつけられる。
エリシアが息を止める。
アルベルトも、言葉を失う。
「だから」
レオンは顔を上げた。
「俺が行く」
たったそれだけ。
だが、その言葉には彼の全てがあった。
ヴァイスナーは数秒黙り、そして苦笑した。
「……王城には向かない考えだ」
「知っている」
「だが」
剣を構え直す。
「嫌いではない」
「そうか」
「それでも命令は命令だ」
「なら来い」
レオンの足元に、淡い炎が灯る。
イグニスの力。
まだ刀にはしない。
だが熱が廊下を満たす。
「次で終わらせる」
ヴァイスナーが腰を落とす。
影部隊第二席。
王城の精鋭。
その全力が、今ここで放たれる。
リリアーナたちは息を呑み。
エリシアは扇子を握り。
アルベルトは剣を構え直した。
そしてレオンは、一歩前へ出る。
守る場所を踏みにじられた無能王子は。
もう、怒りを隠す気がなかった。




