第39話「王の圧、無能王子は価値を問う」
謁見の間に、その名が落ちた。
「レオンハルト・フォン・アルディア」
重臣たちのざわめきが、波のように広がる。
あり得ない。
東の塔へ幽閉されたはず。
魔力ゼロの無能王子。
王家の恥。
もう表舞台に出ることなどないはずの名。
その名を呼ばれた少年は、赤い絨毯の上で動かなかった。
逃げない。
怯えない。
膝もつかない。
ただ、玉座に座る国王を見据えていた。
「……何の話だ」
静かな声だった。
王の名指しを、否定した。
謁見の間にいた者たちの空気がさらに凍る。
「陛下の御前で白を切るか」
重臣の一人が声を荒げる。
「無礼であるぞ!」
レオンはそちらを見た。
たった一瞥。
それだけで、重臣の言葉が止まる。
視線が冷たい。
ただ冷たいだけではない。
そこには、他人の肩書きに一切怯まない者の静けさがあった。
「無礼?」
レオンが短く問う。
「証拠もなく名を押しつけることは、礼にかなっているのか」
「なっ……!」
重臣の顔が赤くなる。
カティアが隣でわずかに息を吐いた。
止めるべきか。
だが、止めれば逆に弱く見える。
この場では、下手に庇うよりも、レオン本人が立ち続ける方がいい。
そう判断している顔だった。
玉座の国王グランディア・フォン・アルディアは、怒ってはいなかった。
笑ってもいない。
ただ、観察していた。
まるで珍しい魔獣でも見るように。
「声も似ている」
国王が言う。
「目も似ている」
低い声が、謁見の間全体へ響く。
「だが、あの頃よりずっと冷たい」
レオンの胸の奥がわずかに軋む。
あの頃。
幼い頃。
父に褒められた記憶がある。
剣の素振りを褒められた。
本を読んだことを褒められた。
民へ優しくしろと教えられた。
その父が、今は玉座の上から自分を試している。
レオンは、その記憶ごと切り捨てるように口を開いた。
「人は変わる」
「そうだな」
国王は頷く。
「無能でも、長く生きれば変わるか」
その言葉で、空気が変わった。
無能。
その二文字は、この場の誰もが知る過去を掘り返す刃だった。
王妃セレスティナがゆっくりと立ち上がる。
白磁のような肌。
冷たい美貌。
昔と変わらない。
いや、昔よりさらに遠い存在になっていた。
「見苦しいわね」
王妃の声は、冬の刃のようだった。
「その顔。その瞳。その立ち方。忘れるはずがないでしょう」
一歩。
玉座の隣から降りる。
「なぜ生きているのかしら」
母の言葉ではなかった。
迷子の子にかける声でもない。
死んだはずの不用品が戻ってきたことへの、不快感。
それだけだった。
レオンの指が、わずかに動く。
胸の奥で、十歳の少年がまだ泣いている。
どうして。
母上。
なぜ何も言ってくれないのですか。
なぜ、目を逸らすのですか。
なぜ――
『主』
セレネの声がする。
優しく、深く。
『戻って』
レオンは小さく息を吸った。
今ここにいるのは、あの日の少年ではない。
東の塔で死んだ王子ではない。
レイ・ノクト。
自分で選んだ名で立つ者だ。
「人違いだ」
短く言い切る。
王妃の眉が動いた。
「その強情さは似ているわ」
「知らないな」
「本当に可愛げがない」
「可愛がられた記憶もない」
謁見の間が、凍った。
カティアが横で一瞬だけ目を見開く。
アルベルトも息を呑んだ。
王妃の顔から、完全に表情が消える。
「……今、何と言ったの」
「聞こえなかったか」
レオンは一歩も退かない。
「可愛がられた記憶がないと言った」
それは、ただの反論ではない。
傷だった。
十年近く閉じ込めてきたものが、ほんの一瞬だけ刃になって出た。
王妃の唇がわずかに震える。
怒りか。
動揺か。
それとも、ほんのわずかな罪悪感か。
レオンにはわからない。
わかりたくもなかった。
「レイ・ノクト」
国王が口を開く。
あえて偽名で呼ぶ。
場の空気を再び支配する声。
「ならば問おう」
玉座の上で、王は肘をつく。
「お前は何者だ」
「学園の生徒だ」
即答。
