第40話「帰る場所、無能王子は名前を捨てても守りたいものがある」
第40話「帰る場所、無能王子は名前を捨てても守りたいものがある」
王城の外に出た瞬間、空気が変わった。
重かった。
押し潰されるような圧。
息をすることすら許されない場所。
それが、背後に閉じられる。
代わりに流れ込んできたのは、夜の空気だった。
少し冷たい。
だが――生きている空気だった。
「……はぁ」
カティアが大きく息を吐いた。
「本当に寿命が縮みました」
「同感だ」
レオンも短く返す。
「よくあの場であそこまで言えますね」
「言わないと気が済まなかった」
「そういう問題ではありません」
「そうか」
「そうです」
だがカティアの声は怒っていなかった。
むしろ――少しだけ誇らしそうだった。
レオンは夜空を見上げる。
星が見える。
東の塔で見ていた星と同じだ。
だが、今は違う。
あの時は一人だった。
今は――
「帰るか」
短く呟く。
その言葉に、カティアが少しだけ目を細めた。
「帰る場所があるのですね」
「ある」
「いいことです」
それだけ言って、カティアはそれ以上踏み込まなかった。
王城から離れ、馬車を使わず歩く。
静かな夜道。
灯りの下を通るたび、影が伸びる。
『主』
イグニスの声。
『少し荒れているな』
「そうか」
『珍しい』
『めちゃくちゃ荒れてる』
『心の中ぐちゃぐちゃだぞ』
「黙れ」
図星だった。
抑えているだけだ。
東の塔で学んだ。
感情は、外に出すと弱くなる。
だから閉じる。
だが。
完全には消えない。
母の言葉。
父の目。
“無能”。
あの言葉は、今でも残っている。
「……面倒だな」
ぽつりと漏れる。
その時だった。
「レイさん!」
声。
聞き慣れた声。
反射的に顔を上げる。
そこにいたのは――
リリアーナだった。
「……何してる」
「待ってました」
即答だった。
その後ろにはエリシア。
少し離れてアルベルト。
さらに少し後ろに、ミーアの姿もあった。
「全員か」
「当然ですわ」
エリシアが腕を組む。
「呼び出された以上、ただで帰すわけがないでしょう」
「何の話だ」
「心配していたのです」
ストレートだった。
リリアーナが一歩近づく。
「……どうでしたか」
小さな声。
だが、逃げない。
レオンは少しだけ視線を逸らす。
「面倒だった」
「それだけですか」
「それだけだ」
「嘘です」
即答。
レオンが目を細める。
「なぜだ」
「顔が違います」
リリアーナは真っ直ぐ見ていた。
「さっきと違う」
言葉が詰まる。
その一瞬で、全部見抜かれる。
「……問題ない」
「問題あります」
強い声だった。
前に出る。
「無事だったのは分かります。でも、それだけじゃない」
胸の奥を見ようとしてくる。
逃げ場がない。
エリシアが口を開く。
「王城で何があったのですか」
「何もない」
「ではなぜ、そんな顔をしているのです」
「どんな顔だ」
「――帰りたくなかった場所から戻ってきた顔です」
核心だった。
レオンが少しだけ息を止める。
ミーアが静かに言う。
「……レオン様」
その呼び方。
全員が一瞬だけ反応する。
レオンは視線を向ける。
ミーアは頭を下げる。
「お帰りなさいませ」
ただそれだけ。
だが。
それだけで。
胸の奥にあった冷たいものが、少しだけ緩む。
帰る場所。
それがここにある。
リリアーナがさらに近づく。
「レイさん」
「何だ」
「約束、覚えてますか」
「何の」
「帰ってきたら、お礼を言うって」
少しだけ笑う。
だが目は真剣だ。
「ちゃんと言わせてください」
息を吸う。
「助けてくれて、ありがとうございました」
頭を下げる。
深く。
「守ってくれて、ありがとうございます」
静寂。
レオンは何も言わなかった。
言えなかった。
東の塔では、誰にも言われなかった言葉。
価値がないと言われ続けた人間に向けられたことのない言葉。
それが、今、目の前にある。
「……当然だ」
やっと出た言葉は、それだった。
だが。
声が少しだけ低かった。
エリシアがため息をつく。
「本当に不器用ですわね」
「うるさい」
「素直に受け取ればいいものを」
「受け取っている」
「態度に出ていません」
「必要ない」
「あります」
軽口。
だが、そのやり取りが少しだけ空気を軽くする。
アルベルトが腕を組んだまま言う。
「……王城で、何かあったんだろ」
「さっきも言った」
「それじゃ足りない」
視線を向ける。
逃げない。
変わった。
確実に。
「……名前を呼ばれた」
短く言う。
全員が止まる。
「レオンハルト・フォン・アルディア」
空気が凍る。
リリアーナの手が震える。
「それって……」
「知らないな」
即座に否定。
だが、遅かった。
エリシアが静かに言う。
「やはり、そうでしたのね」
確信。
ミーアは目を伏せる。
アルベルトは何も言わない。
ただ、拳を握る。
「……どうするんですか」
リリアーナが問う。
「何が」
「もし本当に――」
言いかけて止まる。
言えない。
だが分かっている。
レオンは答えた。
「何も変わらない」
短く。
「俺は俺だ」
それだけ。
だが。
その言葉は重かった。
リリアーナの目が揺れる。
「……はい」
信じる。
その一言だった。
エリシアも小さく頷く。
「どんな身分であろうと、実力は変わりませんもの」
「当然だ」
アルベルトが呟く。
「……ああ、変わらねぇ」
その声は悔しさと、少しの誇りが混ざっていた。
レオンは空を見上げる。
星が見える。
東の塔で見ていた星と同じだ。
だが今は違う。
一人じゃない。
帰る場所がある。
守るものがある。
「……帰るぞ」
短く言う。
誰も否定しない。
その言葉は、全員にとって同じ意味を持っていた。
帰る。
それは――
ただの移動ではない。
選んだ場所へ戻るということだった。
その夜。
王城では静かに命令が下されていた。
「東の塔を調べろ」
「はっ」
「レイ・ノクトの周囲もだ」
重臣たちが動き出す。
王は玉座に座ったまま、目を閉じる。
「生きていたか……」
その呟きに、感情はなかった。
あるのは、計算だけ。
そして。
王妃は窓の外を見ていた。
「……あの子」
ほんの一瞬だけ。
何かを思い出しかけて。
すぐに消した。
無能王子は帰ってきた。
だがそれは――
王国にとって、最悪の再来だった。