「それだけか」
「一年A組代表らしい」
「らしい?」
「勝手に任された」
カティアが小さく咳払いした。
「正式な任命です」
「そうらしい」
この場で教師と生徒のようなやり取りをする二人に、重臣たちは困惑する。
だが、国王は目を細めた。
「学園首席」
「そうだな」
「順位戦一位」
「そうらしい」
「校外実習で黒牙団副頭領を制圧」
「学生を守っただけだ」
「そして王都南区画の騒動にも、奇妙なほど早く関わっている」
カティアの目が鋭くなる。
レオンは無表情のままだ。
「何の話だ」
「とぼけるか」
「知らないものは知らない」
王が初めて、薄く笑った。
「よい。今はそれでよい」
“今は”。
その含みを、レオンは聞き逃さない。
国王は続ける。
「お前は魔力を持たぬはずだった」
謁見の間が静まり返る。
「魔力ゼロ。王族としてあり得ぬ欠陥」
重臣の何人かが頷く。
その価値観が、この国の常識だからだ。
「だが、レイ・ノクトとして現れたお前は、学園の天才たちを圧倒した」
王の視線が刺さる。
「何を得た」
空気が重くなる。
神力。
神霊。
東の塔。
それらを知られるわけにはいかない。
レオンは静かに答えた。
「時間だ」
「時間?」
「一人で考える時間。本を読む時間。鍛える時間。何もない場所で、何かを積み上げる時間」
それは嘘ではない。
東の塔で得たのは、神力だけではない。
孤独と引き換えに、思考する時間を得た。
誰にも期待されない代わりに、誰にも縛られない目を得た。
国王はじっと見ていた。
「それで王子に勝ったと?」
「王子が弱かった」
アルベルトの顔が赤くなる。
だが、以前のように怒鳴らなかった。
唇を噛みしめるだけだった。
その変化に、レオンは少しだけ気づく。
国王も気づいたのだろう。
わずかに不快そうな目をした。
「アルベルト」
「……はい」
「お前はこの男に何度負けた」
残酷な問いだった。
謁見の間で、王族の敗北を問う。
重臣たちの前で。
父の前で。
アルベルトの拳が震える。
「……三度以上」
「声が小さい」
「何度も、負けました」
その言葉を絞り出した瞬間、アルベルトの顔が悔しさで歪む。
だが逃げなかった。
レオンは黙っていた。
国王は冷たく言う。
「情けない」
アルベルトの肩が跳ねた。
「王族が、どこの馬の骨とも知れぬ者に敗北を重ねるとは」
それは、かつてレオンへ向けられた目と同じだった。
価値がない者を見る目。
レオンの中で、何かが冷たく動いた。
「違うな」
声が落ちる。
重臣たちが一斉に見る。
国王も目を細めた。
「何が違う」
「敗北は恥ではない」
レオンは玉座を見据えたまま言う。
「負けて立ち上がらないことが恥だ」
沈黙。
アルベルトの目が見開かれる。
まさか、レオンが自分を庇うようなことを言うとは思っていなかった。
「俺に負けたことを責めるなら、次にどう立つかを見ろ」
静かだが、強い声。
「負けた事実だけで切り捨てるなら、測っているのは人ではなく結果だけだ」
国王の顔から表情が消える。
「王の前で説教か」
「違う」
「なら何だ」
「事実だ」
その一言で、謁見の間に緊張が走る。
国王とレオン。
父と子。
過去に捨てた者と、捨てられた者。
その二人の視線がぶつかる。
「面白い」
国王が低く言う。
「では、お前にとって人の価値とは何だ」
試しの問い。
だがレオンにとっては、ずっと胸の奥にあった問いだった。
魔力ゼロなら価値がないのか。
王族でなければ価値がないのか。
家が落ちれば価値がないのか。
弱ければ、貧しければ、泣いていれば、踏まれて当然なのか。
答えはもう出ている。
「守れるかどうかだ」
短い言葉。
王妃が笑う。
「甘いわね」
「そうか」
レオンは否定しない。
「だが、それができる者は少ない」
一歩、前へ出る。
玉座の間で。
王の前で。
「強い者が弱い者を踏むだけなら、獣と変わらない」
重臣の何人かが息を呑む。
「強い者が弱い者を守れるから、人は国を作る」
カティアは黙っていた。
だがその目には、静かな驚きがあった。
「王とは、玉座に座る者ではない」
レオンの声が、謁見の間に響く。
「守るべき者を見捨てない者だ」
その瞬間。
空気が完全に止まった。
王を否定した。
真正面から。
国王グランディアの目が、恐ろしく冷たくなる。
それでもレオンは退かない。
王妃が低く言う。
「不敬ね」
「そう聞こえたなら、そうなのだろう」
「認めるの?」
「言葉は受け取る側のものだ」
「……本当に憎らしい子」
その声に、ほんの少しだけ感情が混じった。
レオンは聞かなかったことにした。
国王は長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「レイ・ノクト」
「何だ」
「お前をしばらく観察する」
重臣たちがざわめく。
「陛下!」
「危険です!」
「正体不明の者を放置など――」
「黙れ」
一言。
すべて黙る。
王の圧だった。
「学園に戻れ」
国王は告げる。
「代表として働け。実力を示せ。価値を示せ」
その目は、玩具を見る目ではない。
完全な敵を見る目でもない。
もっと厄介なもの。
利用できるかを測る目。
「そして、いずれもう一度ここへ来い」
レオンは黙っていた。
「その時、お前が何者かを決めてやる」
その言葉に、レオンの瞳が冷えた。
「俺が何者かは」
静かに言う。
「俺が決める」
再び沈黙。
国王の口元が、わずかに歪んだ。
「なら証明してみせろ」
「言われなくても」
レオンは背を向ける。
カティアが一礼し、後へ続く。
重臣たちはまだざわついている。
王妃は無言でレオンの背中を見つめていた。
アルベルトは、拳を握ったまま動けない。
その胸に残っていたのは、屈辱ではなかった。
なぜだ。
なぜ、あの男は王の前でも退かない。
なぜ、父上の前で言い切れる。
なぜ――
あの背中は、こんなにも遠い。
大扉が閉まりかけた瞬間。
国王の声が、もう一度だけ響いた。
「レオンハルト」
足が止まる。
レオンは振り返らない。
「生きていたか」
ほんの一瞬。
それは、父の声に聞こえた。
だがもう遅い。
十歳のあの日。
その一言をくれていれば、何かが違ったかもしれない。
だが今さら。
今さら、遅すぎる。
「人違いだ」
レオンはそう答えた。
扉が閉まる。
謁見の間の圧が、ようやく遠ざかる。
長い廊下へ出た瞬間、カティアが大きく息を吐いた。
「……寿命が縮みました」
「俺もだ」
「本当に?」
「少しだけ」
「珍しく素直ですね」
「疲れた」
カティアは少しだけ笑った。
だがすぐに真面目な顔へ戻る。
「代表」
「何だ」
「貴方が誰であっても、学園では私の生徒です」
レオンは足を止めた。
「問題を起こしたら叱ります」
「そこか」
「そこです」
「……そうか」
少しだけ、胸の奥の冷たさが薄れる。
王城の外へ出る。
夜風が吹いた。
王都の灯りが見える。
東の塔とは違う光。
学園の方角。
リリアーナたちが待つ場所。
ミーアが待つ塔。
暁の夜が守る夜。
レオンは空を見上げる。
過去はまだ終わらない。
王家もまた、こちらを逃がす気はない。
だが。
「……戻るか」
帰る場所がある。
それだけで、今は十分だった。
そして玉座の間では。
国王グランディアが、閉じた扉を見つめていた。
「面白い」
王妃セレスティナは冷たく言う。
「あの子は危険です」
「危険だから面白い」
「陛下」
「東の塔を調べろ」
重臣たちが息を呑む。
「それと、レイ・ノクトの周囲もだ」
国王の目が細くなる。
「学園、没落伯爵家の娘、公爵令嬢、そして……王都南区画の夜」
その言葉に、アルベルトが顔を上げた。
王はすでに、何かを掴みかけている。
「生きていたなら」
国王は低く呟く。
「使い道はある」
その声に、父の温度はなかった。
あるのは、王としての冷酷な計算だけ。
レオンハルト・フォン・アルディア。
捨てられた第一王子。
彼の帰還は、王国そのものを揺らし始めていた。




